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2019年1月

2019年1月31日 (木)

善悪の生所を自分で定めた高森顕徹会長の自力の妄想

自力と他力の水際については、善知識方はいろいろな言い方で教えられていますが、今回は高森顕徹会長の知らない、言わない御文で説明します。

『執持鈔』には、親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたところがあります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

他力の信心について、最初の段と最後の段で明確に仰っています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

往生について判るとか、死んだ後にどこに行くのか判るとか、そういうこととは正反対で、私が定めるようなことをせずにすべて阿弥陀仏におまかせをしたことを他力の信心だという説明をされています。

「地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。その行き先が判るのではなく、阿弥陀仏が連れて行ってくださるところ、あるいは善知識と同じところに行く、そこが仮に地獄であったとしてもおまかせします、ということ以上のことは何もないのが、他力の信心です。

高森会長が言っているような、救われたら地獄一定とハッキリ知らされる、極楽一定とハッキリ知らされる、などと思っているのを自力というのです。その間違った思いを捨てたのが、他力です。

高森会長が自力の信心を他力の信心と錯覚して、適当なことをいっていることは、親鸞聖人、覚如上人のお言葉で明々白々です。

ここまで言われて悔しいと憤る元気のある講師や会員は、いつでも反論のコメントを受け付けています。ただし、善知識方の仰ったお言葉を基にしたコメントにしてください。なお創作妄想のコメントは憐れみの心をもって拒否します。。

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2019年1月24日 (木)

親鸞聖人が「信後絶対に出ない」と仰った心に満ち溢れている高森顕徹会長

高森顕徹会長が言っている自力と他力の水際について、聖教に掛かれていることとかけ離れていることは、ちょっと調べれば判る話です。ところがマインドコントロールのよく効いている会員は、聖教にどうあるかなど関係なく、高森会長を妄信している状態です。

そこで今回は、高森会長の言っている自力と他力の水際が、どれほどぶれているかを説明します。

古い会員なら知っている教学短冊、教学テキストの中に「信後絶対に出ない心100」という問答がありました。

高森会長が自信を込めて「信後絶対に出ない心」と水際を具体例ではっきりさせたのですが、教学聖典に代わってからは、「信後絶対に出ない心100」がなくなりました。会員は必死になって覚えた内容がいとも簡単に削除されました。その理由は、

信後に出る心があったから

というものでした。私はそれを聞いて愕然としました。「信後絶対に出ない心」が「信後に出るものもある」になった、つまり水際が移動したのです。絶対に動かない水際だったはずが、簡単に動いたのです。

高森会長の「信後絶対に出ない心」の自信は何だったのか。

何のことはない、自力と他力の水際が高森会長の中では定まっていないだけのことのなのです。

ちなみに親鸞聖人は「信後絶対に出ない心」を仰っているところがあります。
『末灯鈔』に

金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじ

と仰っています。高森会長はこれを、信心決定した人に対して善知識を謗ってはいけないと親鸞聖人が禁じられたお言葉と言っていますが、高森会長は古文の基礎が欠落しているのです。この意味は、

信心決定した人は、決して師を謗ったり善知識を侮るようなことはしない

です。「信後絶対に出ない心」だと親鸞聖人は仰っているのです。

ここで高森会長自身のことを見てみると、高森会長は18才で信心決定したと宣言し、華光会の伊藤康善師を師匠、華光会へ導いてくれた増井悟朗師を善知識と仰いできましたが、親鸞会を設立するにあたって両師と絶縁をし、

伊藤康善師をそしり増井悟朗師をあなづりなんどすること

を平気でするようなりました。

親鸞聖人が「信後絶対に出ない心」と仰ったことが、高森会長には「つねに出ている心」なのです。

親鸞聖人と高森会長とどちらが正しいのでしょうか。

会員にそう尋ねると、会員は話をずらしてこのように返してきます。

退会者は救われたと言いながら、高森先生のことを謗っているではないか。

噴飯物の反論です。退会者にとって高森会長は師でも善知識でもありません。かなり贔屓目に見ても、親鸞聖人における比叡山でしょう。普通に考えたら、曇鸞大師における道教でしょう、

高森経を梵焼して楽邦に帰したまひき

親鸞聖人とは無関係な宗教を親鸞聖人の教えと信じている会員は、本当に憐れです。

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2019年1月18日 (金)

高森顕徹会長と親鸞会が萎み続ける中、永久に獲られることのない創作信心を追い求める哀れな会員

明後日の高森顕徹会長の話は、中止となりました。今後高森会長の直接の話を聞く機会は減るでしょうが、昨年12月に行われた高森会長の話を録画したものが、なんと破格値の1,800円で大バーゲンセール中です。

会員の手の届かない地位まで自らを祭り上げてきた高森会長ですが、厳しい懐具合に耐えきれず、”庶民的”なレベルまで自ら降りざるを得なくなったのでしょう。

教義も大人しくなって、このまま会長も法人も萎んでいくものと思われます。

さて、自力と他力のことがよく判らないまま、それらしい話を創作してきた高森会長ですが、聖教を読んだらその出鱈目ぶりに呆れるしかありません。

前回に引き続き、親鸞聖人が「よきひとびと」と仰って尊敬されていた隆寛律師の『自力他力事』について見てみます。

最後にこのようにあります。

たとへば腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとおもひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐれたり。
ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のおもければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すなり。おなじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにて候ふなり。

古文ではありますが、易しい文章ですので、概ね理解できるのではないかと思います。
腰折れ足なえたる人々」が「力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せて」もらうことで「十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる」ことができます。そのように「罪ふかく煩悩もあつ」いわれらでも、「阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはします」のです。本来なら「三悪道にこそはおちいらんずるもの」ではありますが、阿弥陀仏のお力によって極楽に往生することができるのです。

ここまでは、三悪道と無間地獄の違いはあるにしても、親鸞会でも言っていることですが、問題はどうしたら極楽に往生できるのかです。

その答えは
ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ
釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり
です。
共に、「念仏して」と「疑ふこころだにもなければ」「二心なく」という組み合わせになっています。
判りやすくいうと、念仏という行と疑いのないという信心が合わさって、ということです。念仏が必要条件として付いているところが、高森会長の話とは全く違うところです。

この次にどこかで聞いたことのある言葉が出てきます。

かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。

そう高森会長の好きな蓮如上人のお言葉、

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし

です。

蓮如上人も「よきひとびと」である隆寛律師の『自力他力事』を愛読せられていたということです。
蓮如上人は「一念の信心定まらん輩」という言い方を確かにされてはいますが、そこには「念仏して」が含まれているのです。『御文章』だけでは信心と念仏との関係は判りにくいところがありますが、『正信偈大意』では、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

と仰っていまして、行と信心の関係を教えられています。「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」が自力、「専修正行になりきはまるかたの執心」が他力です。簡単に言うと

自力の信心=雑行雑修に心がかかっている信心
他力の信心=念仏一行に心がなり極まった信心

です。『自力他力事』でいうなら、

他力=「念仏して疑ふこころだにもなければ」「二心なく念仏する

蓮如上人も同じことを仰っているのです。

隆寛律師も蓮如上人も念仏の抜けた他力の信心だという説明はないのです。
一方で高森会長は、念仏の抜けた他力の信心だと説明します。

この根本的な相違は、聖教を読んだら一目瞭然です。

高森会長の創作信心を獲ようともがいている会員は、永久に創作信心は獲られません。ないのですから。哀れ憐れ。

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2019年1月14日 (月)

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします高森顕徹会長

1月15日号の顕正新聞の論説には、先日の高森顕徹会長の話の内容がまとめられています。

今の真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする

という『改邪鈔』のお言葉から、自力と他力のことを問題としています。表現自体は間違いではないのですが、やはり根本的なことが判っていません。

親鸞聖人が問題とされている自力と他力の違いを曖昧にしか理解していないのでこの程度となるのも仕方がないでしょう。

自力他力と聞いて、ピンっとくるなら大したものでしょうが、親鸞聖人が関東の同行に宛てた手紙の中で、何度も推薦されている書に『自力他力事』があります。

親鸞会では聞いたことのない親鸞聖人一押しの書です。

たとえば『末灯鈔』の

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

(現代語訳)

以前にお送りしました『唯信鈔』や『自力他力事』などの書物をご覧になってください。これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、 今の世のわたしたちにとっての善知識なのです。 すでに往生を遂げておられる方々ですので、 どのようなことであってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。 法然上人の教えを深く心得ておられる方々でした。 だからこそ、 往生もめでたく遂げておられるのです。

です。
他のお手紙でも『自力他力事』を読むように何度も勧められています。著者は親鸞聖人が「よきひとびと」とまで仰って大変に尊敬なされていた隆寛律師です。隆寛律師のことは高森会長が言及したこともないので、高森会長は隆寛律師のことも知らないのでしょうし、当然『自力他力事』という書の存在すら知らないと思います。

法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえ」しかも「往生もめでたくしておはしまし候」隆寛律師の著わされた『自力他力事』を読むと、親鸞聖人が自力と他力の違いを同行にどのように教えられていたかが判ります。

『自力他力事』は、内容も判り易く短いので、皆さんがそのまま読まれても理解できると思います。

今回は『自力他力事』の肝心なところだけ説明します。

最初に

念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。

とあります。自力と他力で問題とされているのは、念仏についてです。くどいようですが、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた『自力他力事』に書かれてあることは、念仏についての自力と他力の話です。
高森会長の話とは大いにずれがあります。

続いて自力の念仏についての説明です。

まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。

身口意の三業で、「わろきこと」をしないようにして、「つつしみて」念仏することを、自力の念仏だと言われています。

対して他力の念仏は、

他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。
かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。
されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。

とあります。
罪深い身でありながら、迷いの世界を離れることができるのは、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば」「よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり」とあります。
意味は読んだそのままで、阿弥陀仏の18願をたのみ仰いで怠らずに念仏すれば、極楽に連れていってくださる、ということです。

しつこいでしょうが、もう一度言いますと、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた書が『自力他力事』です。信前の同行が何をすベきか、という最も知りたい疑問に対して、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、極楽へ率てかへらせおはしますなり」という答えを親鸞聖人が示されているのです。

そして他力の念仏の最終的な説明を、「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり」とされています。

自力の念仏と他力の念仏の違いがここに鮮明に表現されています。

自力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐるとおもひて」「余行をまじへて念仏する

他力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて」「余行をまじへずして一向に念仏する

自力と他力の水際とは、これです。
因果の道理を信じよとか、善をしなければとか、信前に念仏称えても助からないとか、他力の念仏はお礼だから称えても称えなくても良いとか、高森会長がするような説明は全くないのです。

隆寛律師のことを親鸞聖人は「法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはします」と絶賛されていますが、高森会長のことを評するなら

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします

という以外にありません。

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2019年1月 7日 (月)

高森顕徹会長の薄っぺらい話で喜んでいる「おおよそ浅き会員は多く疑惑を生ぜん」

高森顕徹会長の今年の年頭所感は、タイトルを「念仏者は無碍の一道なり」としてあり、内容はと言うと『歎異抄をひらく』の文章を少し替えただけのものです。
ただ注目すベきは、絶対の幸福とは書いていないことです。昨年はあれだけ絶対の幸福の連発であったのに、今年は少し無難に纏めようとの意図があるのでしょう。

先日の話もそうですが、退会者の批判に神経質になっているのは間違いありません。

しかしながら、念仏に関しては相変わらず理解がお粗末で、『歎異抄をひらく』から進歩していません。

今回も自力の念仏と他力の念仏の違いについて、判ったふりして強調していますが、高森会長には根本が判っていないです。

親鸞聖人が自力の念仏についてどう仰っているのか、教えてあげます。

『正像末和讃』に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

とあります。
自力の念仏とは、「如来の諸智を疑惑して」「罪福信じ」「仏智の不思議をうたがひて」「罪福信ずる」「罪福ふかく信じつつ」称える念仏のことです。

つまり
自力=仏智不思議を疑う=罪福信じる
ということで、因果の道理を信じて称える念仏が自力の念仏だと親鸞聖人は仰っているのです。

『教行信証』化土巻・真門釈にも

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。

これが自力の念仏の根本なのです。

他力の念仏は、自力が微塵ほどもない念仏ですから、因果の道理を信じていない念仏ということです。

高森会長の嘘教義に毒されていると全く判らない話でしょうが、結論を言えば、因果の道理と18願とは相容れないのです。

最近は言いませんが、因果の道理を信じるように高森会長が話をすればする程、それを聞いた会員は自力に固執し他力に入れなくなるのです。

以上、自力の念仏と他力の念仏の違いで説明しましたが、それがそのまま信心の違いです。

念仏称えて助かるなんていうのは(因果の道理に反しているから)間違いだ、というのが自力の信心。
念仏称えて助かるというのは(因果の道理に反しているので)正しい、というが他力の信心です。

そんな上手い話があるか、馬鹿にするな!

と思うのが自力の信心です。

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、律宗でありながら浄土教を信奉していた中国南宋の僧侶の言葉を引かれて

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

と他力の信心を説明されています。凡夫が聖者になるのは、掌を返すように大いに簡単なことであるから、それを疑うのだということです。
念仏称えたくらい簡単なことで助かるなんてことがあるか、というのが因果の道理を信じている自力です。
他力の信心とは、掌を返すように簡単に称えることのできる念仏で助けてくださるとは、阿弥陀仏の18願はなんと素晴らしいことか、という信心です。

自力の信心で、自力と他力の違いを判ったふりして説明しても、すぐにボロが出るのです。

薄っぺらい高森会長の話で喜んでいるうちは、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」の状態を脱することは不可能です。

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2019年1月 3日 (木)

今年も大衆を騙すのに余念のない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、近年では稀にみる大きな突っ込みどころのない内容でした。もちろん、間違った部分はありますが、とんでも発言がなかったという点においての評価です。

ただし表面上の言葉ではということですので、その心はいつも通りのとんでも解釈でしょう。

退会者からの批判にかなり気を遣っているのだと思われますが、やはり念仏に関しては問題があります。

今回の内容も『歎異抄』第2条についてでしたが、その中の「ただ念仏」の解釈が多くの学者は間違えているとの勘違い断言は、通常どおりでした。

ただ念仏」とは「唯念仏」のことであり、「念仏一行」のことであることは、真宗でも浄土宗でも、常識中の常識です。それを否定しているのですから、お粗末と言えるでしょう。

法然上人が教えられたことは「念仏一行」であり、それを否定する人は仏教関係者では存在しないと思われます。『選択本願念仏集』を読めば明々白々の厳然たる事実です。

法然上人の教えを聞かれて救われ、教えを受け継がれた親鸞聖人も同じであることは、普通の頭をもってすれば、普通に導き出される普通の結論です。

念のため、根拠を示せば、親鸞聖人は18願のことを「念仏往生の願」と仰っています。念仏を往生の因として誓われた願だという意味です。親鸞聖人が御自身の言葉で18願を言い換えられたのが『末灯鈔』にあります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」が18願だということです。

また善導大師のお言葉を引用されて『教行信証』行巻では18願のことを

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ

とも仰っています。「わが名号を称せん」者を生まれさせるとの誓いだということです。

また源信僧都のお言葉から同じく行巻に

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

と仰っています。「極重の悪人」には念仏以外の方便はなく、ただ念仏だけで極楽に生まれることができるのだとの明快なお言葉です。これを『正信偈』では、

極重悪人唯称仏

と明確に「ただ念仏」と仰っています。

蓮如上人はどうかと言えば、『正信偈大意』に

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

と仰って、七高僧方が勧められたことは「念仏の一行」だと断言されています。

上記の「極重悪人唯称仏」については、

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

『歎異抄』の「ただ念仏」の意味は、上に列記した以外の意味はないのです。あるなら、出して示せばよいのですが、示すことはできません、無いのですから。

今年も、大衆を騙すのに余念のない高森会長でした。

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