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2019年1月18日 (金)

高森顕徹会長と親鸞会が萎み続ける中、永久に獲られることのない創作信心を追い求める哀れな会員

明後日の高森顕徹会長の話は、中止となりました。今後高森会長の直接の話を聞く機会は減るでしょうが、昨年12月に行われた高森会長の話を録画したものが、なんと破格値の1,800円で大バーゲンセール中です。

会員の手の届かない地位まで自らを祭り上げてきた高森会長ですが、厳しい懐具合に耐えきれず、”庶民的”なレベルまで自ら降りざるを得なくなったのでしょう。

教義も大人しくなって、このまま会長も法人も萎んでいくものと思われます。

さて、自力と他力のことがよく判らないまま、それらしい話を創作してきた高森会長ですが、聖教を読んだらその出鱈目ぶりに呆れるしかありません。

前回に引き続き、親鸞聖人が「よきひとびと」と仰って尊敬されていた隆寛律師の『自力他力事』について見てみます。

最後にこのようにあります。

たとへば腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとおもひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐれたり。
ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のおもければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すなり。おなじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにて候ふなり。

古文ではありますが、易しい文章ですので、概ね理解できるのではないかと思います。
腰折れ足なえたる人々」が「力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せて」もらうことで「十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる」ことができます。そのように「罪ふかく煩悩もあつ」いわれらでも、「阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはします」のです。本来なら「三悪道にこそはおちいらんずるもの」ではありますが、阿弥陀仏のお力によって極楽に往生することができるのです。

ここまでは、三悪道と無間地獄の違いはあるにしても、親鸞会でも言っていることですが、問題はどうしたら極楽に往生できるのかです。

その答えは
ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ
釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり
です。
共に、「念仏して」と「疑ふこころだにもなければ」「二心なく」という組み合わせになっています。
判りやすくいうと、念仏という行と疑いのないという信心が合わさって、ということです。念仏が必要条件として付いているところが、高森会長の話とは全く違うところです。

この次にどこかで聞いたことのある言葉が出てきます。

かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。

そう高森会長の好きな蓮如上人のお言葉、

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし

です。

蓮如上人も「よきひとびと」である隆寛律師の『自力他力事』を愛読せられていたということです。
蓮如上人は「一念の信心定まらん輩」という言い方を確かにされてはいますが、そこには「念仏して」が含まれているのです。『御文章』だけでは信心と念仏との関係は判りにくいところがありますが、『正信偈大意』では、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

と仰っていまして、行と信心の関係を教えられています。「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」が自力、「専修正行になりきはまるかたの執心」が他力です。簡単に言うと

自力の信心=雑行雑修に心がかかっている信心
他力の信心=念仏一行に心がなり極まった信心

です。『自力他力事』でいうなら、

他力=「念仏して疑ふこころだにもなければ」「二心なく念仏する

蓮如上人も同じことを仰っているのです。

隆寛律師も蓮如上人も念仏の抜けた他力の信心だという説明はないのです。
一方で高森会長は、念仏の抜けた他力の信心だと説明します。

この根本的な相違は、聖教を読んだら一目瞭然です。

高森会長の創作信心を獲ようともがいている会員は、永久に創作信心は獲られません。ないのですから。哀れ憐れ。

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コメント

こんばんわ、Abcです。今年もどうぞよろしくお願いします。

>蓮如上人は「一念の信心定まらん輩」という言い方を確かにされてはいますが、そこには「念仏して」が含まれているのです。
>「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」が自力、「専修正行になりきはまるかたの執心」が他力です。

大谷では「専修正行」といわれ、私めの高田では「専修念仏」とは申されますが、どちらとも今仰られてるが如く、

>他力=「念仏して疑ふこころだにもなければ」「二心なく念仏する」

であります。

また、
「やうもなく」(蓮如上人)=「わがはからひを交えず」(親鸞)=「義なし」(源空聖人) でありますし、

「二心なく念仏する」(蓮如上人)=「一向に帰命したてまつる」(源空聖人、親鸞)=「偏へに安養に帰す」または「深く安養に執心す」(源信僧都)=「一心(専心)に念仏する」(善導大師) などなどいわれております。

私の「高田」はまたの名を「念仏高田」ともいわれており、蓮如上人(大谷)は教義は「専修念仏」であったとしても叡山からなど様々なことがあり「専修正行」といわれております。

ただ、覚如上人も、「第四の正因」といわれているように、「称名念仏」に重きを置いているのが、わたしたちが行わせていただいている「真宗」なのであります。

 最後に、今年もどうぞよろしくお願いします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2019年1月19日 (土) 18時10分

Abc様

こちらこそよろしくお願い致します。
このようにまとめて頂くと、親鸞会も反論の余地がないでしょうが、それでも理解しようとはしないのでしょうね。
哀れなものです。

投稿: 飛雲 | 2019年1月19日 (土) 20時24分

いつもありがとう御座います。メールを送らせていただくことは可能でしょうか。アドレスを探しましたが見当たりませんでした。よろしくお願いします。

投稿: お尋ね | 2019年1月21日 (月) 00時30分

お尋ね様

メールを送りましたのでご確認ください。
hiunto1@gmail.com

投稿: 飛雲 | 2019年1月21日 (月) 13時54分

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