教学的にはほぼ完璧と称賛する『教行信証講義』をパクった高森顕徹会長の白道釈
質問が来ましたので、それに答える形でエントリーを書きます。
親鸞会が白道を信前自力の意味とする最大の根拠が『散善義』にある
「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。
です。
「もろもろの行業を回して」は諸善を回向してだから、自力で求道していく意味だ
というのです。実は、これは高森顕徹会長オリジナルの解釈ではなく、そのように解釈してきた学者がいるので、それを使っているのは間違いないです。
実際、親鸞会を辞めようとする人が高森会長の説明する二河白道の譬え話に矛盾があることを指摘すると、最近よく出してくるのが山辺習学・ 赤沼智善共著の『教行信証講義』です。この『教行信証講義』は親鸞会で、教学的にはほぼ完璧とされている書です。ここでは内容は紹介しませんが、高森会長が『教行信証講義』をパクってこのように言っていることは、間違いないでしょう。
「回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。
しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。
いつも言うように、親鸞会が出している根拠の前後を見れば、それが間違いだとすぐに判るのです。
「人道の上を行きてただちに西に向かふ」ですが、これは譬え話の中にそのまま書かれてはいません。該当部分を抽出すると、
三定死に続けて行者が語った言葉の
一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。
とその後実際に白道を進んだ
決定して道を尋ねてただちに進みて
一心にただちに進みて道を念じて行けば
です。この3つ共、悪知識の言うことに逆らって進んでいるのです。悪知識の言っていることが、「諸善をせよ」ですから、それを実行していたら悪知識に信順して東の岸にいることになります。しかも「ただちに西に向かふ」のですから、回り道をしていない、つまり他力の道です。
もっと言うならば、阿弥陀仏の喚び声である「一心正念にしてただちに来れ」に対応して「ただちに西に向かふ」のです。阿弥陀仏が「ただちに来なさい」と喚ばれて、それに信順して「ただちに向かいます」です。
ですから、「もろもろの行業を回して」は、「悪知識の勧める諸善を捨てて」になるのです。
以上は善導大師の仰った内容で説明しています。親鸞聖人は、他力の信心についての説明をしている中でこれを出されていますので、尚更です。
三願転入にしてもそうですが、学者は今までになかった新しい解釈をしてそれを発表することで名声を得ようとするので、信心とは関係ないところで机上の空論が展開される傾向にあります。
覚如上人、蓮如上人が取り上げることすらされなかった三願転入を大々的に議論するのが学者の仕事です。その学者の説を鵜呑みにすることはやめた方が宜しいでしょう。
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コメント
こんばんわ、Abcです。
>「回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。(飛雲さん)
仰るとおり、ここでの「回して」は「翻して」であります。私はこれを読んでいる際に、以下の『和讃』、
『浄土和讃』観経意
定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし
如来利他の信心に 通入せんとねがふべし
「東の岸に留まれ」と群賊・悪衆生がいわれている事を翻して、
「一心正念にしてただちに(西へ)来れ」と仰られている事に信順(願生、帰命)しなさいと(通入せよと)願いなさい
という『和讃』があったことを思い出させていただきました。まことにありがとうございます。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年12月 6日 (木) 21時55分
ども、
>「回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので
とのことですが、『観経疏』で見る限り「回して」に「翻して」の意味はないのですが,「回して」をひるがえしてに意で使われている用例を教えて頂けたら幸いです。
もちろん『観経疏』も『教行証文類』も漢文ですから「回(廻)」を、ぐるりと回って方向を変えるという意味で取ることも可能です。それは、悪しき知識に騙されて絶対の幸福を目指すという間違った善を修していた「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ(回諸行業 直向西方也)」という行者の「回する」という方向の決断があるのですが、単純に善導大師の「白道釈」には自力の意味はないと断定してしまうと、御開山の示されたしびれるような凄さが判らなくなくようにも思えます。
なお『教行信証講義』は、百年ほど前の西欧思想との葛藤の上で著された書物であって現代の史学的に考察する真宗学とは少しく齟齬があるかもです。
教学を学ぶということは、「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」という信心の上で論じられるのであって、飛雲さんも御承知のように、高森親鸞会の「短冊教学」とは雲泥の差があるのでした。
ともあれ、親鸞会に憎しという論述には、
かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。
という『歎異抄』の著者の提言がありますが、ある意味では莫迦は抛っておけばいいのであって、それは阿弥陀さまがご心配なさることでした。御開山は「破邪顕正」という手法を採られなかったのであり、それが、
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを
という、「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり」(蓮如上人御一代記聞書)でした。ありがたいこっちゃ。
こんなことを記述してるから会員や脱会者から攻撃されるのだろうな、どうでもいいけど(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
投稿: 林遊@なんまんだぶです | 2018年12月12日 (水) 22時12分
林遊様
>「回して」をひるがえしてに意で使われている用例を教えて頂けたら幸いです。
「回」について二河白道譬喩から拾ってみると
「まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。」
「われいま回らばまた死せん。」
「なんぢ、回り来れ。」
「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」
です。これは「回して」とは違うと言われるかもしれないですが、少なくとも戻るという意味で善導大師は使われています。
善導大師は、自力他力という言葉を使われていませんので、親鸞聖人のように自力他力を明確に分けられていないし、自力を含んでの説明で判りにくいのは確かですが、善導大師の意図をくみ取るのに、西岸上の人の喚び声に対応しての「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」と考えるべきでしょう。
「一心」は直前の第七深信から、正定業に対しての「一心」なら「回して」は翻して、五正行に対しての「一心」なら「回向して」でも筋は通ると考えます。
なお、これでも親鸞会の会員に高森会長の嘘に気が付いてもらいたいと思って書き続けているので、親鸞会など放置しておけという意見には耳を傾けるつもりはありません。
投稿: 飛雲 | 2018年12月13日 (木) 06時19分
何だか誰も突っ込まないので書きますけど、そもそも回向って「翻す」の意味もありますからね。そもそもパーリ語の原語からしてparina-maで、na-maはnamas(南無)、pariは曲がって行く・転じるですから、そもそも「翻す」の意味を内包しています。
善導大師でいうと、三心の「三者回向発願心」を釈した部分で、回向は第一義では回因向果、第二義では回思向道と、2つの釈をしています。回因向果は「因を回らして果に向かう」ですから、行を振り向けて果を求めるという意味で、内容的には自力です。回思向道は「思を回して道に向かう」ですから、人間の思慮分別を回転して、方向転換してそれを捨て、公明正大な大道に向かうという意味で、内容的には他力です。善導大師は三心の3つとも自利と利他の二面の釈をしていますね。なので、「回向」と「翻す」を対比するのは誤っていますし、その意味で『講義』の記述も特に奇を衒ったことを言っているわけではないと思います。
問題とすべきは、彼らにおいて親鸞学徒を自称するのであれば当然に回思向道の意味を重視すべきところ、反対に専ら回因向果の意味に取って自力の信心を白状してしまっているところでしょう。まあ、それ以前に彼らは三心釈なんて読んでないのでしょうけども、我々まで彼らの珍説に引っ張られる必要はないでしょう。
投稿: dandelion | 2018年12月17日 (月) 22時43分
dandelion 様
貴重な御意見、ありがとうございます。
投稿: 飛雲 | 2018年12月18日 (火) 12時01分