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2018年9月14日 (金)

思考停止の会員のために国語の授業をします

思考停止の会員には、まず国語の授業が必要ですので、中学校程度の授業をします。

まことに知んぬ」を現代語訳すると、

まことに知ることができた

です。ここで躓くようなら、小学校に戻ってください。

ここをクリアした会員には、次のステップです。
知ることができたその手段としては2通り考えられます。

1.体験を通して実感として知ることができた
2.書物や実験などを通して理屈として知ることができた

そんなのおかしい、「まことに知んぬ」は1の意味しかない!

と言うなら、その理由は何でしょうか?
世の中のことで「まことに知んぬ」ということは山ほどあります。事件や事故の原因がスッキリ判ったことも「まことに知んぬ」と古文では表現されます。
仏教においても、教えを聞いて、
今までの理解は間違っていた、「まことに知んぬ」
と納得することもよくあります。

そんなこと関係ない、体験に限った話だ!

というのなら、その理由を示しましょう。

示せないが1に決まっている!!!

という粋がるだけの会員は落第ですから、教室から出ていきましょう。

では、しっかり見極めたいという気持ちのある人には更に次のステップです。
1か2のどちらであるのか検証しましょう。
検証する方法は、前後の文脈から判断するしかありません。

前の部分は少し長いですが、

王日休がいはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}

『大経』にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

またのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種ゑて、不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出}

律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}

です。
古文で難しいでしょうから現代語訳を載せます。

王日休が『龍舒浄土文』にいっている。
「『無量寿経』をうかがうと、<すべての人々は、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、浄土に生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである>と説かれている。不退転の位とは、インドの言葉では阿惟越致という。『法華経』には、<弥勒菩薩が長い間行を修めて得られた位である>と説かれている。信じ喜ぶまさにそのとき往生する身に定まれば、すなわち弥勒菩薩と同じくらいになる。仏のお言葉にいつわりはない。この『無量寿経』はまことに往生の近道であり、迷いを離れることができる不可思議な方法である。みなこの経を信じるべきである。

『無量寿経』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に、<この世界からは、不退転の位にある六十七億の菩薩が阿弥陀仏の浄土に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである>と仰せになる」

また『如来会』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に、<この娑婆世界に七十二億の菩薩がいるが、その菩薩たちは数限りない仏がたのもとで多くの功徳を積んで不退転の位を得ており、みな阿弥陀仏の浄土に生れるであろう>と仰せになる」

律宗の用欽師がいっている。
「教えの深いことは、『華厳経』の説く至極の法、『法華経』の説く至妙の法に及ぶものはない。しかしながら、すべての衆生が将来さとりを得ることを約束されているのではない。すべての衆生がこの世の命を終えて後に、みなこの上ないさとりを得ることを約束されるのは、まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益である。

弥勒菩薩と念仏の衆生との関係について、経典と親鸞聖人が尊敬されている中国の高僧の文が示されています。

以上を請けて、

まことに知んぬ

です。

はい、もう判りましたよね、2ですね。

えっ、まだ判らない?

じゃあ、後の文を見ましょう。

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。

前の文を考察した結果として、弥勒菩薩と念仏の衆生の関係を親鸞聖人の見解として述べられています。
やっぱり、2ですよね。とどめが「ゆゑに便同といふなり」とあって、前の文にある「便ち弥勒に同じ」の意味を親鸞聖人が述べられているのは、小学生でもわかるでしょ。

前後の文に、親鸞聖人の体験らしきことはどこにもないので、1はあり得ないですよね。

参考までに親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っている他の箇所を見てみましょう。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

ちょっと難しいですが、これらみんな、難しい教義の内容をスッキリ理解できたということですよね。体験で難しい教えが知らされたのではなく、他の聖教からこのような結論に達した、ということです。

あれれ、まさかこれらみんな体験で知らされたことだとか言わないですよね。体験によって特殊な智慧が獲られるとでも思っていないですよね。

なお、余談ですが、親鸞聖人が初めて出された見解というのがいくつもあって、それまでの七高僧とは違う見解のところもあります。ここからも、同一体験(同一信心)で知らされることではないと中学生程度の頭なら判りますよね。

今日の授業はここまでとします。

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コメント

飛雲さんは、

さとしさんを、さとされたわけですね。

あの低レベルでは、飛雲さんも苦労されますよね。

投稿: 諭す | 2018年9月14日 (金) 20時21分

さとし様

会にいると、今まで頑張って求めてきたので辞められなくなります。
阿弥陀様の救いは、今、ここでの救いです。
今まで頑張ってきた自分(自力)を取るのか、
阿弥陀様の今の救い(浄土真宗)を取るかは、面々の御はからいです。
本当に救われたいのかどうかを自分に問いかけて下さい。
あなたの救われたい気持ちが本物なのかどうか、です。

聖人が教えられた横超とは、(自分の)過去に囚われることなく
今救われるのが浄土真宗の教えなのだと、私は頂いています。
それでも会に残るのなら、是非とも会長から
今、ここで救われる横超の教えを聞いて下さい。
横超とは、会の教え、あなたの常識、理解を超えた、今、ここでの無条件の救いです。

投稿: 愚愚流 | 2018年9月14日 (金) 20時22分

どもです。

要するに、高森顕徹氏の提唱するハッキリ・スッキリという「一念覚知」の異安心から出てくる妄想が末端の会員を暴走させているのでしょう。
もっとも本願寺派では「三業惑乱」によって意業を運んでの信心というものを否定した副作用から「仏願の生起本末」を聞くという聞信をも見失ってしまったということもあるのですが、浄土真宗の信とは、御開山が「浄信」といわれたようにプラサーダであって、高森顕徹氏のいうバクティ(絶対的帰依感情)ではないのでした。浄土真宗の信とは感情ではないのです。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%86

ともあれ園児さんが、『教行証文類』には「知んぬ」の言葉が多く出ています。一度、全てに目を通して」云々とされていたので、暇なのチェックしてみました(笑
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%BF%A1%E7%9F%A5

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: 林遊@なんまんだぶ | 2018年9月14日 (金) 21時48分

こんばんわ、Abcです。

>親鸞聖人が初めて出された見解というのがいくつもあって、それまでの七高僧とは違う見解のところもあります。

左様であります。だから証空上人と親鸞は諍論を行ったといわれます。
(証空上人が提唱されている「体失往生」は、「元来の七高僧の教え」つまり「往生するのは死後である」というものであります。
 対して、親鸞が提唱されている「不体失往生(平生業成)」は「七高僧の教えを読み替えた教え」つまり、「往生するのは死後だが、「(念仏の益にて)往生を定めていただけるのは今である」というものであります。)

ただ、さとしさんが命題とされている「まことにしんぬ」に関しましては、源空聖人もつかわれている「まことに知りぬ」と意味合いは変わりませんから、「まことにしんぬ(まことに知りぬ)」に関しましては「同じ」です。

なもあみだ なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年9月14日 (金) 23時12分

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