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2018年10月 2日 (火)

真実の二種深信と正反対の高森妄想二種深信との違い

日本語さえまともに理解できない人が、二種深信など到底理解できないでしょうが、高森顕徹会長の嘘の二種深信を信じている哀れな会員のために、二種深信について、できるだけ判り易く説明します。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』の信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。
その無知な高森会長の言うことを妄信して、二種深信について知った気になっている会員は、哀れ哀れというほかありません。

二種深信の内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と深信、信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と深信、信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と深信、信知する

これが真実の信心です。

法の深信についてもう少し説明すると、『末灯鈔』で親鸞聖人はこのようにも仰っています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

何を深信し信知するのかについて明確に仰っています。

さだめて往生を得」とは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことだけだとハッキリしたことです。浄土往生がハッキリ認識できたのではなく、浄土往生への道を信知、深信するのです。

日本語の不自由な人のために再度、

浄土往生への道は念仏だけだと信知、深信したことを法の深信というのです。

念仏称えて助かるというのは間違いだ

と言っている高森会長と愉快な仲間達は法の深信とは正反対の信心です。

なお、言うのもあほらしいことですが、法の深信は「往生できる」であって「成仏できる」ではないです。難しい事でも何でもない、小学生でも判る簡単な話ですが、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

これが法の深信だと未だに言い続けている考えられないほど相当におかしい人がいて、その人は今後日本で生きていけるのか心配になります。

二種深信の中に「成仏」という意味の言葉は全くないのです。「成仏」とはないが含まれている、とかいう妄想癖があるなら、このブログではなく、その専門の病院でカウンセリングを受けてください。

まあ、これだけ説明しても、理解できないと思います。かわいそうで哀れみの気持ちはありますが、私は精神科医でもカウンセラーでも家庭教師でもないので、いつまでも相手にするつもりはありません。二種深信についてまだ妄想を続けるなら親鸞聖人とは無関係ですから終わりです。先に宣言しておきます。

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二種深信」カテゴリの記事

コメント

会長もさとしさんも、統合失調症なのかも知れない

投稿: | 2018年10月 2日 (火) 20時07分

さとしさんには、一般人には見えないものが見えるんだね。
かわいそうに

投稿: ソーナンス | 2018年10月 3日 (水) 09時14分

サトシも意地張ってないでさ、素直に飛雲さんの言われていることに耳を傾けようよ。
悪の組織親鸞会に騙されていることは、お聖教を読んだら一目同然でしょうが。
お聖教を読む能力がないって?
それは自分の不勉強を呪いなさい。

PS
二種深信は、不思議な信心じゃないよ、念仏一つで浄土往生できると深く信じたことと親鸞聖人が仰っている通りでしょうが。悪の親玉の高森から離れる絶好のチャンスだよ。

投稿: ロケット団 | 2018年10月 3日 (水) 15時29分

さとしさんは完全におちょくられているじゃない。
まあ、あんなコメントを自信満々にしているってことは、頭が逝っちゃっているから仕方ないけどさ。
親鸞会内でも友達はいないだろうね。

投稿: | 2018年10月 3日 (水) 21時53分

日本語能力のある人から親鸞会を辞めていき、能力の無い人、洗脳されて日本語忘れちゃった人、権力にしがみつきたいW部氏みたいな人しか残らないんですかね。

投稿: | 2018年10月 4日 (木) 01時01分

文法的には明らかにおかしい解釈の仕方がたくさんあった。それを深い御心と思考停止しないと到底納得できなかった。
さとしさんは、そのレベルにも達していない。思考全開であれなんだろう。

投稿: | 2018年10月 4日 (木) 09時14分

会長に学が無いのに、学のある優秀な学生らが会長の珍釈に疑問を抱きながらもそう思い込まされたんだな。その珍釈を真っ当な解釈と信じ込んで、真っ当な頭のいい人に真っ当な解釈が間違いだと喚き散らすのは、見ていて実に痛い。

さとしなる人物はもともと知能が足りないから会長の珍釈を文法的にも正当な解釈と最初から受け取ったのだろう。
こんな低次元の人物は論外として、学のあった人には学を取り戻してもらいたい。

投稿: | 2018年10月 4日 (木) 12時43分

こんばんわ、Abcです。

>善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と深信、信知する (飛雲さん)

左様であります。ここでは「前半(機の深信)」と「後半(法の深信)」について説明します。お時間がございましたら、ご一読ください。

善では出離できない(機の深信)
我々が行う善は全て「自力諸善」となります。「自力」でありますから「どれくらいの善(可称の善 可計の善)」というのもいわれます。(反対に阿弥陀様のおちからにて差し向けられた善は「不可称の善」、「不可計の善」ともいわれます。また「無量寿(量りなきいのち)」というのも阿弥陀様のおちからです。我々はこの「時間に限りを持たないおちから」によって名号をいまなお聞かせていただけるのであります。これを梵語では「ナマス・アミダーユス・ブッダ」といい音写にてしるしますと「帰命無量寿如来」(『正信偈』 L.1)となります。

>念仏によってのみ出離し往生できる、と深信、信知する(法の深信)
親鸞は、『正信偈』にて、「専らに阿弥陀仏に帰命せよ」と何ヶ所もいわれていますし、『浄土和讃』においては、「畢竟依に帰命せよ」「みなひと婆伽婆に帰命せよ」ともいわれています。もちろんこの光明を使用した「帰命畢竟依如来」、「帰命婆伽婆如来」と称えるのも「念仏」であります。


>法の深信は「往生できる」であって「成仏できる」ではないです。

 これについては、もしかしたら私の側はその「間違った教え」を行っていたかもしれません。申し訳ございません。
その根拠といたしまして、

「念仏成仏これ真宗  万行諸善これ仮門 
  権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ」

というものがあり、これを以って「成仏」だ、うんぬんと発言したことがありますからもし間違いでありましたら飛雲さんはじめ、諸同行のご指南よろしくおねがいいたします。

 更にいますと「念仏成仏これ真宗」であるから、「念仏称えて助かるというのは間違いだ」と言うことは間違いである、ともいいました。その辺りを含めまして、アドバイスをいただけたらと思っております。

帰命尽十方無碍光如来 --十方(普く)をてらし尽くす碍り無きおはたらき(光明)に帰命たてまつらん--
 帰命とは発願回向なり、無碍光如来(阿弥陀仏)とは、自然といふは、はじめてはからはざるこころなり。
 故(かるがゆへ)に、この義「義なきを以って義とす」「不回向の行」「念仏は行者のために非行・非善なり」とも言(のたま)へり、しるべし。

Abc

投稿: Abc | 2018年10月 4日 (木) 23時57分

Abc様

「念仏成仏これ真宗  万行諸善これ仮門 
  権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ」

成仏まで誓われているのが阿弥陀仏ですから、何も問題ではありません。
今問題にしているのは法の深信についてで、二種深信とうるさい割に何も知らない会長と会員に向けて説明しただけです。
法の深信は、往生までのことしか言及されていない、つまりは18願について深く信じることを指していることになります。次の成仏は11願、更には還相回向は22願と続いて行くのですが、そこまでのことは法の深信に言及がないということです。

結局言いたかったことは、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と法の深信とは違うということです。

投稿: 飛雲 | 2018年10月 5日 (金) 06時50分

飛雲さん

おはようございます。Abcです。

>今問題にしているのは法の深信についてで、二種深信とうるさい割に何も知らない会長と会員に向けて説明しただけです。
>法の深信は、往生までのことしか言及されていない、つまりは18願について深く信じることを指していることになります。次の成仏は11願、更には還相回向は22願と続いて行くのですが、そこまでのことは法の深信に言及がないということです。

重ね重ねのご解説、ありがとうございます。

「法の深信」として「阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と深信、信知すること。」と「念仏にて」と言われているのに、
「念仏称えて助かるというのは間違いだ」と未だにいいつづけている会長には、そろそろ「浄土真宗」というのをはずしていただきたいです。

ご返信、ありがとうございました。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年10月 5日 (金) 08時40分

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