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2018年11月 6日 (火)

絶句の連続でも法論に負けていないと強弁するおめでたい親鸞会

聖道門を断念した人を浄土門に導くのが19願の役割であると親鸞聖人が解釈されたのは、明々白々の厳然たる事実なのですが、それを突き付けられて苦し紛れに親鸞会が言うのが、

我々も聖道門の機だ

です。
出来の悪い詭弁に苦笑するしかないのですが、mixiの法論では、親鸞聖人の聖道門の定義、浄土門の定義を明示したら、やはり絶句してしまいました。
その定義とは『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

とあります。
今生きているこの人間界で聖者となりさとりを得ることを目指すのが聖道門。
死んだ後に浄土に往ってさとりを開くことを目指すのが浄土門。

明確に違います。
自己の修行によって出離、成仏を目指すか、阿弥陀仏のお力で浄土に往生して、成仏を目指すのかということです。
もっと簡潔に言うと、浄土往生を目指すかどうかの違いです。

浄土を目指しながら聖道門だというのは、矛盾以外の何物でもありません。

尤も、親鸞会は浄土往生を目指さず、かといってさとりを得ることも目指さず、空想の絶対の幸福を目指していますので、浄土門でも聖道門でもなく、単なる外道です。

以上を踏まえると、聖道門から浄土門へ入るのに必要なのは、浄土往生を目指すことです。それを欣慕浄土と言われます。

同じく化土巻に

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

とありまして、「欣慕浄土の善根」と親鸞聖人は仰っています。
19願、『観無量寿経』の定散二善は、浄土往生を願っていない人に、浄土往生を願わせるための善であり、方便だということです。

浄土往生を願っていないのは聖道門の人で、聖道門の人を浄土門に導くために浄土を願わせる必要があり、それが19願、定散二善だと親鸞聖人が仰っているのです。
それは善導大師の解釈によるものであるとも仰っています。

それでは善導大師の解釈とは何かと言うと、二種深信を含む七深信の中にある第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。浄土を願っていない人に浄土を願わせるのが、定散二善である、との解釈です。もちろん、浄土を願っていないのは聖道門の人です。

この「欣慕浄土の善根」をmixiで高森顕徹会長に示したら、何度目かの絶句でした。

総まとめをしますと、
・『大無量寿経』の19願を異訳経でみると、19願は菩薩道を作す聖道門の人に対しての願と明示されている。
・善導大師は『観無量寿経』の定散二善は、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせるものだと解釈された。
・法然上人は、19願は聖道門の人を18願に導くための願と仰った。
・親鸞聖人は、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導き、18願に引き入れるための願だと断言された。

これだけ決定的な証拠が揃っているのですから、19願が、聖道門とは無関係の一般の人に関係があると考える思考は、あり得ないのです。

決定的な証拠以外にも、状況証拠は山ほどあるのですが、それを示すと、膨大な量のエントリーになりますので、今回はこれくらいで留めておきます。

将棋で言うなら、完全に詰んでしまったのに、勝負を続けて、王を取られ、金銀飛車角を取られ、持ち駒すべて取られているのに、

将棋盤がまだあるから勝負はついていない

と言っているような状態です。

いずれにしましても、聖教を全く読んでいないことが丸判りの高森会長です。

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三願転入」カテゴリの記事

コメント

飛雲さん

こんばんわ、Abcです。
今回もなかなかなパンチが効いた文章、ありがとうございます。

>苦し紛れに親鸞会が言うのが、「我々も聖道門の機だ」です。

これを読んだ瞬間は「え?」とおもいました。ただ現状の親鸞会は、年会費6万の「由々しき団体」でありますので聖道のものなのでしょう。今度からは「浄土真宗」ではなくて「聖道妙宗」ですね。

>浄土を目指しながら聖道門だというのは、矛盾以外の何物でもありません。

本当に「矛盾」でしかないてすし、どちらも修めているなら「雑修」です。少なくとも私は蓮如上人がいわれている「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。」でありますので、(専修正行を修するものですので)親鸞会のように「どちらも修する」という団体からは厭い離れます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年11月 6日 (火) 22時38分

とてもわかりやすい記事を有り難うございました。
日頃、散々聖道門を見下して謗っていながら、言うに困って自分たちは聖道門と言い出すのはひどいです。
お聖教を読まないと教えを誤りますね。自分もお聖教に親しもうと思います。

投稿: ミントスプレー | 2018年11月 7日 (水) 21時17分

連日のコメント失礼致します。
先日は詳しくご教授ありがとうございました。

三願転入についての親鸞会とのやりとりについて飛雲さんからご意見を頂きたくコメントさせて頂きました。

ある程度前の話で内容も完璧に覚えているとは言えませんし、飛雲さんからすれば何度もやりとりされてきた内容で飽き飽きされているかとも思うのですが、もしお時間が許せばご対応よろしくお願い致します。


親鸞会でも三願転入に対する飛雲さんのような方からの指摘に反論を用意しているようで、以前遠回しに親鸞会が念仏を勧めないのはどうしてか?とある講師に聞いたところ次のように説明されました。


世間では念仏一行で救われるという話が多くありますがそれは間違いです。

まず親鸞会では念仏を否定しているわけではないのです。ただ念仏は非常に間違えやすい言葉で皆さんが間違えることのないよう慎重に扱っているだけなのです。よく誤解されているのが他力の念仏は阿弥陀仏のお力で私達を救ってくださる尊いものですが、自力の念仏は善であり諸善の一つなのです。

つまり自力の念仏行に勤しむということは、諸善を積むことに他ならず、結局のところ念仏一行というのも親鸞会がいつも言ってるように、宿善を厚くし信心決定にむかうための善の勧めの一つなのです。

そして諸善の中で最も宿善が厚くなる聴聞こそが信心決定への近道であり、我々親鸞会が勧めているものなです。

あなたは本当に念仏だけで救われると思っているのですか?いまこの場で南無阿弥陀仏と唱えて獲心できるのですが?本当に聴聞なしに念仏一行で救われると思うのですか?

それは称名正因の異安心というのですよ。そのままでは救われず、無間地獄に落ちることになります。だからあなたも阿弥陀仏のお声が届いて他力の念仏になるまで親鸞会で聴聞するしかないのです。親鸞聖人や蓮如上人も聴聞を勧められていたでしょう?それがすべてなのです!

と返されてしまいました。

うまく丸め込まれたな…苦笑、というのが正直な感想なのですが、実際のところ、私がどれだけ念仏だけが救われる行だと思って南無阿弥陀仏と唱えても、何か特段変わったこともなく獲心したとも思えず痛いところをつかれたなと思いました。

また確かに親鸞聖人が聴聞について記されていたりご同朋の方々に唯心鈔や後世物語聞書などを紹介されておられたようなので、聴聞も勧めておられたのも事実だと思います。
もし本当に念仏一行で救われるのであれば、親鸞聖人もこれらのご聖教を勧めず、「ただ念仏一行で救われますよ、さあ南無阿弥陀仏と唱えてください。」と伝えられるだけだったのではないか?と疑問に思ってしまい講師の意見に反論することも出来ませんでした。

結局、このようなやりとりもありイマイチ自分の中で決心が付かずズルズルと親鸞会に在籍しているようなところがあります。

親鸞会の教義が間違っていて親鸞会でどれだけ話を聞いても救われないという話はなんとなく理解してきましたので、それ以外のところで飛雲さんからこの親鸞会の反論に対して何かご意見を頂けないでしょうか?よろしくお願い致します。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月 7日 (水) 23時24分

横からすみません。黙っていられなくなったので一言だけ書かせて頂きます。
端的に言って、大事なのはどうすれば信心決定できるかですよね。
聴聞はもちろん大事です。聞く一つですが、問題は、何を聞くかです。
自問してみて下さい。
結論から言いますと、「念仏一つで往生できる」と聞かせて頂くのが浄土真宗の聴聞です。
「一声の称名念仏で往生できる。念仏が聞こえただけでも往生できる。」と聞かせて頂き、「その通りだった」と思ったらそれでよいのです。

投稿: ミントスプレー | 2018年11月 8日 (木) 01時41分

通りすがりの親鸞会員様

相変わらずの念仏誹謗ですね、浄土系の宗派ではあり得ない主張です。

ご質問の内容は、このブログの「唯念仏」のカテゴリーに詳しく書いてあります。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/cat60085309/index.html

簡単に述べますと

>世間では念仏一行で救われるという話が多くありますがそれは間違いです。

というのが間違いです。
真実の信心とは、念仏一行で救われると深く信じたことと親鸞聖人が断言されているのですから、真実信心を全く知らないのです。

>自力の念仏は善であり諸善の一つなのです。

こういうのは聖道門です。歴代の善知識方で、こんなことを仰った方がおられるなら、教えてください、と言ったら絶句するでしょう。
二種深信は、善では救われない、念仏だけが救われる唯一の道と深くしんじることと、善導大師、親鸞聖人が教えられていますように、諸善と念仏とは対比して教えられるのが浄土門の超常識です。
『選択本願念仏集』は、最初から最後まで、諸善と念仏との対比で説明されています。法然上人の仰ったことを、何一つ知らないのです。
親鸞聖人の御著書も、すべて諸善と念仏との対比で教えられています。『教行信証』ももちろん、『正像末和讃』の誡疑讃もその典型例です。

>つまり自力の念仏行に勤しむということは、諸善を積むことに他ならず、結局のところ念仏一行というのも親鸞会がいつも言ってるように、宿善を厚くし信心決定にむかうための善の勧めの一つなのです。

もしそうならば、念仏を勧めるのが筋でしょうが、諸善は勧めても念仏を勧めない理由にはなりません。

>そして諸善の中で最も宿善が厚くなる聴聞こそが信心決定への近道であり、我々親鸞会が勧めているものなです。

この根拠を出してください、あくまで宿善が厚くなるという根拠です、といったら屁理屈しか言えないでしょう。ないのですから。

>あなたは本当に念仏だけで救われると思っているのですか?いまこの場で南無阿弥陀仏と唱えて獲心できるのですが?本当に聴聞なしに念仏一行で救われると思うのですか?

>それは称名正因の異安心というのですよ。そのままでは救われず、無間地獄に落ちることになります。だからあなたも阿弥陀仏のお声が届いて他力の念仏になるまで親鸞会で聴聞するしかないのです。親鸞聖人や蓮如上人も聴聞を勧められていたでしょう?それがすべてなのです!

念仏称えて無間地獄に堕ちるとは日蓮と同じ主張ですね。親鸞聖人も蓮如上人も自力念仏のままの人は、化土往生だということしか仰っていないです。六道輪廻でさえない、化土往生です。根拠は山ほどありますが、まったく知らないのでしょう。もちろん親鸞聖人も蓮如上人も念仏を勧められています。
最も端的なのが、蓮如上人の『正信偈大意』の

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

です。「この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ」はどんな意味でしょうか、と尋ねると絶句するでしょう。

法然上人が自力の念仏を勧められていることは、説明するまでもないことですし、信心のない人も、念仏を称え続ければ必ず往生できると仰っています。
親鸞聖人も『浄土和讃』で

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

と仰っていますので、自力の念仏で往生できることを認められています。

ただし、親鸞聖人の場合は、自力の念仏に留まってそれが正しいという人が多かったので、「念仏を称えて往生できる」と深く信じた信心を強調されているのです。蓮如上人も同じです。
親鸞聖人も蓮如上人も「念仏を称えて往生できる」と浅く信じた心で念仏を称えていては真実の浄土(報土)には往けないから、「念仏を称えて往生できる」と深く信じた心で念仏を称えて真実の浄土(報土)に往きなさい、と教えられているのです。

聴聞とは、ミントスプレーさんも言われているように、「念仏称えただけで往生できる」という教えを聞くことです。

投稿: 飛雲 | 2018年11月 8日 (木) 03時21分

通りすがりの親鸞会員様

「あなたは本当に念仏だけで救われると思っているのですか?いまこの場で南無阿弥陀仏と唱えて獲心できるのですが?本当に聴聞なしに念仏一行で救われると思うのですか?」

阿弥陀仏の救いを「何では救われる、何では救われない」と私の方で判断したり、思うことのすべてが自力の心だと思います。「聴聞で救われる」「念仏では救われない」と思うことはどちらも親鸞聖人、蓮如上人が捨てよ言われた自力の心です。

親鸞会の講師はあなたに「こう思うな、こう思え」と自力の心を勧めています。このままではその講師もあなたも阿弥陀仏の他力の信心の身にはならないと思います。

投稿: 園児 | 2018年11月 8日 (木) 08時23分

詳しく教えられて下さりありがとうございます。
歎異抄後序の「ただ念仏のみぞまことことにておはします。」の念仏を「阿弥陀仏の本願」と置き換えて解釈しております(とどろき11月号)。
念仏が阿弥陀仏の本願と巧みに置き換えられて展開されます。
どうしても念仏のありがたみを消し去りたいわけです。
南無阿弥陀仏(念仏)は、真如の世界から発せられる、凡夫にも聞こえる稀有の言葉です。
無上に尊いお言葉はない、と味わっております。
なんまんだぶ ありがたい

投稿: 一読者 | 2018年11月 8日 (木) 08時55分

一読者様

>歎異抄後序の「ただ念仏のみぞまことことにておはします。」の念仏を「阿弥陀仏の本願」と置き換えて解釈しております(とどろき11月号)。

阿弥陀仏の本願を親鸞聖人は念仏の願と仰っているのです。また、念仏を称えた者を極楽に往生させる誓いという言い方が、何箇所もあります。

要するに、親鸞会は阿弥陀仏の本願を全く理解していないし、敢えて曲解して会員に救われないようにしているだけのことなのです。

投稿: 飛雲 | 2018年11月 8日 (木) 09時13分

飛雲様
コメント頂いた皆様方

お詳しい解説ありがとうございました。いろいろと気づくことができました。

親鸞会は念仏一行というのを念仏を唱える以外なにもしなくていいのか!?という極論にすり替えていたのですね。

聴聞というのが「念仏称えただけで往生できる」という教えを聞くこということ、とても腑に落ちました。念仏一行と聴聞の関係が矛盾なく分かりとてもスッキリしました。

そして皆様方のご指摘で気づいたのですが、私も長く親鸞会と接しているうちに知らず知らず念仏誹謗の精神になっていたのだなと思い知らされました。

浄土往生を目指しながら諸善に励むことは雑行であり、今すぐ辞めなさいと善知識の方々が強く戒められていたのにも関わらず自分がそうしていたと思うと情けないです。

やはり親鸞会のマインドコントロールは凄まじく知らないうちにだいぶ毒されているようですね…。理屈では分かっても、感情で抗えないのがマインドコントロールの恐ろしいところですので、少しずつ枷を外せるよう努力したいと思います。

飛雲さんからすれば何度もブログで取り上げているような話で、不愉快に思われるような内容でもあったにも関わらず真摯なご対応ありがとうございました。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月 8日 (木) 21時20分

通りすがりの親鸞会員様

退会しても高森邪義がいつまでも頭に留まっている人が結構います。
それだけ根深いのです。
また何かあれば、いつでもコメントください。

投稿: 飛雲 | 2018年11月 8日 (木) 21時32分

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