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2019年1月31日 (木)

善悪の生所を自分で定めた高森顕徹会長の自力の妄想

自力と他力の水際については、善知識方はいろいろな言い方で教えられていますが、今回は高森顕徹会長の知らない、言わない御文で説明します。

『執持鈔』には、親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたところがあります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

他力の信心について、最初の段と最後の段で明確に仰っています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

往生について判るとか、死んだ後にどこに行くのか判るとか、そういうこととは正反対で、私が定めるようなことをせずにすべて阿弥陀仏におまかせをしたことを他力の信心だという説明をされています。

「地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。その行き先が判るのではなく、阿弥陀仏が連れて行ってくださるところ、あるいは善知識と同じところに行く、そこが仮に地獄であったとしてもおまかせします、ということ以上のことは何もないのが、他力の信心です。

高森会長が言っているような、救われたら地獄一定とハッキリ知らされる、極楽一定とハッキリ知らされる、などと思っているのを自力というのです。その間違った思いを捨てたのが、他力です。

高森会長が自力の信心を他力の信心と錯覚して、適当なことをいっていることは、親鸞聖人、覚如上人のお言葉で明々白々です。

ここまで言われて悔しいと憤る元気のある講師や会員は、いつでも反論のコメントを受け付けています。ただし、善知識方の仰ったお言葉を基にしたコメントにしてください。なお創作妄想のコメントは憐れみの心をもって拒否します。。

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コメント

飛雲先生

私は親鸞会時代には「絶対の幸福」を獲るため求道しておりましたが、先生に正され、今は浄土に往生したいと願って浄土真宗を求めております。

それは第18願文の「欲生我国」や、願成就文の「願生彼国」や、韋提希夫人の「我今楽生 極楽世界 阿弥陀仏所」等から、浄土願生は求道の心構えの基本だと思ったからです。

しかし今回のエントリーで「われとして浄土へ参るべしとも、また地獄へ往くべしとも、定むべからず」「源空があらん処へゆかんと思わるべし」という御文の重要性を教えていただき、求道の心構えとして浄土を願生するのは間違いで、むしろ「源空があらん処へゆかん」と思って求道すべきなのかと思ってしまいました。

ただ私の「心底」を申せば、浄土へ往けるからこそ阿弥陀仏の本願を求めているのであって、たとえ源空聖人や親鸞聖人がおられても地獄は嫌だというのが偽らぬ本音です。

しかし私にとっては浄土真宗の教えしかなく、これからも求めていく気でおります。
とりとめのない文章になりましたが、「求道の心構えとして浄土を願生するのは是か否か」ということをご指導いただければ思います。

投稿: 猿松 | 2019年2月 2日 (土) 14時32分

猿松様

>今は浄土に往生したいと願って浄土真宗を求めております。

信心を獲るまではその通りです。しかしそれが自力です。
他力とは、

浄土に往生したいので、阿弥陀仏におまかせしました、私は求めていません

という心です。
もっと言うと、

阿弥陀仏におまかせをしましたので、阿弥陀仏がどこに連れて行ってくださるか判ってはいませんが、阿弥陀仏が嘘をつかれることはないので、浄土に間違いないでしょう

です。浄土が判るわけでもないし、浄土往生の確実な証拠を獲たのでもありません。阿弥陀仏にまかせた、ということ以外は判らないです。もちろん、浄土に往生したいという思いが最初からなかったら、阿弥陀仏におまかせをすることはありません。

高森会長の言葉を借りるなら、無力と他力は、一見同じです。違うことは、浄土に往生したいと願った上でのことかどうかです。

投稿: 飛雲 | 2019年2月 2日 (土) 15時04分

飛雲先生

ご回答ありがとうございます。危うく浄土願生を忘れ、また迷ってしまうところでした。

「高森会長の言葉」というところで思い出しましたが、高森会長はよく「信心決定すると大安心大満足の身になれる」と言っておりました。
大安心大満足とは必堕無間を免れ浄土往生がかなうことがハッキリし、現生十益をはじめ様々な利益が得られることですが、果たして本当の信心決定にはそのような大安心大満足などあるのでしょうか?

浄土を願生して阿弥陀仏におまかせしても「浄土が判るわけでもないし、浄土往生の確実な証拠を獲たのでもありません」ということであれば多少なりとも不安な心というのがあるのでしょうか?
お尋ね致します。

投稿: 猿松 | 2019年2月 2日 (土) 20時01分

煩悩がある限り不安はあります。
『歎異抄』の
また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

の通りです。

投稿: 飛雲 | 2019年2月 2日 (土) 20時06分

飛雲先生

しつこくなって申し訳ありませんが、確認させてください。

本当の信心決定しても「もしかしたら浄土往生できないのでは」などといった浄土往生に限っての不安な心はあるものなのでしょうか?

それとも、「浄土往生はもう阿弥陀様におまかせしてあるし、経釈には明文も数多あるので、浄土往生に関してはまったく不安はない 」といったような心境になれるのでしょうか?

投稿: 猿松 | 2019年2月 3日 (日) 09時46分

不安も何も、浄土がどんなところかも判らないですし、浄土往生ということ自体も良く判りません。不安以前の問題と言っても過言ではありません。
それゆえに、阿弥陀仏にすベてをおまかせしましたので、行った先が浄土だとしか思えないでしょう。
想像とは違っていて「ここが浄土?」ではなく、
想像とは違っていて「ここが浄土なんだ」です。

「もしかしたら浄土往生できないのでは」ではなく、
「連れて行ってくださるところがどこであっても浄土」です。

おまかせをするとはそういうことです。

投稿: 飛雲 | 2019年2月 3日 (日) 16時27分

猿松様
つまらない譬えで申し訳ありませんが、「お任せする」ということに関して。

友人に食事に誘われたとします。当然、支払いをする必要がありますが、頭の中で財布の中身が気になります。「今日の持ち合わせは大丈夫か?夜だから銀行は閉まっているし、クレジットカードは持っていないし…」支払いばかりが心配になって、食事も美味しくないし、なるべく安いものばかりを注文して…。

ところが誘ってきた相手が上司で「今日は全部、俺がおごるから何でも好きなものを食べて飲んでくれ」と言われたらどうでしょうか?上司のおごりですから、好きなものをいくらでも飲み食いできます。支払いを全て上司にお任せしたので自分の方では心配する必要がなくなります。支払いという物が全く自分の手から離れてしまったので、こちら側には何も残っていません。

こんな感じと私は思っています。
それと庄松同行の有名な「兄貴、覚悟は良いか」と法主の袖を掴んで法主の後生の心配を投げかけた下りですが、印象的なやり取りです。

庄松「兄貴覚悟はよいか?」
法主「よく言ってくれた、但し汝は信をいただいたか」
庄松「へえ、いただきました」
法主「その得られた相を一言申せ」
庄松「なんともない」
法主「それで後生の覚悟はよいか」
庄松「それは阿弥陀様に聞いたらわかる。俺の仕事じゃなし。俺に聞いたとてわかるものか」

投稿: 園児 | 2019年2月 4日 (月) 08時31分

飛雲先生 園児様

ご回答ありがとうございました。
親鸞会時代には、常軌を逸した自力求道の果て「精も根も尽き果てて悲泣悶絶」の末に、自力が他力へと転換し、阿弥陀仏に救われると思っておりました。

しかし本当の浄土真宗の教えは、むしろ阿弥陀仏の方から「どうか私に救わせてくれ」という願いでありました。

それでも「そんな虫のいい話し有るわけない」と勝手に思い込み、「よく聴聞に行けばよいのか」とか「真剣に聞けばよいのか」とか迷っておりました。

今回のご回答で他力信心の心境が少しでも伺えてありがたかったです。
「浄土を願生し阿弥陀仏におまかせしたら、後はもうアチラのお仕事、浄土往生には興味がなくなった(?)」というような感じでしょうか。

園児様、私もちょうど庄松同行のエピソードを思い出しておりました。
「それではオマエの後生は大丈夫か」との問に「そんなもん知らん、アチラの方に聞いてくれ」とお仏壇の方を指さしたという。(出拠を失念してしまったので正確ではありません)

私のためにお応えいただき感謝致します。
これからも質問させていただくと思いますので、その時はまたお付き合い願います。

投稿: 猿松 | 2019年2月 4日 (月) 10時37分

猿松さま

信心を得る以前は、安心したい、浄土はあるのか、本願が喜べるようになるのか、など困りましたが、
信を得てからは、まさに「捨自」の文字通り、そういった困った思いに力が入りません。疑おうとしてもうまく自力が働きません。妙なことです。
いつも安心かと言われれば安心ですが、大安心大満足か?言われてもピンときません。
次のようなたとえを聞いたことがあります。
日中、仕事をしているときや外出しているとき、或いは旅行先で、家の鍵をちゃんと閉めてきたことをいつもいつも安心しながら過ごしているわけではありません。
一旦家の鍵をちゃんと閉めたらもう思い出しませんが、帰宅するまで安心して外出していたのです。それを大安心とも安心とも特別思うわけではありませんが、ふと鍵をちゃんと閉めたことを思い出せば、よしよしと安心するようなものです。
憶念弥陀仏本願の「憶念」とはそういう安心です。

浄土往生に興味がなくなったというのは違う気がしますが、疑いに力が入らなくなったようです。
そもそも後生や浄土、本願などなんとか分かりたい安心したいなどと心配する自分など最初からないわけで、一時期困っていたのは、阿弥陀さんの心配願いが一時期私に映っていただけなのかなと思います。
信を得てからは、そもそも元通りの何にも仏法に興味のないあっけらかんとした自分に戻っただけな気もします。毎回、仏前に向かうたびに恥ずかしい限りです。

投稿: YGM | 2019年2月 6日 (水) 17時31分

YGM様

ご回答ありがとうございます。
「鍵」の喩えは大変分かりやすかったです。なるほど、鍵をちゃんとかけたから、家も安全だし旅行も楽しめる。鍵を閉めたことを思い出せば安心できる=阿弥陀仏におまかせしたから、後生は心配ないし人生も楽しめる。おまかせしたことを思い出せば安心できる…ということですか。
それにしても「一時期困っていたのは阿弥陀さんの心配願いが一時期私に映っていただけ」というのは、すごいお言葉だと思います。

今の私の求道の主題は「他力ということが分かりたい」です。
この間聴聞に参った時も、講師の方から「与えられた念仏をそのまま受け取って称えればいいのに、自分の中で持ち直してしまっている」と言われました。確かに「なまんだぶではダメだ、なむあみだぶつと丁寧に称えないと救われない」なんてバカなことまで考えてしまいます。

どうも「自力の心中」を語るととりとめのないものになってしまいますが、何かお気付きの事がありましたら、これからもご指導お願いします。

投稿: 猿松 | 2019年2月 7日 (木) 10時17分

猿松さま
 コメントしっかり読んで頂いて恐縮です。ので自分の文章を読み直してみましたが小学生の感想文レベルで残念です。。
 ちゃんとした根拠に基づいた話は飛雲さんですので、私は単なる感想を書きます。
 「阿弥陀さんの心配が一時期私に映っていただけ」というところに着目されたようですが、私にとってはもう過去のことですので、
 あまり覚えがなく記憶が薄らいでいます。
 それより、他力にして頂いて変わったのは、最後の「仏前に向かうたびに恥ずかしい」のところです。
 これは信前にはまぁ出ない思いだと思います。そりゃ疑いあったら出ないですわね。あたりまえですね。。

投稿: YGM | 2019年2月 8日 (金) 10時30分

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