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2018年10月

2018年10月21日 (日)

再開した三願転入の妄想話

本日の高森顕徹会長の話は、三願転入でした。長らく表沙汰にしてこなかった三願転入を会員に向けて話をしたということは、それだけ善の勧めを言わないといけない状況になっているということです。

三願転入についての法論はすでに完全に決着しています。
2010年3月にmixi上で始まった法論ですが、すぐに決着しました。

詳細は

「親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より」

をご覧ください。

全部説明すると長くなりますので、結論だけ簡潔に述べますと、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない

ということを高森会長が認めざるを得なかったということです。
どういうことかと言えば、

三願転入が全人類必然の道であるならば、親鸞聖人はその最初の19願を信じて実践することを勧められている筈です。当たり前の話です。

高森会長が親鸞聖人のお言葉を出せなかったという証拠は『なぜ生きる2』6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

如何でしょうか。この詭弁を詭弁と見抜くかどうかが、会員と退会者との差になるのかもしれません。

ここは、親鸞聖人が20願を勧められたお言葉についてです。それは高森会長も認めるところですが、肝心要の19願を勧められたお言葉がないのです。親鸞聖人は「濁世の道俗」に20願を勧められているから、三願転入はすべての人の道程だ、という理屈です。

20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っています。

『浄土和讃』には、

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とあるのも同様です。

しかし、19願を必ず通るかどうかについては、ここでは関係のない話です。

20願への入り方でいえば、

1.外道・無宗教から20願に入る
2.聖道門から20願へ入る
3.19願から20願へ入る

という3通りがあります。
この中で1と2はなく、なぜ3だけが必須の道程になるのか、根拠がないのです。

親鸞聖人も七高僧も覚如上人も蓮如上人も19願を勧められたお言葉がないのですから、当然、19願から始めなければならないという理屈は消滅します。

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある

この事実が、三願転入は、すべての人の道程とならないことを証明する最大の根拠になります。

親鸞会の誇る高学歴集団を駆使しても、この程度の詭弁が限界なのです。

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2018年10月14日 (日)

親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達

昨日と本日は親鸞会の報恩講でした。昨日には里見浩太朗氏が会館に来て、自分の生い立ち話と歌を披露し、帰り際に社交辞令の言葉を残していきました。

具体的に、高森顕徹会長の話のここが良かったと言わず、また親鸞聖人の教えの素晴らしさが判ったとか、絶対の幸福になりたいとか言えないところが、高森会長の与太話を物語っています。
さて、親鸞会は里見浩太朗氏を広告に使っただけであるのは、言うまでもありません。これまでの”有名人とお友達になりたい”作戦と何ら変わりがありません。
もちろん親鸞聖人の教えを、命がけで伝えようなどという考えは、欠片もないです。

さて、今回は『歎異抄』第1条の

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

を使って話をしていました。

ここに信心と念仏とが表現されていますが、高森会長の説明は

「往生できると明らかになり」
「念仏称えようと思い立った」
「摂取不捨の幸福にして頂く」
の3つが同時に起こる

というものでした。
これを高森流の言葉で簡潔に言うと、

信心を獲て絶対の幸福になった後に念仏を称える

ということです。
要するに、信心と念仏は別で、信心とは悟りに近い何か特別なものを阿弥陀仏から頂く、としか理解できていないのです。

その証拠に、高森会長は本日、

かつての教科書には、念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると親鸞聖人は仰ったと書かれてあったが、それは間違いである

と言っていることです。

これまで幾度も述べてきましたが、親鸞聖人が仰る他力の信心とは、

念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心

ということです。その根拠で最も判りやすいのが、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。
『歎異抄』でいう「弥陀の誓願」とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」です。
念仏を称えると極楽浄土へ迎えてくださると誓われているので、高森会長が間違いだと言っていることが間違いなのです。
他力の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて」です。
前々回述べた法の深信で言うなら、

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して

念仏によって極楽浄土に生まれることができると信知したことを法の深信と親鸞聖人が仰っているのです。

つまり、高森会長が信じていること、信知していることは、親鸞聖人とは正反対です。

まとめると

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
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高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なお、以上では納得できない思考停止の愚か者のために他の根拠を出すと、
『唯心鈔文意』に

ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり

とあり、また『尊号真像銘文』に

安養浄土の往生の正因は念仏を本とす

御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり

ともあります。これだけではなく、まだ同じような根拠はありますが、思考停止の頭では混乱するだけでしょうから、今回はこの程度にしておきます。

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2018年10月 5日 (金)

なんちゃって二種深信を妄信する高森顕徹会長と愉快な仲間達

親鸞会が法論で劣勢になると起死回生で伝家の宝刀と思って出してくるのが、二種深信です。二種深信を体得して正しく説明できるのは、高森顕徹会長だけだ、という大いなる錯覚が原因でしょう。

高森会長は、二種深信を体得もしていないし、聖教を読む能力もない、単なるなんちゃって善知識です。

これまでの法論では、親鸞会の伝家の宝刀を木っ端微塵に破壊してきました。
今回はその一端を示しておきます。

高森会長最大の駄作である『なぜ生きる2』に二種深信の説明があります。

地獄より行き場のない身だと疑い晴れ、いつ死んでも浄土往生間違いなし、と疑い晴れているからだ。大悲の願船に乗ずると、何人も、この二つのことに疑い晴れる。
これを「二種深信」という。

大沼法竜師の二種深信の説明を劣化コピーしたものです。
高森会長は、二種深信の基礎を知らないのです。

二種深信を最初に取り上げられたのは存覚上人です。存覚上人は、蓮如上人が釈迦の化身・勢至菩薩の化身とまで絶賛され、存覚上人の解釈をそのまま受け入れよとまで蓮如上人は仰っています。
その存覚上人が『教行信証』を解説された『六要鈔』に、二種深信についてこのようにあります。

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

機の深信については、「正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず」「聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて」とあります。地獄とかそんな内容のことは一切ありません。
善ができてもできなくても関係なく、自分の行いによる功徳では、出離できないことを知ることです。
「善をしなくても助かる」という退会者に対しての反論として高森会長が指導したのが、

「では悪をすれば助かるのですか」と言えばよい

でした。善をしないなら悪をする、という発想が機の深信に無知な証拠です。善をすることも、悪をすることも共に、「自力の功」です。この一点だけでも、高森会長が機の深信を体得していないと言えます。
存覚上人の解説をもう少し詳しく見ると、「聖道の諸教」と比較されています。

つまり、機の深信とは元々、聖道門では出離できないという内容なのです。それは善導大師の告白を読むとよく判ります。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

聖道門では出離できないのではなく、身命を惜しまずに修行した多くの法友が出離していった中で、自分は落ちこぼれの凡夫だから出離することができないのだ、との告白です。

地獄より行き場のない身」だなんていう低レベルの話かどうかは、聖教をちょっとでも読んだら判る話です。

法の深信についての存覚上人の解説は簡潔で、「出離は偏に他力に在ることを明かす」「偏に仏力に帰す」です。聖道門に代表される「自力の功」では出離できないが、阿弥陀仏の18願によって出離することができる、と深く信じたことを法の深信というのです。
いつ死んでも浄土往生間違いなし」ではなく、浄土往生の道は「他力」「仏力」だと深く信じたことです。

地獄が判るわけでもなく、浄土が判るのでもないです。あくまで出離の手段、浄土往生の手段が自力ではなく他力と判ったことを二種深信というのです。

今回の内容は、日本語の能力が一般人並みであっても、真宗の教えの基本がないと難しいかもしれません。

創作妄想勘違いのなんちゃって二種深信を妄信している高森会長と愉快な仲間達には、チンプンカンプンでしょうね。

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2018年10月 2日 (火)

真実の二種深信と正反対の高森妄想二種深信との違い

日本語さえまともに理解できない人が、二種深信など到底理解できないでしょうが、高森顕徹会長の嘘の二種深信を信じている哀れな会員のために、二種深信について、できるだけ判り易く説明します。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』の信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。
その無知な高森会長の言うことを妄信して、二種深信について知った気になっている会員は、哀れ哀れというほかありません。

二種深信の内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と深信、信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と深信、信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と深信、信知する

これが真実の信心です。

法の深信についてもう少し説明すると、『末灯鈔』で親鸞聖人はこのようにも仰っています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

何を深信し信知するのかについて明確に仰っています。

さだめて往生を得」とは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことだけだとハッキリしたことです。浄土往生がハッキリ認識できたのではなく、浄土往生への道を信知、深信するのです。

日本語の不自由な人のために再度、

浄土往生への道は念仏だけだと信知、深信したことを法の深信というのです。

念仏称えて助かるというのは間違いだ

と言っている高森会長と愉快な仲間達は法の深信とは正反対の信心です。

なお、言うのもあほらしいことですが、法の深信は「往生できる」であって「成仏できる」ではないです。難しい事でも何でもない、小学生でも判る簡単な話ですが、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

これが法の深信だと未だに言い続けている考えられないほど相当におかしい人がいて、その人は今後日本で生きていけるのか心配になります。

二種深信の中に「成仏」という意味の言葉は全くないのです。「成仏」とはないが含まれている、とかいう妄想癖があるなら、このブログではなく、その専門の病院でカウンセリングを受けてください。

まあ、これだけ説明しても、理解できないと思います。かわいそうで哀れみの気持ちはありますが、私は精神科医でもカウンセラーでも家庭教師でもないので、いつまでも相手にするつもりはありません。二種深信についてまだ妄想を続けるなら親鸞聖人とは無関係ですから終わりです。先に宣言しておきます。

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