高森顕徹会長の70年の布教を根底から覆す「念仏のみぞまことにておわします」
本日の高森顕徹会長の話は、前回の続きで「オカシナ話」に対する「オカシクナイ話」をしたようです。その「オカシクナイ話」として
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」を親鸞聖人は一生涯教えられた
ということでした。
言葉としては確かに間違ってはいませんが、意図することは間違っています。それは「念仏のみぞまことにておわします」の部分です。
高森会長の70年間の話は、『なぜ生きる2』11章にもあるように
無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。
です。要するに「念仏さえ称えていれば良いのだ」が間違いだと言い続けてきたのが、高森会長です。これと「念仏のみぞまこと」との整合性についてまともに説明したことがありません。
念仏とは阿弥陀仏の本願(18願)のことだ
と反論するのが関の山でしょうが、18願のことを念仏往生の願と親鸞聖人は仰っているのです。この念仏も18願なら、18願往生の願が18願という訳の判らない話になります。念仏往生の願とは、そのまま「念仏称えて往生する願」です。
訳の判らない、日本語も不自由な高森会長と会員のために、「念仏のみぞまこと」の根拠を教えてあげます。
『教行信証』行巻に
また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。
(現代語訳)
また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ
「念仏成仏これ真宗」は親鸞聖人が作られたお言葉ではないので、「真宗」は宗派の意味ではありません。
親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」というお言葉を好まれて度々使われています。
『浄土和讃』には
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ(現代語訳)
念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、
さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。
真実と方便を分けることなく、
真実の浄土を決して知ることはできない。
とありますし、『入出二門偈』には
善導和尚、義解していはく、念仏成仏する、これ真宗なり。
(現代語訳)
善導大師は、念仏の教えを解釈していわれている。念仏によって仏のさとりを開く、これこそが真実の教えです。
とあります。
結論は「念仏のみぞまこと」とは、念仏称えて仏になるという教えのみが真実の教えだということで、高森会長の70年間の布教を根底から覆すお言葉だということです。
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コメント
これまでは、板書で
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなし」で解説していました。いつもどうしてかなと思いながら、物足りなく思ってました。
ようやく付け加わりましたか。
今後の展開に期待したいです。
それ以上に「なぜ生きる」の言葉を定着させるよう執念を燃やしているのではないかと想像しています。
阿弥陀仏の18願文を深く味わいたく思います(本願成就文も併せて)
なんまんだぶ ありがたい
投稿: 立ち読み人 | 2019年2月27日 (水) 09時30分
断章主義というやつですね
投稿: | 2019年2月28日 (木) 23時34分
一度だけ念仏に言及したとき、「あんな格好悪いもの言えるか」と言われたことは忘れられない。
それ故
念仏は避けるか、本願念仏に変化し、本願に話が変わってしまう。
念仏は何処かえ行ってしまう。
お釈迦さんも説きれないから、蓮如上人は無上甚深と教えられているからの説明は有るが、
それ以上の説法は無いに等しい。
今回も、念仏は出てきても、説明があったかどうかは極めて疑わしい。
従来から一貫して避けられてきた。
朝夕のお勤めの正信偈は、本来正信念仏偈だ。
親鸞聖人は念仏の抜けた正信偈は意図していなかったはず。
なんまんだぶ なんまんだぶ
投稿: | 2019年3月 2日 (土) 08時13分
一言で言うと「念仏称えたら誰でも簡単に往生できる」という意味ですか?
投稿: | 2019年3月 4日 (月) 14時04分
最後の名無し様
一言で言えばそれで良いですが、当然、補足説明をしないと親鸞会から突っ込みが入るでしょう。
投稿: 飛雲 | 2019年3月 4日 (月) 21時31分
お聖教にそう書いてあるし、本願寺もその様に言っていると言えばどうですか?
信心が正因だと突っ込まれると思いますが、どう補足すれば良いですか?
自力の信心ではダメだと言われると思います。
他力の信心にはどうすればなれるのですか?
真剣に聴聞する事だと言い返されると思います。
やはり、・・・・・で分からなくなります。
本願を深く信じて何も考えずにただ念仏してもダメなのですか?????
投稿: | 2019年3月 5日 (火) 07時22分
親鸞聖人の言い方は、
「念仏称えたら誰でも簡単に往生できる」と深く信じて往生できる
です。
真剣に聴聞するとかそういう問題ではなく、「念仏称えたら誰でも簡単に往生できる」という本願をそのまま受け入れることを、「聞」といいます。
本願を深く信じたことは、阿弥陀仏におまかせをしたことであり、何も考えずに念仏するとはニュアンスとしては違います。
「念仏称えたら誰でも簡単に往生できる」と深く信じて念仏する
です。
投稿: 飛雲 | 2019年3月 5日 (火) 09時56分
親鸞会の言う事を気にせずに生きたいように精一杯に生きればそれで良い。
いよいよ臨終を迎えた時に、本願を深く信じて極楽往生が出来ると素直に聞いて念仏すれば往生できるという事ですか。もうこれ以上親鸞会の為に時間とお金を使いたくないです。
簡単な事を難しくして引き留めている宗教団体ならば、深入りするのはやめたいです。
投稿: | 2019年3月 5日 (火) 18時04分
「念仏称えたら誰でも簡単に往生できる」と深く信じて念仏するのは臨終を迎えた時ではなく今の話です。
その後は親鸞会の言う事を気にせずに生きたいように精一杯に生きればそれで良いのではないでしょうか。どちらにせよ、もうこれ以上親鸞会の為に時間とお金を使いたくないのなら今すぐにでも親鸞会から離れるべきです。
投稿: | 2019年3月 5日 (火) 21時45分
>いよいよ臨終を迎えた時に、本願を深く信じて極楽往生が出来ると素直に聞いて念仏すれば往生できるという事ですか。
阿弥陀仏の救いとしては間違いではありませんが、親鸞聖人の教えは平生業成ですから、考え方としては間違っています。
親鸞会から離れて、一日も早く真実信心を獲てください。
投稿: 飛雲 | 2019年3月 5日 (火) 21時46分
平成業成だと聞いて、ただ今その様な気持ちで念仏してますが、死に臨場感がもてないので実感が持てません。親鸞会では後生の一大事だと死と罪悪感を強調します。どれだけ聞いても死の実感が持てません。
今度は了顕戦とか言ってますが、○○戦とか目標とか赤い石とかいうのが大嫌いなので無視して姿形だけでも念仏して死を待っています。本当の死に直面した時に必ず救われると深く信じています。これでいいのですか?それとも今親鸞会の言うハッキリとした救いに遇わなければ助からないのですか?大船に乗るとはどういう意味なのですか?
投稿: | 2019年3月 6日 (水) 07時41分
死の実感は、平生に持てることの方が希です。韋提希は、死の実感があって救われたのではありません。清らかな世界に生れたいと願って救われました。浄土が判るとか浄土を願う心があるとかないとかそんな議論とは無関係に、単純に浄土を願ったのです。
救われるとは、浄土に連れて行ってくださると誓われた阿弥陀仏に、おまかせをするということです。自力が廃って他力になるとは、自分でなんとかしようとする心を捨てて、阿弥陀仏に全てをおまかせするということです。
親鸞会の言っていることは、自分で命がけでなんとかしようと求めていくとなんともできない自分が知らされて自力が廃ると言っていますが、そんなお伽話のようなものではありません。聖道門で修行している人が自力が廃らないのに、世俗で求めたくらいでそんな境地になどなる訳がありません。凡夫とは桁がいくつも違う程の求道をしている弥勒菩薩は自力が廃りましたか?
弥勒菩薩のような求道をしたなら、ハッキリするかもしれませんが、出来る訳がないです。
凡夫が救われるとは、己のお粗末さを単純に感じて、阿弥陀仏におまかせをする、それだけです。
全てを用意して下された阿弥陀仏のことを知ることで、無駄な求道など不要だと判ります。
まずは親鸞会の邪義をそぎ落とすことから始めましょう。
投稿: 飛雲 | 2019年3月 6日 (水) 08時17分
色々とありがとうございました。
難しく考えずに、素直な気持ちで浄土に生まれたいと思って本願を聞くという事ですかね。
ハッキリするまで命がけで聞く必要は無いという事ですかね。
死は体験した時にハッキリしますよね。その時に素直に本願を喜べば往生一定ですよね。
しかし、求道は良い事だと思っていたのを完全に否定するのは難しい事です。
ネットで誹謗している人は過去の自分の姿なので簡単に悪影響を受けるから見ない方がいいと言われます。親鸞会は理解しやすい教えなんだけど本質が良く分かりません。
色々と考えさせて頂きます。また、コメントはこれ以上控えさせて頂きます。
投稿: 現会員 | 2019年3月 6日 (水) 20時01分
よくお考えください。
誤解が無いように一つ言っておきますと、救われたことが判らないと言うことではありません。判ります。しかし救われた瞬間に何かが起こってハッキリすると言うことではありません。
ハッキリの定義によりますが、救われたことが判るという点ではハッキリすると言えますが、会員が想像しているカミナリに打たれたようなハッキリではありません。
投稿: 飛雲 | 2019年3月 6日 (水) 20時23分
「念仏のみぞまことにておわします」
これが出されてきたところが希薄な議論になりました。残念です。
投稿: 立ち読み人 | 2019年3月 7日 (木) 08時13分