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2018年11月25日 (日)

創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、二河白道の譬え話を使っての、「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」という求道の強調でした。

「白道」は、求道心、聞法心だとのこれまで通りの説明です。以前に、

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

との大ボケの珍説を披露したこともなかったこととして、金集め人集めの正当化に必死になっている様子です。
「白道」が、他力の信心であることは、これまで耳にタコができるほど言ってきましたし、一時的にせよ、高森会長も親鸞聖人に限定して、それを認めていたわけですから、今更説明するまでもないことです。
今回は少し違う角度から高森会長の創作教義の嘘を暴いていきます。

蓮如上人が、名人の解釈だから、その解釈には無条件に従うとまで大絶賛されている存覚上人の書かれた『持名鈔』には、このようにあります。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

釈尊などの聖道門での求道の実例を挙げられた後にこのように続いていますので、

聖道門では「家をもすて欲をもすてて修行すべき」求道であるのに対して、浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」だと教えられています。世間の流れに逆らうこともなく、名利の欲にまみれたまま、無上の阿弥陀仏の18願を聞いて、出離するのだということです。

もう一度、高森会長の説明は

欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない

これが存覚上人と同じだと思うなら完全に思考停止でしょう。

念のため、蓮如上人のお言葉、『御一代聞書』

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

如何でしょうか。存覚上人の「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」は蓮如上人のお考えとも一致しています。

では親鸞聖人はどうでしょうか。親鸞聖人のお言葉はいくつもありますが、最も判りやすいのが『教行信証』信巻にある阿闍世の獲信物語です。

阿闍世の獲信後の言葉は

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

です。阿闍世には、命がけの求道も聞法もなかったとの告白で、それを親鸞聖人が紹介されているのです。なお、阿闍世の獲信物語は、『教行信証』全体の約1割を占めていますので、代表的”求道”を親鸞聖人が紹介されたということです。

三願転入の復活と会費の値上げ、そして命がけの求道の捏造と続いていることから判るのは、親鸞会の苦悩の表面化です。この傾向は、ますます顕著になってくるでしょう。

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二河白道」カテゴリの記事

コメント

私たちの命がけなど何の役に立つのでしょうか。
「阿弥陀さまの命がけで、このままの私が救われる」というご法義が、浄土真宗なのに。
高森会長の話しは、本当に、全く真逆です。
「南無阿弥陀仏が 聞こえている」ということは、「法蔵菩薩の建てられた四十八願が、全て成就して、私を 仏にする阿弥陀さまが はたらいてくださっている」って、いうことを、お聞きすれば、私がそこに付け足すものは、何もなかったと、自力に用事がないと教えていただくのが、浄土真宗のお聴聞です。
苦しいばかりの高森会長の教えからは、どうか 離れて、「後生の解決をして、安心して生きて、安心して死んでいける、浄土真宗の教え」を、正しくお話ししてくださる方から、お聴聞していただきたいです。

南無阿弥陀仏

投稿: RC | 2018年11月26日 (月) 07時55分

いつもお世話になっております。
コメント失礼致します。

先日、教学に詳しい先輩会員に獲信の時に親鸞会の言う地獄に落ちるとか極楽に行くことが分かる体験があるというのは仏のさとりであって獲信とは関係ないのではないですか?と聞く機会がありました。

その時の返答として、「私達が後生のことがハッキリと分かるのは獲信の時に阿弥陀様からさとりの一部を頂くことが出来るからだ。そのことを親鸞聖人も獲信すれば仏のさとりの一部をこの世で頂け、それを「悟忍」が頂けるとして御聖教にもちゃんと書いてある。だから後生の一大事がハッキリと分かる悟忍が頂けるまで聴聞しないといけないんだ!」
と返されてしまいました。

飛雲さんのおかげでこれも曲解なんだろうなぁと冷静な気持ちで聞くことは出来たのですが、言い返すほどの根拠は出すこと出来なかったので、この返答が間違っている根拠を教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願い致します。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月26日 (月) 21時39分

通りすがりの親鸞会員様

凄いですね、親鸞会の邪義が。
もっとも判りやすいのが『執持鈔』です。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。


弥勒菩薩でも判らない往生を「凡夫の浅智」で判るというのは、浅智というより無智なのでしょう。
一文で示すなら「さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」
信心を獲ても智慧は変わらない、敢えて言うなら、仏智になる種を頂いたのであって、まだ種では智慧の芽さえも出ていないのです。

以前のエントリーでもこのことについては詳しく書いていますので、以下を参照してください。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-0b33.html
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-0fa0.html

投稿: 飛雲 | 2018年11月26日 (月) 22時01分

飛雲様

 お世話になっております。

 この日曜日は記事にもある通り、二河白道の譬え話でしたが、頑なに二河白道の譬え話が教行信証信巻にあることには触れられませんし、話の時も会員に確認させようとしません。
 法蔵館の真宗聖典P.329~を開いてみれば、群賊悪獣が旅人を殺そうとしてくるのは白道に乗るどころか、二河を見る前ということがわかります。
 また、群賊らが「戻ってこい、この道は険しくてとても渡れるものではない、必ず死ぬぞ、悪気があって言っているのではない」というのが白道に乗った後ですから、順番が異なっています。

 さらに、「中間の白道四五寸というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中能く清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふるなり」で、白道が求道心、聞法心ではないことは明らかです。

「いつも親鸞聖人のお言葉を出されてお話しくださる」と言われる会長が根拠を示さないときは、不都合なことがあるからだと思い知らされました。

 バックナンバーに二河白道の譬えについて詳しい解説があればご紹介いただきたいです。
 よろしくお願いいたします。

投稿: 形だけの会員 | 2018年11月26日 (月) 23時49分

形だけの会員様

会長は間違った話をしていると判っているのですから、あのような態度になるのです。
二河白道の譬えについては、何十回も書いてきました。
古いものはカテゴリー分けしていませんが、ここ数年のエントリーはカテゴリー分けしてあり、二河白道カテゴリーを見ていただければ、宜しいかと思います。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/cat70510769/index.html

投稿: 飛雲 | 2018年11月27日 (火) 06時48分

親鸞会の善導大師の教えられ方で教えているという根拠は、確か〝清浄願往生の心を「生ぜしむる」〟と「生ずる」の違いだけでしたよね。使役だから他力、能動だから自力、と文脈は出さずにそこだけ出して押し込んでくるでしょうね。
講師部のタチが悪いのは、それ以外聞かされてないから、文脈などから他力の意味しかないと説明しても、「生ずる」だから自力!でゴリ押しして来ることですね。
拠り所がそこしかないから、こちらが出した根拠は無視して、「お聖教に書かれてある事を否定するのか!」みたいなことを言ってくるので、会話にならないですよね。
そこだけを言い続けてくるので、多少疑問に思った会員も何となく「そんなもんかなぁ」と思ってしまい、疑問に蓋してしまうのかなぁ。

投稿: たぶんまだ会員 | 2018年11月27日 (火) 07時04分

こんにちは
RC様が
>私たちの命がけなど何の役に立つのでしょうか。
>「阿弥陀さまの命がけで、このままの私が救われる」というご法義が、
>浄土真宗なのに。
>高森会長の話しは、本当に、全く真逆です。
を拝見して、この「命がけ」という言葉で気づきました。

高森会の主張
「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」
親鸞聖人
「阿弥陀仏の本願成就を疑心無く聞く」
と並べますと(親鸞会が「何を」聞くかを示していないことは置いておいて)
親鸞会の主張が本当ならば

『欲と怒りと戦って命がけで』=『疑心無く』

となることになります。いったいこの等号が成り立つのでしょうか?
『欲と怒りと戦って命がけで』は「欲と怒りと戦う心」も「命をかける心」も
どちらも自力の心ですよね。
一方、『疑心無く』は私たちの「はからいの心(=自力の心)をはさまず」
ということになるので、上の等式はまったく反対の事をイコールで結んでいることに
なります。

阿弥陀仏に救われるには「欲と怒りと戦う心」も「命がけの心」も捨てて聞きなさい
ということだと思います。つくづく親鸞会は絶対に救われない、親鸞聖人の教えと
間逆のことを教えているのだとわかりました。

投稿: 園児 | 2018年11月27日 (火) 08時45分

飛雲様

お詳しい解説ありがとうございました。

解説、エントリー共に読ませて頂きましたが大変勉強になりました。やはりどう御聖教を読んでも親鸞会の言うような獲信体験を否定されていますね。確信が高まりました、ありがとうございます。

それで重ねての質問で申し訳ないのですがもう一つお答え頂けないでしょうか?

この前の先輩会員との話では獲信して悟りが頂ける根拠として、相変わらず正信偈の「与韋提等獲三忍」を出して獲信すればイダイケと等しく三忍を得られるとの解説をし、そのあと三忍の解説として教学聖典3号を出して来て、「悟忍-仏智を悟らせていただいた心。」を根拠に、だからここに書いてある通りに我々も悟りの一部を頂けるんだというような内容でした。

内心、教学聖典は御聖教ではないし、親鸞聖人が三忍について説明している御文を出さないと根拠にはならないだろう…と思ってはいたのですが色々面倒だったので黙って聞いていました。

ただもし次回があればもう少し反論してみたいと思っておりますので親鸞会の教学ではなく、親鸞聖人が三忍についておっしゃっている御文があれば教えて頂けないでしょうか?

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月27日 (火) 21時51分

通りすがりの親鸞会員様

質問の答えとして、以下を読んでみてください。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-19f6.html

投稿: 飛雲 | 2018年11月27日 (火) 22時01分

ども。林遊@なんまんだぶです。

浄土真宗でいう三忍中の悟忍の忍とは「認可決定」の意で仏の覚りの意味ではありません。
この意を真仏弟子釈では、

夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。
http://wikidharma.org/5bfd4fb8130ba

と、凡夫である十信の中の忍とされています。
御開山は、賜った信の「徳」の義を表現する為に「三忍」という語を使用されますが、こういう表現は阿弥陀仏の、なんまんだぶを称えて必ず救われてくれるといふ阿弥陀仏の「信」を指すのでした。高森親鸞会では妄想の信心を説きますが、阿弥陀仏の信を論ずることはないのでした。

「三忍」
http://wikidharma.org/5bfd5235e84d0

阿弥陀仏の、必ず救うという仰せは、必ずたすかるということであり、高森親鸞会の求道を主体とした論理ではこれが解らんのでした。
ちなみに仏教での求道の「道」とは、菩提の意味であり絶対の幸福という妄想とは異なるものでした(笑
http://wikidharma.org/5bfd54b047608

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: 林遊 | 2018年11月27日 (火) 23時32分

飛雲先生


阿闍世王の獲信について質問させていただきます。

阿闍世王は、釈尊の月愛三昧よって身体を治し、阿鼻地獄に堕す恐怖を癒された後、無根の信を生じましたが、私にはこの場面が非常に唐突に映ります。
というのも“一向専念無量寿仏”や“一心専念弥陀名号”といった“阿弥陀仏の本願によって救われた”という明確な文言が見受けられないからです。
むしろ釈尊によって救われたかのような印象さえ持ちます。

もちろん私の稚拙な読解力で梵行品・迦葉品を斜め読みしただけなので、見落とししているかもしれませんが、それらしき文言は『大般涅槃経巻十七 梵行品第四』に、

「如来以能 除諸悪相 是故称仏不可思議 王若往者 所有重罪 必当得除 」「是人得遇如来大師 即時得滅 地獄因縁 発阿耨多羅三藐三菩提心 是故称仏 為無上醫 非六師也」

等々見つけましたが、果たしてこれが“阿弥陀仏によって救われた”という明確な文言であるかどうかは、今の私ではわかりません。

五逆の阿闍世王が具体的にどのようにして救われていったのかは大変知りたいところです。

また『平等覚経』と『教行信証行巻』に説かれている「阿闍世王太子」が阿闍世王自身だとすると“阿弥陀仏の本願を聞いて救われた”と納得できますが、どうやら王の息子の和休だという説もあるそうですね。

もちろん阿闍世王という五逆の悪人が救われたということと、また伊蘭子から栴檀樹が生えるという因果を超えた無根の信を生じたことなどから、阿弥陀仏による救いであることは容易に推察できますが、それに加えて『涅槃経』における明確な文言があればと思います。

大変煩瑣な質問となりましたが、お教えいただければ幸いです。

投稿: 猿松 | 2018年11月28日 (水) 18時30分

猿松様

仰る通りですが、これは、親鸞聖人がそのように解釈されたという以上のものではありません。
五逆罪を犯した阿闍世が救われるのは、阿弥陀仏の18願以外にはあり得ない、という理屈です。
阿弥陀仏の18願も善巧方便ですから、真実のそのままではありません。真実を理解できない認識できない私たちのために理解でき認識できる形として顕わされたのが阿弥陀仏の18願であり、念仏です。釈尊は仏でありますから、対機説法で、阿弥陀仏の18願、念仏という説明をされずに、阿弥陀仏の18願、念仏の真実そのものを別の善巧方便で阿闍世を導かれたのだと私は味わっております。

投稿: 飛雲 | 2018年11月28日 (水) 18時40分

飛雲先生

ご返答ありがとうございました。

親鸞聖人は、阿闍世王の救済には阿弥陀仏の御働きがあるという隠された意味を顕かにされたということですね。そして結論として
「今大聖の真説によるに難化の三機、難治の三病は大悲の弘誓を憑み利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治し、これを憐愍して療したもう。」
と、“五逆謗法闡提は阿弥陀仏しか救えない”と、述べられたのですね。

私事で恐縮ですが、私には韋提希夫人のような憧憬と感動をもって浄土を願生するような殊勝な心はありません。そこで“親鸞聖人が韋提希夫人よりも重要視された”という阿闍世王に興味がわき、私も「このヒトよりはマシだろう」という思いでこの人物のことを調べておりました。より詳細を知りたいと質問させてもらった次第です。

しかし最近では自分には身体を害うほどの慚愧の心などあるのかとも思わされております。
だから、より重罪の提婆達多や善星の救済を知りたいところですが、親鸞聖人が取り上げていないということは、阿弥陀仏の救済とは関係が薄いということですね。

投稿: 猿松 | 2018年11月29日 (木) 12時55分

猿松 様

韋提希が浄土を願ったと言っても、そんなに殊勝なものではないです。
『観無量寿経』に韋提希が釈尊に訴えたのが、

やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。

です。簡単に言うと、こんな穢れて苦しみに満ちた世は嫌だから清らかな苦悩のない世界に往きたい、という程度です。
慚愧の心は、親鸞聖人もないと仰っていますので、いずれにしてもあまりレベルを上げることはないでしょう。それでは、十方衆生は救われないです。

投稿: 飛雲 | 2018年11月29日 (木) 18時57分

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