親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします高森顕徹会長
1月15日号の顕正新聞の論説には、先日の高森顕徹会長の話の内容がまとめられています。
今の真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする
という『改邪鈔』のお言葉から、自力と他力のことを問題としています。表現自体は間違いではないのですが、やはり根本的なことが判っていません。
親鸞聖人が問題とされている自力と他力の違いを曖昧にしか理解していないのでこの程度となるのも仕方がないでしょう。
自力他力と聞いて、ピンっとくるなら大したものでしょうが、親鸞聖人が関東の同行に宛てた手紙の中で、何度も推薦されている書に『自力他力事』があります。
親鸞会では聞いたことのない親鸞聖人一押しの書です。
たとえば『末灯鈔』の
さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。
(現代語訳)
以前にお送りしました『唯信鈔』や『自力他力事』などの書物をご覧になってください。これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、 今の世のわたしたちにとっての善知識なのです。 すでに往生を遂げておられる方々ですので、 どのようなことであってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。 法然上人の教えを深く心得ておられる方々でした。 だからこそ、 往生もめでたく遂げておられるのです。
です。
他のお手紙でも『自力他力事』を読むように何度も勧められています。著者は親鸞聖人が「よきひとびと」とまで仰って大変に尊敬なされていた隆寛律師です。隆寛律師のことは高森会長が言及したこともないので、高森会長は隆寛律師のことも知らないのでしょうし、当然『自力他力事』という書の存在すら知らないと思います。
「法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえ」しかも「往生もめでたくしておはしまし候」隆寛律師の著わされた『自力他力事』を読むと、親鸞聖人が自力と他力の違いを同行にどのように教えられていたかが判ります。
『自力他力事』は、内容も判り易く短いので、皆さんがそのまま読まれても理解できると思います。
今回は『自力他力事』の肝心なところだけ説明します。
最初に
念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。
とあります。自力と他力で問題とされているのは、念仏についてです。くどいようですが、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた『自力他力事』に書かれてあることは、念仏についての自力と他力の話です。
高森会長の話とは大いにずれがあります。
続いて自力の念仏についての説明です。
まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。
身口意の三業で、「わろきこと」をしないようにして、「つつしみて」念仏することを、自力の念仏だと言われています。
対して他力の念仏は、
他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。
かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。
されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。
とあります。
罪深い身でありながら、迷いの世界を離れることができるのは、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば」「よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり」とあります。
意味は読んだそのままで、阿弥陀仏の18願をたのみ仰いで怠らずに念仏すれば、極楽に連れていってくださる、ということです。
しつこいでしょうが、もう一度言いますと、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた書が『自力他力事』です。信前の同行が何をすベきか、という最も知りたい疑問に対して、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、極楽へ率てかへらせおはしますなり」という答えを親鸞聖人が示されているのです。
そして他力の念仏の最終的な説明を、「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり」とされています。
自力の念仏と他力の念仏の違いがここに鮮明に表現されています。
自力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐるとおもひて」「余行をまじへて念仏する」
他力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて」「余行をまじへずして一向に念仏する」
自力と他力の水際とは、これです。
因果の道理を信じよとか、善をしなければとか、信前に念仏称えても助からないとか、他力の念仏はお礼だから称えても称えなくても良いとか、高森会長がするような説明は全くないのです。
隆寛律師のことを親鸞聖人は「法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはします」と絶賛されていますが、高森会長のことを評するなら
親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします
という以外にありません。
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