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2018年10月31日 (水)

三願転入の教えを再開した理由が、思考停止の会員でも判る状況になりました

親鸞会で会費の値上げが発表されました。これが何を意味するかは、思考力が少しでもあれば判ると思います。今回は何とか財施の発表とは深刻度が違うということです。

これまで、高森顕徹会長は、全国の会館建設で実際に掛かった金額以上のお金を集めるという錬金術に浮かれてきていました。親鸞会の歴史上で、最も効率の良い集金システムであったと思われます。一地域での集金システムというところが、そのポイントで、会員同士の見栄などの名誉欲を上手く使うことで、想定以上のお金が集まって喜んでいたものの、いつまでも会館を造り続けるには限界があり、次の映画での集金システムに移行しても効果は知れていまして、最後に残された会費の値上げで現在の危機を乗り切ろうとの思惑でしょう。

会費の値上げは、会員の反発を招きますので、できれば避けたいところでしたが、止むを得ない状況に陥っているのです。

今年に入って広告費を大量に投入し、高森会長のビデオ公開まで解禁しての、なり振り構わない人集めである程度の人数を揃えることはできました。しかし、喉から手が出るほど欲しいお金が思うように入ってこないのです。

ここまで説明すればお判りでしょう、三願転入の教えを再開した理由が。

ところで70年間の高森会長の布教で、高森会長自身が三願転入したと告白したことがあったでしょうか。このように善に励んで19願を通ってきたと高森会長が話をしたことがあるということを、古い会員からも講師部員からも聞いたことがありません。

理由は簡単です。高森会長自身が、19願を通ってきたとは思っていないからです。

歴代の善知識方がまともに言及されされていない19願ですが、実は法然上人は僅かに仰ったことがあります。親鸞聖人が法然上人の法話の内容を記された『西方指南抄』に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

とあります。
諸行之人」とは、「無行之人」ではありません。もともと諸行をしている人のことですから、当然、聖道門の人を指していることになります。19願は、聖道門の人を引き入れて念仏の願である18願に帰せしめるのがその目的である、と法然上人が仰り、親鸞聖人が記されたのです。

つまりは、聖道門での修行をしようとも思っていない一般の人とは関係のない願だというのが、法然上人、親鸞聖人の認識であったということです。

親鸞聖人の直接のお言葉でいうなら、『教行信証』化土巻・要文釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

です。外道から「半満・権実の法門」と呼ばれる聖道門に入ったものの、修行を全うすることができない「」「」なるものが甚だ多いので、「ここをもって」釈尊は『観無量寿経』定善散善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだ、ということです。
本来浄土門を信じようとしない聖道門の人達も浄土門に引き入れようという御慈悲を仰ったのです。
あまねく諸有海」とあるから、全人類無関係なものはない、と思考停止の会員はワンパターンで言ってきますが、聖道門の人も漏れないようにするから「あまねく」なのです。前半で聖道門の人の話をしているのに、聖道門と関係ない人も19願の対象にするから「あまねく」だというのは、国語の試験では完全な零点です。部分点ももらえません。

法然上人・親鸞聖人は思い付きで、このようなことを仰ったのではありません。経典にもその根拠がありますし、善導大師の解釈からもそのような結論に達したのです。

このことが、mixiでの三願転入の法論の概要です。ここで法論は終わっていたのですが、誤魔化しのために、話を逸らし続けてきただけのことで、実質、以上の内容で法論は決着しています。

せっかくですから経典と善導大師の解釈は次回紹介します。

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コメント

高森会長個人の財布と会の財布は当然別でしょうし、会長個人はすでに使いきれないほどのお金を手にしていると思います。
従って会の方はいつ潰れても会長が困ることはないと思われますが、何故に必死で会にお金を集めようとするのでしょうか。
贅沢に慣れてしまって集金マシーンなしでは個人としても続かないのでしょうか。
不思議です。

投稿: | 2018年11月 1日 (木) 00時09分

こんばんわ、Abcです。
>親鸞聖人が法然上人の法話の内容を記された『西方指南抄』に「第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也」とあります。

記述ありがとうございます。

かなりざっくりとした「弥陀の願」のうちの

17願 諸仏称名願 :真宗における「大行」すなわち「第四の称名」「正定業」といわれるものである (他力を主とした場合は17(18)願、自力を主とした場合は20願(後述)となる)

18願 自然法爾願(念仏成仏願) :真宗における「大信」すなわち「仏の方より往生は治定せしめ給う」という「他力回向の義」である。それゆえに「行者のためには非行・非善なり」といわれる。

19願 万行諸善願(諸善往生願) :真宗における「仮門(要門)」すなわち
「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものは甚だもつて難く、実なるものは甚だ以つて希なり。 偽なるものは甚だ以つて多く、虚なるものは甚だ以つて滋し。
ここを以つて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」(『教行信証』化土巻・要文釈より)
 エントリー内でいわれているとおりであります。ですから私が「『諸善』を聖道ではなく「善」として言い換えた事柄」は、この19願(自力諸善)よりも20願(自力称名)の方に近かったかも知れません。だた会長自身は、「念仏で往生するといっているが、あれは間違い」と念仏を排斥されておりますので、結果として「報土往生はもちろん出来ず、化土往生も(如実な菩薩道ではないため19願にかなわず、先述したように念仏を排斥されているので20願にかなわない)むずかしい」となります。
 ましてや、「阿弥陀様のお誓い」をはねつけるばかりか「あれは間違っている」とされていますから、三悪道となるかどうかもあやしいです。

※三悪道に関しましては第1願と第2願があります。
 1願 たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

 2願 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。

20願 自力称名願(果遂願):真宗における「真門」すなわち
「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」(『教行信証』化土巻・真文釈より)といわれております。

です。七祖のうち、親鸞聖人が引用もされている、源空聖人『選択集』三選文には、以下のようにございます。
「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」(源空聖人『選択集』三選の文 より)

ここに「正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」と記されているように「念仏成仏これ真宗」であります。
みなみな阿弥陀様にお任せして、お念仏を申して安養浄土に生まれさせていただきたいものです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年11月 1日 (木) 00時40分

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