高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます
二河白道の譬え話について、善導大師が何を白道で譬えられたのかとの質問がありましたので、少し解説します。
二河白道の譬えを一から説明すると長くなるので、前提として、
・三定死は白道に乗る前の東の岸にいるとき
・西の岸の人の喚び声を聞くのは東の岸にいるとき
を最低限判っていることとします。
以下、善導大師の著わされた『散善義』から
まず東の岸で行者が白道に乗るかどうか迷って三定死になった後
この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
東の岸の人は、「ただ決定してこの道を尋ねて行け」
西の岸の人は、「一心正念にしてただちに来れ」
そして行者は
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。
となります。「決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」です。
なお、「疑怯退心」とは、「疑ったり、恐れたりして、しりごみする心」です。
そして進んで行った結果は
一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。
です。「一心にただちに進みて道を念じて行けば」「西の岸に到りて」です。
「決定して」「一心に」「疑怯退心を生ぜず」はどんな信心か考えてみてください。
以上が譬え話の内容から、白道に乗る心を抽出したものです。
次に、譬えを善導大師がどう解説されているかについてみてみます。
「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。
西の岸の人の喚び声は、「弥陀の願意」です。もちろん18願意のことであって、19願意ではありません。
白道を進むことについて
仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て
とあります。「二尊の意に信順して」です。釈尊の意についてはこの譬え話では明確に仰っていませんが、阿弥陀仏の意に関しては、18願意です。18願意に「信順して」です。更には「かの願力の道に乗じて」ですから、18願力の道に乗ったことです。その結果、浄土に生まれることができた、という内容です。
ここまでくれば説明は不要でしょうから、次の質問に容易に答えられると思います。ただし、思考力が微かでも残っていれば。
問 善導大師は信前の求道心・聞法心を白道で譬えられたのか18願の真実信心を白道で譬えられたのか、どちらでしょうか?
高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます。
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