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2018年12月

2018年12月 9日 (日)

『阿弥陀経』を読んだことがあっても意味は知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも以上によく判らないものでした。

映画『なぜ生きる』に対する新たな質問、

仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。

について答える形でした。
その中で『阿弥陀経』についての話が唐突に出てきて、支離滅裂のうちに終わりました。

『阿弥陀経』を形の上では読んだことはある高森会長ですが、内容についてはほとんど判っていないでしょう。

親鸞聖人がどう仰っているか、当然知らないでしょうから、少し教えておきます。

『教行信証』化土巻にこのようにあります。

『小本』には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。

(現代語訳)

『阿弥陀経』には「一心」と説かれている。念仏以外の他の行がまじらないから、一といわれるのである。また、この一心について深い一心と浅い一心とがある。深い一心とは他力回向の真実の心であり、浅い一心とは定善・散善を修める自力の心である。

もう一つ、

『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」といへり。これはこれこの『経』の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。
彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。
『経』に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。
その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。
『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。

『阿弥陀経』には、自力の義と他力の義の2つがあるというのが親鸞聖人の解釈です。
自力の義と他力の義に共通しているのは、念仏の一行です。異なっているのは、「一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。」とあるように、「」の「一心」と「」の「一心」の違いです。

もう一度言うと、『阿弥陀経』に説かれていることは、自力の意味でも他力の意味でも、念仏が勧められているということです。

高森会長は『阿弥陀経』を出していながら、そのような説明は一切していませんし、できません。知らないわけですから。

なお、『阿弥陀経』の自力の念仏について「多善根・多功徳・多福徳因縁」と親鸞聖人は仰っています。「多善根・多功徳・多福徳因縁」である自力の念仏を鼻で笑う高森会長が、この点だけでも退会者から鼻で笑われていることを知った方がよいですよ。

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2018年12月 5日 (水)

教学的にはほぼ完璧と称賛する『教行信証講義』をパクった高森顕徹会長の白道釈

質問が来ましたので、それに答える形でエントリーを書きます。

親鸞会が白道を信前自力の意味とする最大の根拠が『散善義』にある

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。

もろもろの行業を回しては諸善を回向してだから、自力で求道していく意味だ

というのです。実は、これは高森顕徹会長オリジナルの解釈ではなく、そのように解釈してきた学者がいるので、それを使っているのは間違いないです。
実際、親鸞会を辞めようとする人が高森会長の説明する二河白道の譬え話に矛盾があることを指摘すると、最近よく出してくるのが山辺習学・ 赤沼智善共著の『教行信証講義』です。この『教行信証講義』は親鸞会で、教学的にはほぼ完璧とされている書です。ここでは内容は紹介しませんが、高森会長が『教行信証講義』をパクってこのように言っていることは、間違いないでしょう。

回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。

しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。

いつも言うように、親鸞会が出している根拠の前後を見れば、それが間違いだとすぐに判るのです。

人道の上を行きてただちに西に向かふ」ですが、これは譬え話の中にそのまま書かれてはいません。該当部分を抽出すると、

三定死に続けて行者が語った言葉の

一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。

とその後実際に白道を進んだ

決定して道を尋ねてただちに進みて

一心にただちに進みて道を念じて行けば

です。この3つ共、悪知識の言うことに逆らって進んでいるのです。悪知識の言っていることが、「諸善をせよ」ですから、それを実行していたら悪知識に信順して東の岸にいることになります。しかも「ただちに西に向かふ」のですから、回り道をしていない、つまり他力の道です。

もっと言うならば、阿弥陀仏の喚び声である「一心正念にしてただちに来れ」に対応して「ただちに西に向かふ」のです。阿弥陀仏が「ただちに来なさい」と喚ばれて、それに信順して「ただちに向かいます」です。

ですから、「もろもろの行業を回して」は、「悪知識の勧める諸善を捨てて」になるのです。

以上は善導大師の仰った内容で説明しています。親鸞聖人は、他力の信心についての説明をしている中でこれを出されていますので、尚更です。

三願転入にしてもそうですが、学者は今までになかった新しい解釈をしてそれを発表することで名声を得ようとするので、信心とは関係ないところで机上の空論が展開される傾向にあります。

覚如上人、蓮如上人が取り上げることすらされなかった三願転入を大々的に議論するのが学者の仕事です。その学者の説を鵜呑みにすることはやめた方が宜しいでしょう。

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