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2018年10月28日 (日)

曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

本日の高森顕徹会長の話は、いつものように念仏否定の教えでした。

親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ

今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた

と宣っていました。報恩講の時と何ら変わり映えのしない妄想を垂れ流しています。

結論は、

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
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高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なのです。
その根拠はたくさんあり、いくつか紹介もしてきましたが、高森会長お得意の『歎異抄』で信心の内容を言うなら、

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずる

であり、「念仏よりほかに往生のみち」はないと信じた心です。

三願転入だの19願だのと煩いのに、念仏を排斥する高森会長は、聖道門よりも酷いです。

念仏称えて極楽浄土に往く、が浄土門の基本ですので、それを否定したら日蓮系と同じです。

信心を獲ていない人に対しての念仏の扱いについて、獲信者の体験談を親鸞聖人、蓮如上人のお言葉で紹介されているので、それを示しておきます。
それは曇鸞大師の体験です。蓮如上人の『正信偈大意』が最も詳しいです。

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

菩提流支が信前の曇鸞大師に対して何を勧められているでしょう。

これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

言い換えると

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる

と菩提流支が信前の曇鸞大師に勧められて、「曇鸞これをうけとりて、一向に浄土に帰したまひけり」で、曇鸞大師は信心を獲られたということです。

まとめ。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる、と教えられて信心を獲る

では、思考力のある方に質問です。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができるが間違い、と教えられて信心が獲られますか?

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コメント

飛雲様

いつも拝見しております。


>往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

>ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずる

>であり、「念仏よりほかに往生のみち」はないと信じた心です。

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと」思うのは、
弥陀の本願が「念仏を称える者を救う」というお約束である、という事を
聞いているからであって、某会が教えているような、得体のしれない「信心」を頂いたら、自動的に念仏が沸き出て来るようになるという事ではないとの認識で良いでしょうか?

某会でも、念仏は「他力でないといけない」としきりに言っているので、表面上は他力の念仏を勧められているように思い込んでいますが、実際には信心と切り離れた念仏になってしまっているということですね。


会員と話しても「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと」思った時の、その念仏は他力?自力?としきりに気にしていますが、念仏自体におはたらきについて全く頭にないですね。南無阿弥陀仏のいわれを聞いていないから仕方ないですが。


投稿: ナナシ | 2018年10月30日 (火) 12時54分

ナナシ様

>「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと」思うのは、
>弥陀の本願が「念仏を称える者を救う」というお約束である、という事を
>聞いているからであって、某会が教えているような、得体のしれない「信心」を頂いたら、自動的に念仏が沸き出て来るようになるという事では
>ないとの認識で良いでしょうか?

それで良いです。
判り易くいうと、「念仏を称える者を救う」という本願を疑っている状態の念仏から、「念仏を称える者を救う」という本願に疑いがない念仏になるということです。

「往生をばとぐるなりと信じて」いないで念仏を称えないのが親鸞会の信心、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申」しているのが他力の信心です。
念仏は信心のオマケとしか思っていないのが親鸞会の会員です。

投稿: 飛雲 | 2018年10月30日 (火) 13時25分

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