四種深信を主張し七高僧を異安心呼ばわりする高森顕徹会長と思考停止の会員たち
前々回と前回とで
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
の「まことに知んぬ」と言われても、これは体験上の知らされたではなく、理屈の上での知らされたことだと説明しました。まさかこれで理解できない人はいないだろうと思っていたら、いたのです。親鸞会会員を甘く見ていました。思考停止は私の認識を超えていたのです。
コメント欄で具体的に説明もしましたが、思考停止では理解できないでしょうから、今回は違う観点から説明します。
高森顕徹会長は、真実の信心を判定するのは、二種深信が立っているかどうかだ、と言い続けてきました。二種深信とは、
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
です。
機の深信は簡潔に言うと、我らは罪悪生死の凡夫で出離することができないと深く信じることです。
法の深信を簡潔に言うと、阿弥陀仏の本願によってのみ出離して浄土に往生できると深く信じることです。
いうまでもなく、深く信じるとは他力の信心を顕わしています。
この2つがあるかないかで他力の信心かどうかを判定するのだと高森会長が断言し、会員もそう言っているはずです。
ここで最初の「まことに知んぬ」に戻りますと、これと二種深信との関係は何、という話です。
他力の信心を獲たら「まことに知んぬ」以下のことも必ず知らされるとも言っていますが、
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」
の二つは二種深信の内容と同じか違うかと言えば、明らかに違います。
先の文は、弥勒菩薩の成仏の時期について、
後の文は、獲信した人は臨終に往生すると同時に成仏するということ。
共に二種深信とは違う内容です。後の方は法の深信と関連はしていますが、浄土往生と往生即成仏とは違う話です。
二種深信を仰った善導大師をはじめ、七高僧方は、浄土に往生した後に菩薩の行をして成仏するという解釈です。往生と同時に成仏するとは七高僧のどなたも仰っていません。
ということは、高森会長と思考停止の会員の主張は、二種深信とは別に二つのことも深信する、つまり四種深信だということになり二種深信で判定するというのは嘘だということです。更には、七高僧方は四種深信が立っていないので、七高僧方は異安心だと言っているわけです。
実に判りやすい矛盾を何も考えずに平気で言えるのが、思考停止の為せる業なのでしょう。
ここのように国語の能力も、論理的思考も、もちろん学術的素養の欠片もない低脳集団にまで落ちぶれた親鸞会に、明るい未来があるわけもなく、必死の広告投入で形式上の体裁を整えているに過ぎません。
今回は、聖教の文を最低限にして、微かな思考でもあるなら理解できる内容にしました。
思考力が無い会員には、これでも理解できないのでしょう。
哀れ哀れ。
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コメント
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■飛雲における珍解釈1
「真に知んぬ」
については
「疑いが残っているのか残っていないのか聞かれたら
どちらも今までの主張が瓦解することになるので
どちらとも答えられません」
よって
「真に知んぬ」
は
「ハッキリしてないんだけど、理屈の上での知らされたこと」
という何ともスッキリしない解釈です。
ご縁の浅い人にも、変な解釈だと分かって頂けると思います。
「真に知んぬ」は「疑いなくハッキリと知らされた」ですよ。
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やたら、私が言ってもいない弥勒菩薩の成仏と結びつけて、
上記の珍解釈を押し通そうとしています。
これも時間があれば説明しようと思いますが、あまり話題を広げると分かりにくくなりますので、
「真に知んぬ」一つに絞って、真実開顕していきたいと思います。
一言だけ申しますと、
何がハッキリと知らされるのか、何がハッキリと知らされないのかが分かっていないから、
弥勒菩薩の成仏と結びつけて鬼の首を取ったように騒いでいるのです。
投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時46分
さとしさんへ
こんばんわ、Abcです。
>「真に知んぬ」一つに絞って、真実開顕していきたいと思います。
一言だけ申しますと、何がハッキリと知らされるのか、
何がハッキリと知らされないのかが分かっていないから、弥勒菩薩の成仏と結びつけて鬼の首を取ったように騒いでいるのです。
(改行箇所が変更されていることについては、ご了承ください。)
ですか・・・飛雲さんのいわれるように「経(浄土三部経)論(七高僧の著書)上での解釈」であります。
まず、「まことに知んぬ」という単語の翻訳には、「まこと+に+しん(しり)+ぬ」ということから「このことから本当に知ることができた」となり、さとしさんは「このこと=体験にてしらされた」と申したいのでしょうが、実際は「このこと=経論からの理屈」なのです。
余談にはなりますが、「文類(もんるい)」とは「書物をとる契機となる書物(書物の「おしながき」のようなもの)」であります。もちろんこの『教行証』は、明恵高弁の出された書物に対する書物でありますから、「そのような側面」も兼ね備えております。
話を戻しましょう。さとしさんは「ハッキリ知らされるか、否か」という問いですが、答えは「ハッキリしらされない」です。
なぜならば、「真宗」というその大綱が「本願力回向(他力回向、願作回向、由他力(『正信偈』より))」であるからです。(これは『愚禿抄』横超 に記されております)
そのことから、上述のことを「不回向の行」「義なきをもつて義とす」ともいわれます。
さとしさんは、自らを「御聖教をあまり披いていない」と申しおられておりますのに、
何を以ってのゆえ、「飛雲における珍解釈」と申されておいででしょうか。
「A:どの書物で」「B:どのように述べられているから」「C:私(さとしさん)はこのように考えている」を「3つ並べた状態」で記していただけないでしょうか。(現状「C」だけですので「A」と「B」をお願いいたします)
どうか、さとしさんが「本願力回向」におまかせする日を願って
なもあみだ なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年9月14日 (金) 00時16分
さとしって、本当の馬鹿だねー
高森センセーに尋ねてみな、二種深信以外に知らされることは?ってね
まああれだ、会話が通じないから会長にも相手にされないだろうけどね
投稿: | 2018年9月14日 (金) 01時21分
さとしさんが述べているのは「高森先生のみ教え」で、飛雲さんが書かれているのは「親鸞聖人の御教え」ですから噛み合わないのは当然です。
高森教を基準とすれば、親鸞聖人も七高僧も間違い者ですから。
カルトに嵌って思考力が壊れると、自分が幸福なのか不幸なのかも分からなくなるのですね。とても怖いです。
投稿: | 2018年9月14日 (金) 01時31分
若輩者ですが、親鸞会で後生が疑いなくハッキリ知らされた人がいないのに、後生が疑いなくハッキリ知らされると言ってる人がいることに疑問を感じます。
投稿: 丸山紗希 | 2018年9月14日 (金) 01時47分
残念でしたね、さとしさん。貴方が言っていようがいまいが、「真に知んぬ」は
②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
だけではなく
①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
にもかかっているわけですよ。これが判らないなら国語の勉強を小学生からやり直した方がいいです。
飛雲さんが仰っているように、②に関してさえ七高僧と親鸞聖人で違っています。これは信心とは無関係な解釈上の問題です。それを無理やり関係づけて喜んでいるようですが、②が「疑いなくハッキリと知らされた」ことをもって真実信心とするなら、往生と同時に成仏すると疑いなくハッキリと知らされていない七高僧は異安心となります。
また、貴方の釈だと①は弥勒菩薩が竜華三会の暁に成仏することを「疑いなくハッキリと知らされた」ことになります。弥勒の成仏の時期は仏陀の智慧によって判ることですから、さとしさんは信心獲得した一念に仏のさとりを開くと言っているようなものです。貴方が必死に否定しても、「真に知んぬ」=「疑いなくハッキリと知らされた」という意味ならそうなるんですよ。これは勿論
『歎異抄』第十五条 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。
にあるように「もつてのほかのことに候ふ」です。
答えようのない質問をして喜んでいるようで、何とも幼稚です。七高僧とも親鸞聖人とも違う異安心の親玉を無二の善知識と仰ぎ、思考力を奪われて、組織拡大を「真実開顕」という名目でやっているさとしさんは哀れ哀れです。
投稿: 淳心房 | 2018年9月14日 (金) 05時21分
さとし様
あなたは
>これからも日本語を学んでいきたいと思いますので、ご容赦下さい。
と言われている通り、日本語の能力が極めて劣っています。
まずは、日本の義務教育レベルの日本語能力を身に着けてきてからおいでください。
正直呆れ果てています。
私はこれまで何百回と法論をしてきましたが、あなたのような日本語の著しく劣った人はいませんでした。少し前に火星人と名乗った人の方がまだ日本語が理解できていました。
法論を放棄とか、そんなレベルの話ではないのです。
何百回でも言っておきますが、聖教に基づいた法論は大歓迎で、いつでも行います。
高森会長とでも講師部員全員とでも私が一人で相手をしますが、前提は「日本語の能力が一般の日本人並み以上」です。
あなたは明らかに前提から外れていますし、聖教に基づいてもいません。
ちなみに一つ教えておきますが、この内容の法論は4年前にすでに決着したのです。
親鸞会の相手はW部広宣局長です。W部さんは、内容を十分に理解して敗走しました。
以下がその記録です。
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/07/29/162012
あなたの能力ではとても読みこなせないでしょうから、講師部員か学歴のあるそれなりの会員に読んでもらってください。
今回の法論というより国語の授業レベルの対話も、他の人に読んでもらって、感想を聞かせてください。
なお、先日も示した
https://sinrankaix.exblog.jp/21146082/
をここに「まことに知んぬ」について書いてありますので、読んでみて、というより、誰かに読んでもらってください。
一応抜粋しておきます。
あなたでは読めないでしょうから、誰かに読んでもらってください。
参考までに、『教行信証』で「まことに知んぬ」と断言された箇所は、ほとんどが聖教の解釈上での話で、理解できたの意味です。もちろん獲信したことで難しい聖教が理解できるようになることはありません。
例
「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)
投稿: 飛雲 | 2018年9月14日 (金) 06時07分
さとしさんは、名探偵コナンや推理小説、実際の事件犯罪でもいいですが、真相究明するときに、
証言や物証を集めて、
「これでハッキリした」
と言いますよね。
体験で知らされたのではなく、理屈で分かったことです。
さとしさんには、高度すぎる話かもしれませんが、名探偵コナンの映画でも見て、「まことに知んぬ」の日本語としての使い方を学んではいかがでしょうか。
投稿: 名探偵コナン | 2018年9月14日 (金) 06時29分
さとしさんには笑わせてもらいました。
真に知んぬ
これが体験上はっきり知らされたことという固定観念から全く離れられない、実に幼稚な思考です。
飛雲さんの言われることを理解しようという気もないし、理解できる知能も持っていない。
渡部さんには容易に理解できたのに、渡部さんとは知能が雲泥の差だったということですよ。
さとしさんは、自信があるのだから、このブログを会員に広めて“破邪”したことを自慢してよ。
さとしさんの勇気ある行動によって、真実開顕ができるから、切にお願いします。
親鸞会崩壊の手助けをしたら最高の善ですよ(笑)
投稿: 笑笑 | 2018年9月14日 (金) 07時56分
さとし様
純粋な国語の問題としてまず考えます。Abc様が書かれたことの補足です。
「真に知んぬ」
の「知んぬ」は「知りぬ」の音便形です。「知りぬ」の分解すると「知り+ぬ」となります。
「知り」は「知る」の連用形です。連用形とは下記のように助詞が活用する中の一つです。
語幹 未然、連用、終止、連体、仮定、命令
知 ら り る る れ れ
「知りぬ」の「ぬ」は完了の助動詞です。
「知り+ぬ」は、連用形+完了の助動詞
ということで現代語にすれば「知った」または「分かった」という意味です。
これは「能動態」の言葉ですから「私は知った」「私は分かった」ということになります。
親鸞会のホームページをみると
………………………………………………………………………………………………………
「真に知んぬ」とは、他の宗教のように、疑いの心を抑えて信じ込もうとする
信心とは、全く異なる。
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」驚嘆の叫びであり、…
………………………………………………………………………………………………………
とあります。
「真に」=「露チリの疑いもなく明らかに」
「知んぬ」=「知らされた」
と対応できます。「真に」の言葉に別の言葉が勝手に付け加えられています。
また、能動態である「知んぬ」がいつの間にか「知らされた」と受動態となっています。
これが正しい文と言えますか?
親鸞聖人のみ教えを正しく伝えるのであれば、まずは親鸞聖人の書かれた聖教を「加減なく」
「改変なく」読み、伝えるべきではないですか?
上の解釈では特に「知んぬ」を「知らされた」という能動態から受動態へ改変していることは
「信心決定の『体験』から知らされた」
という体験主義の親鸞会の教えがすり込まれていることが見え隠れします。
教行証文類には「知んぬ」の言葉が多く出ています。一度、全てに目を通して自分の頭で
意味を考えてみて下さい。その前に古文の文法がわからないのであれば高校の参考書
でも買ってきて復習してからですが。
投稿: 園児 | 2018年9月14日 (金) 08時35分
信じがたいですね。
さとしさんは、そんな知能で世の中で生きていけるのですか?
単純労働でしか雇ってもらえないでしょう。
他人を非難するなら、他人の言うことを理解してからにしましょうや。
さとしさんには、他人の言うことを理解する能力がないので、非難することで恥をかくだけでおわるのですね。
すでに大恥をかいていますがそのことにさえ気がついていないのでしょうから、どうしようもないです。
投稿: 同行 | 2018年9月14日 (金) 12時40分