親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達
昨日と本日は親鸞会の報恩講でした。昨日には里見浩太朗氏が会館に来て、自分の生い立ち話と歌を披露し、帰り際に社交辞令の言葉を残していきました。
具体的に、高森顕徹会長の話のここが良かったと言わず、また親鸞聖人の教えの素晴らしさが判ったとか、絶対の幸福になりたいとか言えないところが、高森会長の与太話を物語っています。
さて、親鸞会は里見浩太朗氏を広告に使っただけであるのは、言うまでもありません。これまでの”有名人とお友達になりたい”作戦と何ら変わりがありません。
もちろん親鸞聖人の教えを、命がけで伝えようなどという考えは、欠片もないです。
さて、今回は『歎異抄』第1条の
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
を使って話をしていました。
ここに信心と念仏とが表現されていますが、高森会長の説明は
「往生できると明らかになり」
「念仏称えようと思い立った」
「摂取不捨の幸福にして頂く」
の3つが同時に起こる
というものでした。
これを高森流の言葉で簡潔に言うと、
信心を獲て絶対の幸福になった後に念仏を称える
ということです。
要するに、信心と念仏は別で、信心とは悟りに近い何か特別なものを阿弥陀仏から頂く、としか理解できていないのです。
その証拠に、高森会長は本日、
かつての教科書には、念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると親鸞聖人は仰ったと書かれてあったが、それは間違いである
と言っていることです。
これまで幾度も述べてきましたが、親鸞聖人が仰る他力の信心とは、
念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心
ということです。その根拠で最も判りやすいのが、『末灯鈔』の
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
です。
『歎異抄』でいう「弥陀の誓願」とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」です。
念仏を称えると極楽浄土へ迎えてくださると誓われているので、高森会長が間違いだと言っていることが間違いなのです。
他力の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて」です。
前々回述べた法の深信で言うなら、
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して
念仏によって極楽浄土に生まれることができると信知したことを法の深信と親鸞聖人が仰っているのです。
つまり、高森会長が信じていること、信知していることは、親鸞聖人とは正反対です。
まとめると
親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
----------------------------------------------------------------------
高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い
なお、以上では納得できない思考停止の愚か者のために他の根拠を出すと、
『唯心鈔文意』に
ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり
とあり、また『尊号真像銘文』に
安養浄土の往生の正因は念仏を本とす
御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり
ともあります。これだけではなく、まだ同じような根拠はありますが、思考停止の頭では混乱するだけでしょうから、今回はこの程度にしておきます。
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コメント
報恩講はある意味大成功だったようだ。
中身はとにかく、芸能人を巻き込んで大衆芸能を利用しての、善男善女に喜びを与えた点で。既成宗教も大衆を呼び込む努力をすべきだ。
歎異抄第4章を理解するのに、
「今生にいかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心にて候べきと、云々。」
ここを解釈するのに
「---、されば弥陀の本願に救われ、念仏する身になることのみが、徹底した大慈悲心なのである、と聖人はおおせになりました。」(とどろき10月号)
こうなると、救われない前は念仏称えるのを控えざるを得なくなる。
法然上人の「一枚起請文」のさわやかさ、「三選の文」の明快さには劣るようにしか思えません。
もしかしたら貝原益軒の”寸止めの健康法か”とも勘繰りたくなります。
更に一点、
南無阿弥陀仏とは「弥陀の本願力」である、と教えられる。
こうなると、八岐大蛇に見えてくるのは私だけなのだろうか。
なんまんだぶ なんまんだぶ
投稿: 煩悩まみれ | 2018年10月18日 (木) 08時36分
>中身はとにかく、芸能人を巻き込んで大衆芸能を利用しての、善男善女に喜びを与えた点で。
あなたの理屈なら、創価学会も幸福の科学も、大成功ですね。
あと、『歎異抄』第4条の断章取義ですか。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
ここが抜けていますね。
聖道門では仏になるのにとてつもない時間がかかります。しかし阿弥陀仏の救いは念仏によって仏になるのに時間がかからないから、念仏して急いで仏になってから、仏の大慈悲心をもって、衆生を救うことができるという意味です。
要するに、あなたは私の書いたことに対しての直接の反論ができないから、断章取義で勝手な解釈をして、「これこそが親鸞聖人のみ心だ!」と喚いているかわいそうな人だという結論にしか達しません。
正面切って反論できないなら、負け惜しみですから、止めた方がよろしいかと思います。
投稿: 飛雲 | 2018年10月18日 (木) 08時49分
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。
現代語訳
慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。
一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。
ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。 このように聖人は仰せになりました。
「念仏して仏になる」これがポイントね。
投稿: 唯円 | 2018年10月18日 (木) 11時03分
「いちいち細かい事を」と思われるでしょうが、
>救われない前
とは一体…?
以前も別の方が指摘されていたのを目にした覚えがありますが、どうも現役会員の言葉遣いはよく分かりません…。
「救われる前」とか「救われていない時」なら分かりますが(とはいえ、かつての私も特に違和感を感じてはいなかったのですが…まさに自分で考えている『つもり』でした)。
投稿: あずきあらい | 2018年10月18日 (木) 23時28分
飛雲 様
いつも丁寧な解説有難うございました。
今回の報恩講は、過去最高の参詣者数となり、
二千畳は満堂、親鸞聖人のみ教えを聞き求める熱気で満ちておりました。
仏法の話に入る前に一つ申し上げたいことがあります。
★私について人格を否定するような罵詈雑言を浴びせる人が
★多くあります。
★このような、コメント、本文がはびこるブログにおいて、
★真摯な仏法者が運営していると思われますでしょうか。
★親鸞学徒の皆さん、難しい仏法の話が分かられなくとも
★まずこの言動において、このブログに関わる人達を
★信頼すべきかどうか、
★本当に
★親鸞聖人の御教え宣布に命をかけている人たちか、
★怨憎の念一つで動いている人か明らかでしょう。
さて、
>他の方も何度も言っていますが、「念仏の衆生は、臨終と同時に仏になる」は、
>七高僧方は仰っていないどころか、これと明らかに違うことを仰っているのです。
>具体的には「念仏の衆生は、臨終と同時に浄土に往き、浄土で菩薩として修業後仏になる」
>「念仏の衆生は、臨終と同時に仏になる」
>が二種深信か?親鸞会の理屈なら七高僧の信心と親鸞聖人の信心は同じか?
>と言っているのに、弥勒菩薩の話にしか考えられないのが、あなたのお粗末な知能です。
と仰言っていますが、弥勒菩薩の話に決着がついたので、
次に、往生即成仏についてです。
念仏の衆生は、臨終と同時に仏になるというのが
七高僧の仰言っていることと違うと飛雲様が言われていると理解しました。
ここで飛雲様の七高僧に対する無理解が露呈しております。
念仏の衆生は、臨終と同時に仏になるということは七高僧が仰言っていない
ことくらいは承知しております。
親鸞聖人のみが明らかにされたことだからです。
しかし、
>他の方も何度も言っていますが、「念仏の衆生は、臨終と同時に仏になる」は、
>七高僧方は仰っていないどころか、これと明らかに違うことを仰っているのです。
>具体的には「念仏の衆生は、臨終と同時に浄土に往き、浄土で菩薩として修業後仏になる」
と仰言りたいなら、
七高僧が、
報土往生した人について
★しばらく、時間をかけて修行して、
仏になると言われている御文を出さねばなりません。
経典には、往生後どれだけの時間を経て成仏するのかについては説かれておりません。
『観無量寿経』において九品にはそれぞれ往生した後の授記などが説かれ、
『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土仏摂受経』には、
「もしかの土に生ずれば、かくのごとき無量功徳衆の荘厳する
ところの諸もろの大士等と同じく集会を一にし、
かくのごとき無量の功徳衆の荘厳するところの清浄仏土の
大乗法楽を受用し、常に退転することなく、無量の行願、
念念に増進し、速やかに無上正等菩提を証するが故なり」
と説かれていますが、
さて
どこにしばらく時間をかけて成仏すると言われているのでしょうか。
経典の通りに話をされた七高僧が、「念仏の衆生は、臨終と同時に浄土に往き、浄土で菩薩として修業後仏になる」
と仰言っているのは、もちろんその通りです。
まさかこれが自分の力でする修行であるとなどは思っておられないと思います。
そういうものが修行というのなら、時間がかかるのも分かりますが、
もちろんそうではありません。
親鸞聖人は、「浄土で菩薩として修業」というのは一念で、
阿弥陀仏のお力によって、仏に生まれるのだと解釈されたのです。
七高僧が仰言っていることと何ら矛盾しません。
もし、この点において親鸞聖人と七高僧と仰言っていることが違うと強弁したいので
あれば、
●●●●●●●●●●●
報土往生した人について
★しばらく、時間をかけて
修行して、仏になる
●●●●●●●●●●●
という七高僧の御文を出して下さい。
ちなみに化土往生の人の御文を出しても無駄です。
報土往生した人についてです。
仰言っておられない
ことと
反している、違っている
こととは同じではありません。
七高僧が仰言っておられない仏意を親鸞聖人が鮮明にされたというだけです。
何も矛盾しません。
投稿: さとし | 2018年10月20日 (土) 23時50分
さとし様
長〜い間考えてきたコメントがこの程度ですか。
あれほど自信満々に出した二種深信は引っ込めたのですね。
この時点で終わりでしょう。
それと矛盾しないと考えているあなたの頭が問題です。
なお、根拠は過去に出してあります。
最後にあなたには課題を与えた筈です。
高森会長か渡部さんに意見を聞きなさいと言いましたが、しませんでしたね。
なぜか?
あなたは、親鸞会ではその程度の人物なのですよ。
いつまでもくだらないコメントに付き合わないと宣言した通りです。
これで終わりです。
私は有言実行ですので。
投稿: 飛雲 | 2018年10月21日 (日) 00時01分
サトシの頭の中は
「浄土に往生することに疑いない」(法の深信)
「臨終と同時に浄土に往き、浄土で菩薩として修業後仏になる」(七高僧)
「臨終と同時に仏になる」(親鸞聖人)
この3つは全く同じ意味だ!!!!!!!!!!
精神科医のカウンセリングを受けなさい。
そもそも頭の程度は
渡部>一般講師>幹部会員>>>>>>>>>>>>猿>>>>>犬>>>>>>>>>>>>蛆虫>>>>>>>サトシ
渡部さんが飛雲さんに完敗して逃亡し続けているのに、蛆虫以下のサトシが飛雲さんと対等に話ができるかよ。
2000畳はこんな奴等の集団かと思うとゾッとする。
投稿: タケシ | 2018年10月21日 (日) 05時14分
>念仏の衆生は、臨終と同時に仏になるということは七高僧が仰言っていない
>
>ことくらいは承知しております。
>
>親鸞聖人のみが明らかにされたことだからです。
ということは、知らされ方が違うってことだよ。
知らされ方が違う=信心とは関係ない
この単純明快な理屈が理解できないのがサトシ
渡部さんにも話しかけることができない底辺会員が飛雲さんに法論を挑むこと自体が、八万劫年早いっていうのよ。
まずはカウンセリングを受けてきましょう。
投稿: ソーナンス | 2018年10月21日 (日) 09時23分
懲りないというより、病気でしょう。
話がだんだん変わってきているし、飛雲さんや皆さんの言われていることも理解できないし、一般人がわからない世界に生きているので、統合失調症ですね。
明橋医師以外の精神科医にかかるべきです。
投稿: | 2018年10月21日 (日) 15時33分
>念仏の衆生は、臨終と同時に仏になるということは七高僧が仰言っていない
>
>ことくらいは承知しております。
>
>親鸞聖人のみが明らかにされたことだからです。
これは七高僧と親鸞聖人は仰っていることが違うというのが日本語の意味。
サトシ語では、七高僧と親鸞聖人は仰っていることは同じという意味。
基地外の寝言に付き合う必要はないわね。
投稿: ピカチュー | 2018年10月21日 (日) 20時00分
さとしさんのおかげで退会できたものですが、今回のコメントも支離滅裂で驚いています。さとしさんのような方がいたほうが退会者は増えると思うので、今後も頑張って下さい。
投稿: 元会員 | 2018年10月25日 (木) 13時37分
こんばんわ、Abcです。
少し気になりましたので記しておきます。
このコメントに関してツッコミがあったならば、ツッコんでいただいて構いません以下よりしるします。
>念仏の衆生は、臨終と同時に仏になるということは七高僧が仰言っていない
>ことくらいは承知しております。
>
>親鸞聖人のみが明らかにされたことだからです。
この「臨終と同時に仏になる」ということは「第十一の願に摂取される」と観てよろしいのでしょうか。もしその解釈が「是なり」とされるならば、
七高僧:今生にて第18の願にて摂取されての後、「臨終と同時に(第11の願の益により)仏になる」とされた。 :体失往生
親鸞聖人:今生にて第18願にて摂取されると同時に第11願もまた差し向けられる。 ただし、今生の間は「「正定聚に入る」と信知した」に留まり、今生にて仏と成るとはいわれていない。 :不体失往生
よって、私は「臨終と同時に仏になる」ということは、七高僧も親鸞聖人も示されて入るが、示され方が異なったために、「体失 不体失の争論(表記方法の揺らぎはお許しください)」があったのでは」と観ております。
Abc
投稿: Abc | 2018年10月27日 (土) 21時47分
Abc様
>この「臨終と同時に仏になる」ということは「第十一の願に摂取される」と観てよろしいのでしょうか。
親鸞聖人はそのように観られたでよいですが、七高僧は違います。
七高僧ではないですが、法然上人の教えを簡潔にまとめられた聖覚法印の『唯信鈔』が最も端的に表しています。
二つに浄土門といふは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。まことにたくみなりとす。ただし、この門にまた二つのすぢわかれたり。一つには諸行往生、二つには念仏往生なり。
信心決定→臨終→浄土往生→(正定聚)菩薩の行を具足→成仏
これがこれまでの観かたです。
親鸞聖人の場合は
信心決定(不体失往生)→正定聚→臨終(→浄土往生)→成仏
です。→は基本因果関係を表しているのであって、時間は同時のこともあります。
現生正定聚を仰ったのも親鸞聖人独自の観かたであり、現生正定聚であるがゆえに臨終に成仏するという理論になっているのです。
七高僧は、往生と正定聚を次生とされていますので、臨終と同時に成仏ということを仰っていないのです。
なお、四十八の願を見てみますと、
国中(浄土)の人天
国中(浄土)の声聞
国中(浄土)の菩薩
となっています。
また『大無量寿経』上巻には
阿難、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身、もろもろの妙音声、神通功徳を具足す。処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具は、なほ第六天の自然の物のごとし。もし食せんと欲ふときは、七宝の鉢器、自然に前にあり。金・銀・瑠璃・硨磲・碼碯・珊瑚・琥珀・明月真珠、かくのごときの諸鉢、意に随ひて至る。百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ色を見、香を聞ぐに、意に食をなすと以へり。自然に飽足して身心柔軟なり。味着するところなし。事已れば化して去り、時至ればまた現ず。
かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹の道に次し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天人の名あり。 顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず、人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。
とあり、やはり「そのもろもろの声聞・菩薩・天・人」です。
阿弥陀仏の四十八の願をそのまま読めば、往生即成仏にはならないので、七高僧はそのまま読まれたのに対して親鸞聖人の理論は独自だと言うことです。
投稿: 飛雲 | 2018年10月27日 (土) 22時12分
飛雲さん
短い間にご返信くださりありがとうございます。
簡単にではありますが、それに対するご返信をさせていただきます。
>
七高僧(これまでの観かた)
信心決定→臨終→浄土往生→(正定聚)菩薩の行を具足→成仏
親鸞聖人の場合
信心決定(不体失往生)→正定聚→臨終(→浄土往生)→成仏
左様でありましたか。そのようなことから前コメントにも「菩薩の行を具足」と言われておいでなのですね。
>現生正定聚を仰ったのも親鸞聖人独自の観かたであり、現生正定聚であるがゆえに臨終に成仏するという理論になっているのです。
「現生正定聚」は仰られるように親鸞聖人が言われ始めたことであり、理論であります。
>(それに対して)七高僧は、往生と正定聚を次生とされていますので、臨終と同時に成仏ということを仰っていないのです。
先ほどの矢印を用いたご解説内では「→浄土往生→(正定聚)菩薩の行を具足」の箇所でしょうか、上述された解説内でも「菩薩の行を具足」となり「往生と正定聚を次生とされています」となるのでしょう。
ご指摘 及びご解説ありがとうございます。
Abc
投稿: Abc | 2018年10月27日 (土) 23時37分