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2018年11月 9日 (金)

真宗学の基本さえ学んでこなかった高森顕徹会長

19願、定散二善がなぜ「欣慕浄土の善根」と呼ばれるかの理由については、少し説明する必要があります。

実は聖道門で勧められる諸善と、19願の善、定散二善とは、行は同じなのです。違うのは、さとりを得ようとして善をするか、浄土往生を願って善をするのかの違いです。

そのことを『教行信証』化土巻には

五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。これは親鸞会でも使う『浄土和讃』の

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

と同じ意味です。

聖道門で教え勧められている諸善万行はすべて、浄土往生のためとして回心回向したならば、往生浄土の善(=雑行)となる

ということです。
高森顕徹会長の適当創作教義しかしらない会員は、よく判らない話だと思いますので、具体的に言いますと、聖道門で読経という行があります。『般若心経』を読むことでさとりを得るための行としている宗派はいくつもあります。この『般若心経』を読む目的を、さとりを得るためではなく浄土往生としたら、それは「回心回向の善」「往生浄土の方便の善」「雑行」になるということです。

『般若心経』を読むことは聖道門でも浄土門の19願でも共通であっても、その心がさとりを得るためか浄土往生のためかの違いがあるということです。
高森会長が考えた詭弁

雑行を捨てよとは、その心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよであって、善をするなではない

が如何に頓珍漢なことか判られるでしょう。雑行の心がけは、浄土往生を目指してということですから、それを捨てたらさとりを得るためという聖道門の善になるのです。
念のため言っておきますと、さとりを得るためでも浄土往生のためでもない善は、倫理道徳の善です。親孝行を浄土往生のために励む人は、あっても極僅かでしょうが、浄土往生のためという心がけを捨てたら倫理道徳の善となるだけのことです。それゆえ倫理道徳の善は、浄土真宗でも大いに勧められますが、雑行は勧められません。当たり前のことです。

mixiでの法論で、この説明をしたら、またまた高森会長と親鸞会は絶句していました。70年間、高森会長は真宗学を何も学んでいないのです。大げさでも何でもなく、高森会長はこんな基本的なことさえ本当に知らないのです。

さて、ここまで理解できると「欣慕浄土」の意味がお判りになるかと思います。聖道門と19願は、行は同じなので、心がけを浄土往生のためと変えるだけで良い、つまり、聖道門の人が19願に入ることに大きな壁はないのです。

聖道門でさとりを得られないと断念した人は、今までやってきた行そのままで浄土往生を目指したなら浄土往生できると誓われた19願を信じやすいです。聖道門からいきなり念仏往生の願である18願に行くことは、今までの行をすべて捨てることになるので、そこには大きな壁がありますが、19願なら入りやすいのです。

ですから、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導くための願だと親鸞聖人が仰ったことは、極めて筋の通った理屈になるのです。

それに対して、19願は悪人が18願に入るために絶対に通らなければならないという理屈は、金集め人集め目的の高森会長とマインドコントロールされた脳の中でしか通用しないのです。

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三願転入」カテゴリの記事

コメント

19願についてのお詳しい記事ありがとうございます、勉強になります。

先日から実際にこの場にコメントさせて頂くことで少しずつ冷静な判断が出来るようになったと感じています。

私も皆さまほど長く親鸞会員でいるわけではないのですが、二千畳へ行って高森会長の話を聞いたり、往年の親鸞会講師から何度も話を聞いたりしていました。

そこで感じたのが最近の親鸞会の教義は浄土往生という言葉がないということです。

高森会長の説法も講師の方からの話も、「絶対の幸福になる」、「大悲の願船に乗る」、「一念を得る」、「信心決定して仏になることが定まる」…など、浄土に往生してそこで仏になることが出来る、とは言わなかったように思います。

私は浄土真宗の「浄土」とはまさしく「浄土へ往生するための教え」だから「浄土」真宗なのだと思っていますので、親鸞会の教義は浄土真宗ではないと考えています。

まただからといって死んだら阿弥陀仏に救われる、死んだら罪悪深重の身のまま仏になることが定まる、と明らかに死んだ後に仏になることを目指しているので聖道門とも違います。

となると浄土往生を目指さず、しかし阿弥陀仏のお力で死んだら即、仏になることを目的とし、そのために善行(主に高森会長への貢献)を重ねて、その成果として獲信という名のすべての道理がハッキリ、スッキリ分かる、まるでお釈迦様のさとりを得たような体験を目指すよくわからない教え…、ではないかと思うのです。

浄土往生を目指すという言葉がない以上、今回の記事で取り上げて頂いた「欣慕浄土の善根」など起こるはずもなく、どのようにしてもこの会に居ては救われないのではないのでしょうか?

また、たまにおられる自信満々に私は獲信したという熱心な会員は一体何を得たのでしょうか?
こんなちぐはぐなことをしていて得られる親鸞会の信心とは一体何なんでしょうか?私にはそんな不確かなものを信じて会の活動を続ける気にはなれませんでした…。

ほんとうは私が聞き逃しているだけで親鸞会員はみな浄土往生を目指しているのでしょうか?飛雲さんが知っておられる頃の親鸞会では浄土往生を目指して聴聞しておられたのでしょうか?

取り止めのない話になって申し訳ありません、もしなにかご指摘頂ければ幸いです。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月 9日 (金) 19時38分

浄土往生については、私が会員だった時も、それとなく出ていた程度でした。後生の一大事という必堕無間の解決の強調が全面に出ていました。無間地獄の回避しか会員の頭には残らないです。

ところが10年前に、私を含む退会者による親鸞会への教義批判が激しくなった時に、高森会長がアシスタントに、
「浄土真宗の目的は何か?」と尋ねてアシスタントに
「浄土往生です」と答えさせたことがあり、会員と退会者の間で話題になったほど、意外な話でした。

ただその後に、浄土往生についてはほとんど言わなくなり、ここ数年は、絶対の幸福の一辺倒です。
私が会員だった時より、現世利益の傾向が増しました。

必堕無間で恐怖を植え付ける方針を修正して、今は目先の人参を目指させる方針なのです。

なお、獲信したという会員とも法論したことがありますが、完全な地獄秘事でした。

投稿: 飛雲 | 2018年11月 9日 (金) 19時57分

お早い返信ありがとうございます。

やはり意図的に浄土往生の話は避けて現世利益の話に持って言っているのですね…。
今の時勢、社会的に上手くいかず救いを求めている人が多くそちらの方が都合が良いのでしょう。実際に私の知っている会員も問題が多い人ほどのめり込んでいるように思いますので。

獲信をしている会員との法論をし地獄秘事であったと見抜かれたお話大変興味深く、また自信になります。
親鸞会と離れられない大きな理由として仲良くしている先輩会員が高森会長のおかげで獲信出来た!ここの教えは間違いない!と熱く語られると感情が負けてしまうことがあります。親鸞会の教えで得た信である以上、異安心ではあると思うのですが、話していてウソを言ってるようには感じられず何からしら体験をしたのは間違いないようです。また親鸞会で長く勉強しているので親鸞会教義には精通していて生半可な知識では言いくるめられてしまうのが悔しいところです。飛雲さんのよう深い知識があれば…といつも思います。やはりあの人達の間違いをちゃんと指摘できるよう真面目にお聖教を読んで勉強していくしかなさそうですね…。飛雲さんのブログで勉強させて頂きます。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月 9日 (金) 20時28分

mixiでの法論の後にやはりmixi上で行われた自称獲信者との議論(法論にもならない体験談)は以下にあります。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-859d.html

他にも獲信者と議論しましたが、皆同じで、地獄に堕ちた体験を語ります。そこで何かを聞いたと。
これは他の宗教でもよくあるいわゆる神の啓示みたいなものです。
真実の信心は、そんな体験ではありません。
我々にハッキリ判るような体験なら、真実を知る智慧が少しはあると言えます。
そんな智慧がないから、凡夫なのです。

講師、あるいは”教学”に詳し会員との議論は、根拠を示すようにいうことと、国語の能力があれば誰でも勝てます。親鸞会が出してきた根拠の前後を読むと、簡単に理論がひっくり返せます。
ただし、詭弁は一流ですので、詭弁を暴く能力がないと、話は平行線のようになってしまいます。

以前にも紹介した

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
https://sinrankaix.exblog.jp/

これを相手に突き付けるのが最も効果的だと思います。
もし、相手の言っていることで言い返せないことがあったら、あるいは替わって欲しいということなら、いつでもコメントください。
私が裏で相手をしてもよいですし、「飛雲と法論せよ」と相手に言ってもらっても構いません。

親鸞会なら高森会長と講師部員が全員相手でも、私は法論を受けます。無知の集団相手で、手の内も判っていますので、法論は容易いです。
私が優秀なのではなく、親鸞会がへぼ過ぎるのです。

投稿: 飛雲 | 2018年11月 9日 (金) 20時48分

ありがとうございます!心強いコメント頼もしい限りです。

教えて頂いたサイト一通り内容を使って矛盾を指摘出来るようにしてから話し合いに臨みたいと思います。

ただ正直なところ、どれだけうまく話せても、、根拠云々の前にあの人達はほんとに高森会長の教え以外耳を貸さないからなぁ…、といった諦めもありますが…。

それでも私自身の迷いが断ち切れば意味のあることだと思うので頑張りたいと思います。

まだ疑問に思っていることや、引っかかっていることもありますので、ご無理のない範囲でコメントして頂けるとありがたいです。飛雲さんから指摘して頂けることほど目が醒めることもありませんので…。

私のような名も知らない一会員のためにいろいろと尽力して頂き本当に有難うございます。重ねてお礼申し上げます。高額なお布施を積んだり、講師になって従属しない限り直接話すことも出来ない高森会長より、本当に親身なって時間を割き仏のみ教えを直接伝えてくださる飛雲さんのことを私は信じたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

投稿: | 2018年11月 9日 (金) 21時34分

一つ事実誤認があります。
高森会長は講師になって従属したくらいで直接話すことはしません。講師部員の9割は、高森会長と直接話ができません。講師部講義などの多人数の中で質問したりすることはできても、一対一や少人数で高森会長と話すことのできる講師部員は、両手で数えられるほどです。

そのエピソードは一杯ありますが、理由は簡単で、
無二の善知識たるワシが、貴様ら程度と対等に話をするか!
という思いと、独裁者の末期に現れる猜疑心です。

講師部員にさえ、自分が話をして救われてもらいたいと思っていないのです。

そんな高森会長と比較されれば、まだ私の方がマシだと思っています。

何かあればいつでもコメントしてください。

投稿: 飛雲 | 2018年11月 9日 (金) 21時48分

連日のコメント失礼致します。

親鸞会のマインドコントロールの大きな一つに、親鸞会で活動していれば獲信と言われる素晴らしい体験が出来る、そしてそれをしなければ永劫に近い時間地獄に落ちるというものがあります。私にもその枷が強く残っているように感じます。

ただ私は親鸞会で話を聞いているうちにこのことに疑問を感じていました。ほんとうにそんな体験があるのか?、獲信とはそんな超常現象のようなことが起こるのか?と。

例えば親鸞会でもよく出てくる、親鸞聖人の御和讃に「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」というものがあります。
この御和讃と親鸞会のいう獲信との間に大きな矛盾があるように感じました。

私はこれをを「五濁悪世に生きる私たち人間が阿弥陀仏の本願を信じれば(獲信)、文字通り称えることも説くことも思うことすらも出来ない功徳が身にみちる」という意味に解釈しました。

もし親鸞会の言うように獲信して、往生一定で救われることがハッキリわかったり、千歳の暗室に一気に明かりが灯るのがわかったり、死んだあとに地獄に落ちる身だと自覚しし、その結果阿弥陀仏の救いに会えた経験をしたりするのは、人間である私達が知覚している以上、その功徳を称えたり人に言うことも出来ますし、思い出して心に描くことも出来るので「不可称不可説不可思議の功徳」にはならないように思うのです。

「不可称不可説不可思議の功徳」とはどのようにしても人間には感知することも理解することも心に思い描くことすら出来ない、どうやっても人間が知ることのできない功徳だが、それが身にみちているのは間違いないので、疑わず信じるのですよ。というのが親鸞聖人の本意で、獲信してもそんな超常現象のような体験は起こらないと思っているのですが、いかが思われますでしょうか…?

この枷をちゃんと外しておかないと、一旦会を辞めたとしても、ふとした時にまたマインドコントロールによって会に戻りかねないと感じています。よろしくお願い致します。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月10日 (土) 20時24分

>獲信してもそんな超常現象のような体験は起こらないと思っているのですが、いかが思われますでしょうか…?

全くその通りです。
ただこの当たり前のことが、親鸞会の会員には信じられないのですね。
高森会長が刷り込んだ体験談が退会後も抜けないのです。救われてハッキリ判らないなんてことが、あり得ないとしか思えないのです。
通りすがりの会員さんは、今の時点でここまで高森邪義に疑念があれば、邪義が抜けるのも早いでしょう。

投稿: 飛雲 | 2018年11月10日 (土) 20時55分

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森親鸞会では「信」と「さとり」を混同しているので支援です。

「因分可説/果分不可説」
https://goo.gl/xSJZbJ

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: 林遊@なんまんだぶです | 2018年11月10日 (土) 22時54分

こんばんわ、Abcです。

>親鸞聖人の御和讃に「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」というものがあります。

こちらは「五濁悪世であるわたしたちに対して憐れにおもわれた阿弥陀様の「助けるぞ!」の呼び声が届いた(聞信した)一念に、功徳は行者の身に満ちる」といわれている場所でございます。

この「功徳を満たす」のも「阿弥陀様のおはからい」であり「他力回向」でありますから、このことからも「(自然のうちに)功徳は行者の身にみたされる」と読み解き、「自然法爾」「他力回向の義」「南無阿弥陀仏のご法義」と観られることもできましょう。

>もし親鸞会の言うように獲信して、往生一定で救われることがハッキリわかったり、千歳の暗室に一気に明かりが灯るのがわかったり、死んだあとに地獄に落ちる身だと自覚し、その結果阿弥陀仏の救いに会えた経験をしたりするのは、人間である私達が知覚している以上、その功徳を称えたり人に言うことも出来ますし、思い出して心に描くことも出来るので「不可称不可説不可思議の功徳」にはならないように思うのです。(通りすがりの親鸞会員さん)

仰られるように、「○○のような体験をした」という体験談で収めることができたならば「不可称不可説不可思議の功徳」には私もならないと考えておりますし、以下の文証もございます。

『自然法爾の事』
 「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。」

※ここでの「自然のことはつねに沙汰すべき」と言うことは有り体に言ったならば、「体験談」の事を指しております。ですから「自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」は、「体験談として話すべきではない」と言われているのであります。

『笠間の念仏者の疑ひとはれたる事』
 「まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。」

※ここで親鸞自身が「義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。」と記されているように「義(もしくは「はからひ」)」というものも「体験談」の事を指しております。
 ですから「第十八の願」は別の名を「不回向の行願」ともいわれ、上記にございます源空聖人のお言葉を借りるならば、「義なきを義とす願」とも表すことができるかとおもいます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年11月11日 (日) 00時07分

林遊@なんまんだぶです様
Abc様

高森会長には、仏教の基礎も真宗の基礎もないですから、会員は尚更何も知りません。
無知の高森会長が、大沼師の誤解を招く味わいを真宗の真髄と信じた上で、私利私欲のためにそれも曲解したことで、無茶苦茶な教義が出来上がった次第です。
マインドコントロールがよく効いている会員には、何を言っても聞く耳を持たないかもしれませんが。

投稿: 飛雲 | 2018年11月11日 (日) 18時31分

皆さま、ありがとうございました。

飛雲さんのはっきりしたコメントで完全に目が醒めました。
やはり親鸞会の言うような体験ありきの獲信はなかったのですね、早くに気づけて本当に良かったです。
また林遊さん、Abcさんの補足、ご解説もありがとうございました。大変勉強になりました。特にAbcさんの私の疑問に沿ったご解説、それに関係する御文の紹介は親鸞会の間違いに気づく大きな手助けになってくれました、ありがとうございます。

今後は親鸞会の邪義を完全に抜くため、飛雲さんのブログ、提示して頂いたサイトを読みすすめていく所存です。皆さまご協力ありがとうございました、重ねてお礼申し上げます。

投稿: 通りすがりの親鸞会員 | 2018年11月11日 (日) 20時23分

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