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2018年10月26日 (金)

19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長

思考停止と国語力の劣った高森顕徹会長と愉快な仲間達のために、今回は簡単な話をします。

18願で救われるために、必ず19願を通らなければならないとするならば、歴代の獲信者は、19願を通ったと告白するか、19願を通りましょうと勧める言葉のどちらかがあってしかるべきです。

まず韋提希に関しては、親鸞会では定善をしようとしたというお伽噺を信じているので、19願を通ったというかもしれませんが、韋提希は定善をしようともしていませんし、散善を説かれる前に獲信していますので、韋提希も19願を通っていません。
しかし、ここは少し説明が必要なので、とりあえずこの程度に留めておきます。

この後は単純です。

阿闍世 釈尊に善を勧められてさえいない。
龍樹菩薩 19願の言及なし。
天親菩薩 19願の言及なし。
曇鸞大師 19願の言及なし。
道綽禅師 19願の言及なし。
善導大師 19願は往生を誓われた願の1つとして紹介されたのみで、それ以上の説明なし。
源信僧都 19願は臨終来迎を誓われた願として紹介されたのみで、それ以上の説明なし。
法然上人 『選択本願念仏集』に19願の言及なし。(故に、「19願を無視するとは何事か」と聖道門から激しい非難攻撃をされる)
覚如上人 19願は臨終来迎と諸行往生を誓われた願と仰ったのみで、それ以上の説明なし。
蓮如上人 19願の言及なし。
庄松 19願の言及なし。
おかる 19願の言及なし。

如何でしょうか。この状況で18願で救われるためには必ず19願を通らなければならないという理屈は成り立たないのです。

例外として親鸞聖人だけが、19願の説明を詳しくされたのですが、それも『教行信証』化土巻と『三経往生文類』の二か所だけです。『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には19願の言及はありませんし、『正信偈』にも19願はありません。また『三経往生文類』は、19願では化土往生しかできないという説明であり、18願や20願との関連はないです。
法然上人の項目でも述べましたが、聖道門から「19願を無視している」と非難攻撃され、その上弾圧までされた親鸞聖人は、聖道門への反論として、19願の説明をせざるを得なかったという経緯があるのです。

簡単にまとめると

19願が必要だ、と言っていたのは聖道門であり、19願は不要と教えられたのが獲信者だということです。

それでは納得しない聖道門のために、親鸞聖人が説明されたのが、

19願は18願へ導くための方便の願だ

ということです。

当時の仏教界の情勢と歴代の獲信者の告白・教えを見たら、実に単純な話なのです。
三願転入という言葉自体、後世の学者が名付けただけで、蓮如上人までそんな言葉は存在しなかったのです。

高森会長も、今回のエントリーの内容については理解しているのですが、そんなことはお構いなしで三願転入を会員に押し付けないといけない事情があるのです。

金集め人集めに窮しているのです。

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コメント

こんにちは、Abcです。
先コメントではご指導ありがとうございます。今から書くことにもツッコミがはいるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。

>『正信偈』にも19願はありません。
そもそも『正信偈』というのは「法蔵菩薩が世自在王のもとにて十八願(十七願)を建立されたこと」、「弥陀の本願海を説かれるために釈迦如来が世に出られたこと」、「印度、中夏、日域 の三朝の菩薩(善知識)」についてですので「親鸞はこれら善知識が指南されたことはこのように承っている」という文章にほかなりません。

ここからツッコミが入るかもしれませんが「19願は18願と比べるために『正信偈』に記されている」とわたしは観ております。

龍樹菩薩 難行道(19願)は、陸路を歩むが如く、易行道(18願)は、水道を船に乗りて進むが如し。(故に易行道を信知せよ)
天親菩薩 「帰命無碍光如来」と一心に帰命したてまつれ。(と18願を勧められた)
曇鸞大師 「天仙の書物を焼きて、楽邦に帰す」:(天仙の書物は「外道の法であり19願ではないが、「諸善」とみなした場合、「19願に相当する」とみなすことが出来る」ので今このように記しました)
道綽禅師 「道綽は聖道(19願)の難しきこと(難証)を決し、唯浄土(18願)を通入すべき(可通入)ことを明かさん」とされた。
善導大師 「本願の大智海に開入したならば、行者正しく金剛心を受け(云々)」と18願についてご説明されている。
源信僧都 「偏に安養に帰せよ」と一切に勧め、専心(専修 18願)・雑心(雑修 19・20願)の2つにて、報土と化土があることを弁立せられた。
法然上人 「次に往生浄土門とは、これにつきて二あり。一には正しく往生浄土を明かす教、二には傍らに往生浄土を明かす教なり。
初めに正しく往生浄土を明かす教といふは、いはく三経一論これなり。「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。「一論」とは、天親の『往生論』(浄土論)これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。(乃至)おほよそこの『集』(安楽集)のなかに聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり。これにつきて二の由あり。 一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。」『選択本願念仏集』とある。
「聖道を捨てて浄土門に入らしめんがため」と「聖道を捨てよ」といわれたことに対して、叡山僧をはじめとする、僧に糾弾された。

と私は『正信偈』より承っております。また、
「万善自力貶勤修(諸善である19願を貶し) 円満徳号勧専称(徳号を専ら称えよという18願を勧められた)」とあり、このことからも「19願は貶されている」と観ることが出来ます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年10月28日 (日) 13時09分

『正信偈』の上記の箇所は、七高僧方が、御著書に残されていることを元に顕わされたものです。七高僧方は、19願について直接仰っておらず、聖道門との比較で仰っていますので、諸善などは、聖道門のことになります。もちろん、味わいとして19願を含めてもよいですが、あくまで拡大解釈と考えるのが宜しいかと思います。

>「聖道を捨てよ」といわれたことに対して、叡山僧をはじめとする、僧に糾弾された。

ここは「19願を含めた諸善を捨てよ」に対してです。
『興福寺奏状』や『摧邪輪』で19願に言及がない法然上人を激しく非難していることからも判ります。

投稿: 飛雲 | 2018年10月28日 (日) 13時37分

化身土巻の要門釈に引文されている釈文は、『定善義』と『述文賛』と『往生要集』だけで、しかも化土に関するところです。
七高僧方が要門十九願を出されていないから、親鸞聖人も引文のしようがなかった訳ですよね。
難行道や聖道を十九願に当て嵌めるのも無理があります。

投稿: | 2018年10月29日 (月) 18時13分

こんばんわ、Abcです。

飛雲さん
ご指摘ありがとうございます。
>七高僧方は、19願について直接仰っておらず、聖道門との比較で仰っていますので、諸善などは、聖道門のことになります。もちろん、味わいとして19願を含めてもよいですが、あくまで拡大解釈と考えるのが宜しいかと思います。

確かに「拡大解釈」であり「味わい」であるところは私自身も認めるところではあります。その「味わい」をもって「親鸞聖人は善をすすめられてはいない」といいたいだけですので少しばかり無理があるかとは思いますがどうかご了承ください。

名無しさん
ご指摘ありがとうございます。
>難行道や聖道を十九願に当て嵌めるのも無理があります。

わたしは、「難行道や聖道門」を「自力の行い(諸善万行 諸行往生)」とみておりますので、(拡大解釈の場合、)弥陀の方便願である「19・20願」とみております。
 対して、「易行道や浄土門」は「他力回向の義(唯有浄土 念仏往生)」とみておりますので、(拡大解釈の場合、)弥陀の真実願である「17・18願」とみております。

「聖道→浄土」もしくは「浄土(横出)→浄土(横超)」どちらの場合であっても、「自力を主とする → 他力を主とする」の「捨自帰他」と記しているつもりではあります。

Abc

投稿: Abc | 2018年10月30日 (火) 22時35分

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