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2018年12月23日 (日)

「よき人の仰せ」を知らないどころか踏みにじる高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか

という質問に対して答える内容でした。創作勘違い二河白道の話を出しながら、いつもの訳の判らない説明の後、『歎異抄』第2条の話に移って、これまたとんでもないことを言っていました。

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている。「よき人の仰せを被りて」の「被りて」が大切でこれが聞くであり「聞く1つ」である。

これのどこが間違いなのかと思う人は、高森邪義に完全に毒された人です。

よき人」の法然上人が教えられていたことが何かを知っていたら、絶対に言えない恥ずかしいお言葉です。

親鸞聖人が法然上人の著わされた『選択本願念仏集』をどのように理解なされていたかを直接示す根拠は『尊号真像銘文』にあります。

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

『選択本願念仏集』 というのは、 法然上人が著された書物である。
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。
また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土文という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。 「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

解説が要らないほど明々白々な内容です。

一応解説しておきます。

安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

浄土に往生する正因、浄土に生まれて仏に必ずなるたねは、念仏だと断言されています。

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。

必ず無上涅槃のさとりをひらくたねは、念仏を称えることだと断言されています。

御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり

念仏を称えるのは必ず浄土往生を得るのだとこれまた断言されています。

ここでもう一度、高森会長のお言葉。

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている。

ここまで述べた上で、なお高森会長の言っていることが正しいと思うならば、完全にマインドコントロールされているでしょう。

親鸞聖人は、法然上人の

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往ける

という仰せを聞いて救われた。

この単純明快なことさえ間違えている恥ずかしい知識です。

反論があるならいつでもどうぞ。

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コメント

よき人法然上人の仰せを被ればあまりにも明らかでしかも頼もしいです。

かつて親鸞会の『教学テキスト』に一枚起請文が載っていて、しかも信心のところを枠で囲めとまで書いてあったのです。
枠の範囲は忘れてしまいましたが、
「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申さば疑いなく往生するぞと思いとりて」だけで信心は百点満点だと思います。

導入から結論まで誤りだらけの会の中で、なぜかこの1ページだけは正しかったように思います。

投稿: ミントスプレー | 2018年12月23日 (日) 22時29分

こんにちは、Abcです。

月並みの挨拶で申し訳ございませんが、早いものでもう今年も終わろうとしております。「高森さんの珍説は終わることを知らず」ですか。今回も大きな土産をおいてゆかれましたね。

>「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている。
>「よき人の仰せを被りて」の「被りて」が大切でこれが聞くであり「聞く1つ」である。

「選択本願弘悪世」の「選択本願」が「念仏往生の願」であるとわかっていたならば、絶対にでない発言ですね。なかなかなものかとお見受けします。

「正定之因唯信心」や「唯能常称如来号」、「円満徳号勧専称」などもそうです。これらはすべて『正信偈』に記されていますので、ご確認いただけたらとは思います。

「源空の仰せ」は「念仏称えれば極楽浄土に往ける」もございますが、「義なきをもって義とす、義というは計らう御ことばなり」、「選びて専ら仏名を称えるべし」などもございます。飛雲さんが挙げられた、

>「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなり

は、源空聖人の代表する御ことばであります。ありがたいことです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年12月24日 (月) 15時57分

 (初めてお便りします。10数年前、S会退会者です。ここ数か月、飛雲さんを読ませてもらって、「19願邪義」や「白道邪義」を理論的に打破して下さって初めて、この方面の迷いがはれた心地です。感謝・感謝です。数十年前に知っておれば自分の人生もまったく別のものになっていたに違いありません。・・・今回12月23日のを読ませてもらっての感想というか疑問があり、便りさせてもらいました。)

 念仏を放置しての獲信はあり得ない。と、思います。T会長氏は信前の口称の自力性を否定する余り、念仏口称の他力性も否定していて、結局は念仏否定となっているきらいが見え、同調はできません。
 しかし、毎日、百回以上は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、人中では小声で、自宅や車では普通に唱えています・つい唱えざるをえないのですが、このように口で念仏を唱えていても、私は救われてはいません。           つまり、口称念仏は必要条件ではあっても、十分条件ではない。願力の伴った念仏こそ、と思われるのです。    念仏口称は必要。願力も必要。 ――― ならば、双方が必要。つまり、願力の表れとして聴聞させられながら、且つ念仏する。・・・のではないかと思いました。                                   その意味で良き人(結局は阿弥陀仏)の仰せ云々についてのT会長の云いは、暗示的に願力希求の側面があるのではと思われました。
 どう定義されている念仏なのか、事前に明示していないことで双方すれ違うのではないか、信後の念仏であれば正に飛雲氏の仰る通りであり、信前口称の念仏であればT氏の解釈も成り立つのでは、と思われました、。
(S会では教学も善行もなく末席。ご指導なり、助言よろしくお願いいたします。なお、「この情報を登録する」の
意味は分かりませんので)

 

投稿: 迷い人 | 2018年12月26日 (水) 08時41分

よき人には、飛雲師も入ると思っています。というより、今の私には、最接近のよき人なのです。飛雲氏の意図(弥陀の意図)なしの口称の念仏では、結局ぐるぐる空廻りしている文字通り空念仏の自分なのです。

投稿: 迷い人 | 2018年12月26日 (水) 08時49分

迷い人様

私は聖教の通りに書いているだけですので、私がよき人ではなく、善知識方がよき人になります。
親鸞聖人は『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

と仰っていますが、簡単に言うと、

「念仏を称えた者を極楽に往生させる」と深く信じて念仏を称えている人は、報土往生。
「念仏を称えた者を極楽に往生させる」と浅く信じて念仏を称えている人は、化土往生。

ということです。

共に、「念仏を称えた者を極楽に往生させる」を信じていますが、違いは深くか浅くか。

これが他力と自力の差です。

>毎日、百回以上は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、人中では小声で、自宅や車では普通に唱えています・つい唱えざるをえないのですが、このように口で念仏を唱えていても、私は救われてはいません。

これが浅く信じた状態です。親鸞聖人は、「罪福を信じて」称えている念仏を自力の念仏と仰っています。

では他力の念仏とは何か、それは本願力回向の念仏です。自らが称えた念仏の功徳で救われるのではなく、念仏を深く信じた信心で救われるのです。

会長の言っているのは、信心と念仏は別物です。親鸞聖人の仰っている信心は「念仏を称えた者を極楽に往生させる」と深く信じた心です。
つまり、会長の言っているのは、親鸞聖人が問題とされている自力他力以前の話です。

親鸞聖人が書写されて関東の同行に読むように勧められた『自力他力事』という書があります。
参考までに読まれると、宜しいかと思います。

投稿: 飛雲 | 2018年12月26日 (水) 10時38分

直ぐのご返答、大変有難うございました。論理は明快そのもので、長い事、不明であった念仏問題はこれですっきりしました。他の元S会員にも知らせてあげたい程です。これからも質問なりさせて頂くかもしれませんが、よろしくお願いいたします。有難うございました。

投稿: 迷い人 | 2018年12月27日 (木) 01時08分

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