高森顕徹会長の薄っぺらい話で喜んでいる「おおよそ浅き会員は多く疑惑を生ぜん」
高森顕徹会長の今年の年頭所感は、タイトルを「念仏者は無碍の一道なり」としてあり、内容はと言うと『歎異抄をひらく』の文章を少し替えただけのものです。
ただ注目すベきは、絶対の幸福とは書いていないことです。昨年はあれだけ絶対の幸福の連発であったのに、今年は少し無難に纏めようとの意図があるのでしょう。
先日の話もそうですが、退会者の批判に神経質になっているのは間違いありません。
しかしながら、念仏に関しては相変わらず理解がお粗末で、『歎異抄をひらく』から進歩していません。
今回も自力の念仏と他力の念仏の違いについて、判ったふりして強調していますが、高森会長には根本が判っていないです。
親鸞聖人が自力の念仏についてどう仰っているのか、教えてあげます。
『正像末和讃』に
不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり仏智の不思議をうたがひて
自力の称念このむゆゑ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに
方便化土にとまるなり
とあります。
自力の念仏とは、「如来の諸智を疑惑して」「罪福信じ」「仏智の不思議をうたがひて」「罪福信ずる」「罪福ふかく信じつつ」称える念仏のことです。
つまり
自力=仏智不思議を疑う=罪福信じる
ということで、因果の道理を信じて称える念仏が自力の念仏だと親鸞聖人は仰っているのです。
『教行信証』化土巻・真門釈にも
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
とあります。
これが自力の念仏の根本なのです。
他力の念仏は、自力が微塵ほどもない念仏ですから、因果の道理を信じていない念仏ということです。
高森会長の嘘教義に毒されていると全く判らない話でしょうが、結論を言えば、因果の道理と18願とは相容れないのです。
最近は言いませんが、因果の道理を信じるように高森会長が話をすればする程、それを聞いた会員は自力に固執し他力に入れなくなるのです。
以上、自力の念仏と他力の念仏の違いで説明しましたが、それがそのまま信心の違いです。
念仏称えて助かるなんていうのは(因果の道理に反しているから)間違いだ、というのが自力の信心。
念仏称えて助かるというのは(因果の道理に反しているので)正しい、というが他力の信心です。
そんな上手い話があるか、馬鹿にするな!
と思うのが自力の信心です。
親鸞聖人は『教行信証』信巻に、律宗でありながら浄土教を信奉していた中国南宋の僧侶の言葉を引かれて
律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。
と他力の信心を説明されています。凡夫が聖者になるのは、掌を返すように大いに簡単なことであるから、それを疑うのだということです。
念仏称えたくらい簡単なことで助かるなんてことがあるか、というのが因果の道理を信じている自力です。
他力の信心とは、掌を返すように簡単に称えることのできる念仏で助けてくださるとは、阿弥陀仏の18願はなんと素晴らしいことか、という信心です。
自力の信心で、自力と他力の違いを判ったふりして説明しても、すぐにボロが出るのです。
薄っぺらい高森会長の話で喜んでいるうちは、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」の状態を脱することは不可能です。
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コメント
自力と他力の水際が明確になりました。
高森会の面々は、頓珍漢な教えを聞いて、自力と他力の水際を説ききれるのは高森会長だけだと思っているのでしょうが、哀れなものです。
思い出しましたが、自分の創作した、空想した、いや妄想した幻を喚き散らした火の人なる基地もいましたね。
かわいそうです。
南無阿弥陀仏
投稿: 地球人 | 2019年1月 8日 (火) 08時52分