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2019年2月

2019年2月24日 (日)

高森顕徹会長の70年の布教を根底から覆す「念仏のみぞまことにておわします」

本日の高森顕徹会長の話は、前回の続きで「オカシナ話」に対する「オカシクナイ話」をしたようです。その「オカシクナイ話」として

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」を親鸞聖人は一生涯教えられた

ということでした。
言葉としては確かに間違ってはいませんが、意図することは間違っています。それは「念仏のみぞまことにておわします」の部分です。

高森会長の70年間の話は、『なぜ生きる2』11章にもあるように

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

です。要するに「念仏さえ称えていれば良いのだ」が間違いだと言い続けてきたのが、高森会長です。これと「念仏のみぞまこと」との整合性についてまともに説明したことがありません。

念仏とは阿弥陀仏の本願(18願)のことだ

と反論するのが関の山でしょうが、18願のことを念仏往生の願と親鸞聖人は仰っているのです。この念仏も18願なら、18願往生の願が18願という訳の判らない話になります。念仏往生の願とは、そのまま「念仏称えて往生する願」です。

訳の判らない、日本語も不自由な高森会長と会員のために、「念仏のみぞまこと」の根拠を教えてあげます。

『教行信証』行巻に

また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。

(現代語訳)

また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ

念仏成仏これ真宗」は親鸞聖人が作られたお言葉ではないので、「真宗」は宗派の意味ではありません。

親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」というお言葉を好まれて度々使われています。
『浄土和讃』には

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

(現代語訳)

念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、
 さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。
 真実と方便を分けることなく、
 真実の浄土を決して知ることはできない。

とありますし、『入出二門偈』には

善導和尚、義解していはく、念仏成仏する、これ真宗なり。

(現代語訳)

善導大師は、念仏の教えを解釈していわれている。念仏によって仏のさとりを開く、これこそが真実の教えです。

とあります。
結論は「念仏のみぞまこと」とは、念仏称えて仏になるという教えのみが真実の教えだということで、高森会長の70年間の布教を根底から覆すお言葉だということです。

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2019年2月17日 (日)

トルストイよりも仏教を知らない高森顕徹会長

本日は、高森顕徹会長が久しぶりに座談会で話をしました。座談会の質問は

蓮如上人が映画『なぜ生きる』の中で「オカシナ話」と言われているのは、どんな話でしょうか

というオカシナ質問で、それに対するオカシナ回答をしただけの、とてつもなく中途半端な内容でした。

高森会長のシナリオによる「オカシナ話」とは、

100%死ななければならないのにどう生きるかしか考えていない、死んだらどうなるかを考えていない

ことだそうです。一日かけてその話をして終わりです。「オカシナ話」だから阿弥陀仏の本願を求めましょう、ということすら言わないのです。自分が書いたシナリオを単に解説するだけの、どーでもよい話を聞いて、それで会員が満足したとしたら思考は完全停止しているのでしょう。

午後からは「オカシナ話」をまともに見せかけるために高森会長創作の「人間の実相」の話をしたのですが、この「人間の実相」の話が「オカシナ話」です。

御存知の方も多いでしょうが、一応、説明しておきます。
この元は『仏説譬喩経』の内容だとして今まで話をしてきたのですが、それは大嘘です。実際に見てみると

佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
    曠野無明路 人走喩凡夫
    大象比無常 井喩生死岸
    樹根喩於命 二鼠晝夜同
    齧根念念衰 四蛇同四大
    蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
    火同於老病 毒龍方死苦
    智者觀斯事 象可厭生津
    五欲心無著 方名解脱人
    鎭處無明海 常爲死王驅
    寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經

漢文ですので、判りにくいかもしれませんが、明確に違うところがたくさんあります。参考までに『浄土真宗本願寺派総合研究所』にある「甘い蜜(黒白二鼠の譬え)」を転載しておきます。

昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍や蛇に食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。

ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、火は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。

経典に忠実なのは、高森会長でしょうか本願寺派でしょうか。
言うまでもないことです。

もう一つ参考までにトルストイ著『わが懺悔』(米川正夫訳)

 古い東方の寓話にも、曠野の中で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣をのがれようと思って、旅人は水のない古井戸へ飛び込んだ。ところが、見るとその井戸の底には一疋の龍が、たゞ一呑みと大きな口をあけて待っている。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂える猛獣のために命を落としたくなかったが、外へ匍い出ることもできないし、それかといって、龍に食われたくもないので、井戸の底へ飛びこむこともできず、せんかたなく、中途の隙間に生えている野生の灌木の枝につかまって、宙に身を支えていた。そのうちに手が次第に弱ってきた。で、彼は間もなく、前後に自分を待っている死の手に身を委ねなければならぬと感じたが、それでも、宙にぶらさがっていた。そこへ、黒と白と二疋の鼠が現われて、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲を、ちょろちょろと同じ速度で廻りながら、じりじりと噛み耗らすのに気がついた。もう今にも灌木はぶつりと切れてたおれかゝり、彼は龍の口へ落ちてしまうにちがいない。旅人はそれを見て、我が滅亡の避け難いのを知った。しかも、彼はそこにぶらさがっている間、自分の周囲を物色して、灌木の葉に蜜の雫がついているのを発見すると、そこまで舌をのばして、嘗め味わうのであった。

仏教を知らずに、伝聞で知ったトルストイの方が経典の内容に近いです。

高森会長の仏教の知識は、トルストイ以下だということが明白になりました。

思考停止の会員で反論があるなら、いつでもどうぞ。ただし、仏教の経典の根拠で示してくださいね。高森教の経典を出されても困りますよ。

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2019年2月10日 (日)

元気な会員は高森顕徹会長に、「往生一定とハッキリするとは具体的に何がハッキリするのか」質問してみましょう。

高森顕徹会長の休みが長く続いていますが、我儘放題の会長の理不尽な要求に真生会病院の医師も疲弊していることでしょう。

さて、阿弥陀仏に救われるということがどういうことか、高森会長にも親鸞会の会員にも全く理解できないことでしょうが、歴代の善知識方は、高森会長の言うような奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験をしたということをどこにも仰っていませんし、救われて判ることは極めて限定的なことだと仰っています。

『正信偈』にもあります、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

を読んでもそのことが普通なら判るはずです。

この元は、源信僧都の『往生要集』にあり、『教行信証』信巻にも引かれています。

またいはく、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。

(現代語訳)

また次のようにいわれている(往生要集)。
「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見ることができない。しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

源信僧都と言えば、元は仏であったとご自身で仰ったと伝えられ、親鸞聖人もそのように仰っています。『高僧和讃』に

源信和尚ののたまはく
 われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば
 本土にかへるとしめしけり

とある通りです。

仏であったとされる源信僧都でさえ、阿弥陀仏の光明の中にいることを見ることができないと仰っているのですから、流転輪廻の凡夫が、阿弥陀仏の光明を見ることができるなど、あり得ない話です。まして色も形もない阿弥陀仏のお姿を見ることもできないし、定善ができないのに浄土を見ることもできません。

前回のエントリーでも紹介した『執持鈔』にもあるように、「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」で、往生ということも凡夫に認識できる話ではありません。

では何が判るのかといえば、『執持鈔』のお言葉を使うなら「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。」と、阿弥陀仏におまかせをしたことしか判らないのです。

このように言うと、

往生一定が判ると仰っているではないか!

との机上の空論でしか物の言えない高森会長と会員は反論するでしょうが、往生一定とは、浄土が判ることでも往生の概念が判ることでも阿弥陀仏が認識できることでもありません。

そのことについては二河白道の譬えが最も判りやすいでしょう。

行者が東の岸にいる時に、西の岸の方が仰ったことは、

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

です。その仰せに順って白道を進むのです。

この行者が判ったこととは、

この白道を進んで行ったら西の岸に確実に行くことができる

です。
ということは、

我々が阿弥陀仏の18願を信じて、阿弥陀仏におまかせをしたから、往生は一定である

ということになるのです。

つまり

往生一定=すべて阿弥陀仏におまかせをしたこと

です。

救われたのにハッキリしないはずがない!

と喚き散らす元気があるなら、高森会長に質問してみましょう。

往生一定とは、何がハッキリするのですか?
浄土が見えるのですか?
阿弥陀仏が見えるのですか?
阿弥陀仏の声が聞こえるのですか?
往生とはどんなことなのか判る智慧が授かったのですか?

高森会長は答えないでしょう。なお、二種深信にはこれらのことは入っていません。

今まで70年間、高森会長は往生一定がハッキリするとは言ってきましたが、具体的なことは何も説明してきませんでした。
具体的にどうハッキリするのか誰も聞いたことがありません。

その理由は、高森会長は何もハッキリしていないからです。

会員は現実を直視して、高森会長の信心を疑うべきです。

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