浄土を願う心もなく、念仏誹謗宗の信心を目指す高森顕徹会長と愉快な仲間達
高森顕徹会長の前回の話で出てきた『教行信証』信巻の
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
ですが、この後には
ゆゑに便同といふなり。
と続きます。
つまり、「便同弥勒」についての親鸞聖人の解釈が上記のお言葉だということです。
くどいようですが、親鸞聖人は体験で知らされたのではなく、経釈を通りて理屈として知らされたという話です。
その証拠にこのお言葉の直前は
王日休がいはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。
『大経』にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。
とありまして、経釈にある「便ち弥勒に同じ」「次いで弥勒のごとし」とはどういうことかについて親鸞聖人の見解を述べられたところになるからです。
一連の流れを見たらこれが親鸞聖人の体験で知らされたことなどとは言えないことです。
今更言うまでもないことですが、要するに、高森会長は『教行信証』を全く読んでいないのです。
ついでですから、信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かるのかどうか、親鸞聖人のお言葉で見てみます。
『高僧和讃』曇鸞讃に
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさだめたり
とあります。
現代語訳は
東魏の孝静帝は、 曇鸞大師のもとを訪れ、 浄土への往生を願う理由について、 「あらゆる仏がたの国々はみな清らかである。 なぜ西方にある阿弥陀仏の浄土に限るのか」 と問うた。
曇鸞大師は、 「私は智慧が浅い凡夫であり、 いまだ不退転の位に至っていないので、 あらゆる浄土を等しく念じるには力がとうてい及ばない」 と答えられた。
出家のものも在家のものも、 みな帰依するところをもたずに迷っている中で、 曇鸞大師はただ一人、 阿弥陀仏に帰依し、 その浄土への往生を願うよう勧められた。
です。曇鸞大師のお言葉として「わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と紹介されています。ここで言う「地位」とは初地以上のさとりのことですから、41段以上には至っていないので智慧が浅いのだ、と曇鸞大師が仰ったと親鸞聖人が紹介されています。51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員には、驚きのお言葉かもしれませんが、これが現実です。
なお、この和讃の基は『安楽集』の
曇鸞法師のごときは、康存の日つねに浄土を修す。
またつねに世俗の君子ありて、来りて法師を呵していはく、「十方仏国みな浄土たり、法師なんぞすなはち独り意を西に注むる。 あに偏見の生にあらずや」と。
法師対へていはく、「われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。 いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。 草を置きて牛を引くに、つねにすべからく心を槽櫪に繋ぐべきがごとし。 あにほしいままにして、まつたく帰するところなきことを得んや」と。
また難者紛紜たりといへども、法師独り決せり。 ここをもつて一切道俗を問ふことなく、ただ法師と一面あひ遇ふものは、もしいまだ正信を生ぜざるには、勧めて信を生ぜしめ、もしすでに正信を生ぜるものには、みな勧めて浄国に帰せしむ。
です。
以上から
1.信心を獲ても弥勒菩薩と同じさとりになるのでも、特別な智慧を獲るのでもない。
2.曇鸞大師は初地にも至っていないと仰っているので、信心を獲ても51段高跳びしたという実感が獲られることもない。
3.曇鸞大師は阿弥陀仏の浄土を念じられていて、人にも浄土を念じて帰すように勧められているので、衆生には浄土を願う心はない、というのは間違いである。
が、「まことに知んぬ」です。
聖教を読んでいない上に、絶対の幸福という念仏誹謗宗の信心を目指している高森会長と愉快な仲間達は、浄土を願うこともなく、浄土真宗ではなく浄土非宗になっていることを「まことに知んぬ」です。
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コメント
こんばんわ、Abcです。
高森さんには困ったものですね。「念仏を謗っている」のに「われこそは末法五濁の時代にて、正しく教えを説いている」というのですから、会員は会長の詭弁こそ「まことに知りぬ」です。
さて、親鸞は、このような高森さんのことを、『正像末和讃』にて
(14)
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす
頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし
と言われています。「専修念仏にあだをなす」です。会員がいくら庇護の詭弁を行ったところで「念仏ないから」という会長先生のお言葉を否定しない限りは、「専修念仏にあだをなす」なのです。
同じ「専修」を使った『和讃』(『高僧和讃』)には、
(65)
釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ
(92)
専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり
雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ
とも言われています。「万不一生」の「万」は「万行諸善」のことでありますから、
次の『和讃』(『高僧和讃』)、
(55)
本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて
唯有浄土一門を 通入すべきみちととく
とございます。善導禅師がいわれている
「自信教人信」のこころにて「唯有浄土一門を 通入すべきみちととく」のでございます。
なもあみだ なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年9月10日 (月) 23時56分
>親鸞聖人は体験で知らされたのではなく、経釈を通りて理屈として知らされた
とありますが、疑いなくハッキリ知らされたことではないということでしょうか。
「真に知んぬ」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか。
>51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員
とありますが、高森先生がどこにそのように言われているのか示してもらえませんでしょうか。
9/2の御説法を聴聞して、上記のように理解している人があれば、聞き誤りです。
聞き誤りを前提に非難しても、ただの詭弁に過ぎません。
親鸞学徒の皆さん、この様な妄言に惑わされないようにしましょう。
投稿: さとし | 2018年9月12日 (水) 20時35分
さとし様
会員は国語の能力が著しく劣っているのですが、あなたもその一人ですね。
>「真に知んぬ」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか。
疑いとかいうレベルの話でないことは今回のエントリーを読まれたら、普通は判るでしょうに。
私はこう書いています。
「くどいようですが、親鸞聖人は体験で知らされたのではなく、経釈を通りて理屈として知らされたという話です。」
この意味が判らないのなら、判る世間一般の人に尋ねてみてください。
なお、「まことに知んぬ」については下記を読んでみてください。
https://sinrankaix.exblog.jp/21146082/
これが理解できないなら、理解できる世間一般の尋ねてみましょう。
>とありますが、高森先生がどこにそのように言われているのか示してもらえませんでしょうか。
後生がはっきりとわかると高森会長は言っていませんか?
会員の非難はワンパターンです。
「高森先生はそんなことを仰っていない!」
そんなところでしか反論できないことを恥ずかしいと思わないのですか?
ここまで罵られて悔しいでしょう、だったら、法論しましょう。
聖教に基づいて、高森会長の言っていることが正しいかどうか、明確にしますので、高森会長でも講師部員でもプライドだけ高い高学歴の幹部会員でも連れてきてください。
私が一人で相手をしますから。
投稿: 飛雲 | 2018年9月12日 (水) 20時49分
すぐにご回答頂き、有難うございます。
国語力がないのは、その通りで、私もまだまだ勉強中であります。
そこで、「真に知んぬ」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか
と聞きましたので、残っているか残っていないかで答えは終わります。
どちらでしょうか。
リンク先を全部拝読しましたが、よく分かりませんでした。
2つめについて後生がハッキリすると言われているのを指して、
何かしらの智恵を頂くと言われているのなら、それはそれで納得しました。
投稿: さとし | 2018年9月12日 (水) 21時22分
さとし様
これでも理解できないようですので、親切に教えてあげます。
親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っていることは、理屈の上のことです。つまり、信心とは関係ない話ですから、信心の上での疑いの話とは関係ないです。理屈での疑いという話なら、七高僧方と親鸞聖人とは解釈つまり理屈が異なっていることがありますので、そういう意味での疑いというより理屈の違いを感じることはあります。
まとめると、
「まことに知んぬ」は
信心における疑いとは関係ない、解釈上の他の方との違いについては感じる
これで判りますかね。
要するにあなたの質問は、的外れということです。
投稿: 飛雲 | 2018年9月12日 (水) 21時32分
「真に知んぬ」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか
と聞きましたので、残っているか残っていないかで答えは終わります。
どちらでしょうか。
とお聞きしただけなのに、残っているとも残っていないともスッキリ答えられないのは、
それだけお苦しい立場なのだと拝察致します。
疑いが残っているのか、残っていないのかどちらかしかありません。
どちらでもないということはありえません。
しかし、どちらとも答えられないのでしょう。
残っている
でも
残っていない
でも
今までの飛雲における貴殿の主張が瓦解するからです。
「あなたの質問は、的外れ」などと言われずに、
「真に知んぬ」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか。
高森先生は、疑いなくハッキリするのだと教えて下さいます。
このページを見て、信仰に動乱をきたす親鸞学徒のためにも真実開顕に邁進したいと思います。
申し訳ありませんが、私にはあまり時間がありませんので、私の回答は2,3日遅れることもあります。
逃げた訳ではありませんが、予めご了承下さい。
投稿: さとし | 2018年9月12日 (水) 21時53分
さとし様
これでも理解できないとは、さすがに思考停止の会員ですね。
これも会員のワンパターンで、答えようのない質問に答えないと、それは退会者が困る苦しめる質問なんだとなぜか喜ぶのです。
全くの勘違いだということにも気が付かずに。
「まことに知んぬ」は信心とは関係ない。
この時点で、疑いとは関係ないと言っているのです。苦しいとかあなたの知能を心配します。
何度でもはっきり答えておきます。
「まことに知んぬ」は、信心とは関係ない
あなたの期待するような答え、
1.疑いが残っているの場合
七高僧とは「まことに知んぬ」が違っていて、親鸞聖人は嘘を仰ったことになる。
2.疑いが残っていないの場合
七高僧とは「まことに知んぬ」が違っているが、これは七高僧の仰せを否定したことになる。
したがって、どちらでもない、これはどちらが正しいのでなく、解釈の違い。
これでも判らないでしょうから、具体的に言うと
正定聚を死後と解釈された七高僧と現生と解釈された親鸞聖人。
現生正定聚に疑いがあるかないかとの質問に、
1.疑いが残っているなら、
そんなことを言うな、となる。
2.疑いが残っていないなら、
七高僧の解釈はなんなんだ、となる。
七高僧と親鸞聖人の信心は同じでも、解釈が異なる。解釈が異なっているからといって、七高僧の解釈を否定されたのではなく、より我々に判りやすい理屈を敢えて編み出されたということ。
これだけ言っても判らないなら、世間一般の日本語が通常レベルの人に、コメントを見てもらって教えてもらいなさい。
投稿: 飛雲 | 2018年9月12日 (水) 22時15分
>高森先生は、疑いなくハッキリするのだと教えて下さいます。
つまり、違うことを仰った七高僧は異安心だということですね。
はっきりいいますが、あなたの日本語の能力はかなり低いので、講師部の上の方の人をここへ連れてきて交代しなさい。
投稿: 飛雲 | 2018年9月12日 (水) 22時18分
さとしさんは、Fラン大学ですか?
あまりにも痛いコメントに、呆れているのですが、この気持ちはさとしさんには伝わらないのかな?
飛雲さんが言われていることは尤もなことで、七高僧と親鸞聖人とは解釈が異なっていることがあるわけで、その一つが
弥勒大士は‥
のところ。
これがはっきり知らされていない七高僧は異安心かってことですが、さとしさんにはわからないだろうね。
さとしさん、レベルが低すぎて、会員をやめたくなったよ。
実は親鸞会の消滅をこの目で見るためだけに残っているんだけどさ。
投稿: 会員その1 | 2018年9月12日 (水) 23時20分
横からごめん。
仏教では、教説が真実であることを経文や論釈の文の上から証明することを文証(教証)といいます。
飛雲さんが挙げている「まことに知んぬ(真知)」という「真知」は文証のことで、高森親鸞会のスッキリハッキリの信心とは関係がありません。
参考までに「教証」という項目を追記してみました。
「教証」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99%E8%A8%BC
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
投稿: 林遊@なんまんだぶ | 2018年9月13日 (木) 04時52分
これは酷い頭ですね
親鸞聖人が肉食妻帯されたのは、疑いが残っているのかいないのか?
こんな質問と同じですよね
信心とは関係なく、これは信念というものであり、肉食妻帯されなかった七高僧とは信念が違うのであって信心とは関係ないし、そこに疑いがあるとかないとか何言ってんだ?
親鸞会にはこんなおバカな会員しか残っていないんでしょうね
投稿: 元元 | 2018年9月13日 (木) 06時16分
コメント頂いた皆様、ありがとうございます。
学問とか論理学とは無縁の親鸞会ですから、反論といってもこんなものでしょう。
投稿: 飛雲 | 2018年9月13日 (木) 06時35分
>「真に知んぬ」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか。
「真に知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と言われていても疑いが残っているのか、残っていないのかどちらでしょうか。
って、アホでしょ。
弥勒大士の成仏の時期について、疑いが残っているのか、残っていないのかというか?
それこそ特殊な智慧が授かったといっているようなものだろうが。
ヒロシといいサトシといい、頭のおかしい連中の集まりだね親鸞会は。
投稿: ぴー | 2018年9月13日 (木) 07時50分
さとしさんの低レベルが親鸞会の低レベルを表している
投稿: | 2018年9月13日 (木) 13時02分
飛雲 様
コメント有難うございました。
更にご閲覧の方々もコメント下さり、御礼申し上げます。
私の日本語の能力の低さ、申し訳ありません。
会員その1様も、その他の皆様も私のお粗末なコメントに
よって不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び致します。
これからも日本語を学んでいきたいと思いますので、ご容赦下さい。
しかし、真実開顕において、日本語の能力が低いからと言って法論を
放棄しようとせずに、こちらの簡単な質問に答えて頂きたいのです。
ましてや
「Fラン大学ですか?」と学歴を持ち出したり、
「バカ」と人格攻撃をしたり
するなど論外です。
真摯な仏法者といえるでしょうか。
罵詈雑言を控えて、真実開顕に邁進しましょう。
以下教義については厳しい言葉で書くこともありますが、
皆様の人格や人間性を否定してはおりません。
共に親鸞聖人のみ教えを求める仏法者です。
今後ともよろしくお願いします。
「袖触れ合うも他生の縁」と言われますが、いつかどこかで
肩を並べて聞法したいものです。
こんな簡単な質問について、講師の方の貴重な時間を使って頂くことは
できかねます。
私のような浅学非才で十分です。
誹謗に迷い、このサイトで信仰が動乱する親鸞学徒のためにも、
できるだけ平易に書いていきます。
「真に知んぬ」について、
飛雲様は「親鸞聖人は体験で知らされたのではなく、経釈を通りて理屈として知らされた」
と言われていたので、「真に知んぬ」とは疑いが残っているのでしょうか、残っていない
のでしょうか
と尋ねました。
そうすると、「ここは信心における疑いとは関係のない話である、理屈の上のことである」
とお叱りを頂きました。
飛雲様はお非常に苦しい立場となられていると拝察致します。
1.疑いが残っている場合
「まことに知んぬ」を飛雲では「疑いが残っている」と解釈している
だって、変な解釈ですね。
と言われる。
2.疑いが残っていない場合
今まで必死に七高僧の御文を出して親鸞聖人の教えを捻じ曲げてきた
「救われてもハッキリしない」という
飛雲における変な解釈が瓦解する。
だから、1も2もとれない飛雲様は
3の主張を繰り出してきました。
3.「ここは信心における疑いとは関係のない話である、理屈の上のことである
から1でも2でもない」
「正定聚について七高僧と親鸞聖人は解釈が異なるから、1でも2でもない」
では、飛雲様の3の主張を検証しますと、
勝手な前提を立て、論点ずらしを図っております。
まず、「ここは信心における疑いとは関係のない話である、理屈の上のことである」
という前提が勝手に入っておりますが、
それが間違いです。
何でここは信心と関係のないことなんですか?
『教行信証』信巻で説かれていることですよ。
真実の信心について解説されているところですよ。
便同弥勒は信心とは関係がないんですか?
真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、
現生の正定聚の位を「弥勒に同じ」というんでしょ?
信巻のどこからどこまでが
「ここは信心における疑いとは関係のない話である、理屈の上のこと」
なんでしょうか。
体験していないことは全て「信心における疑いとは関係のない話」
になるのでしょうか。
全部がこんな調子だからかこそ、
「真に知んぬ」を
疑いが残っているとも残っていないとも言えないという変な
解釈をせねばならなくなってくるのです。
もう一度聞きますと、
体験していないことは全て「信心における疑いとは関係のない話」
になるのでしょうか。
体験していないことの中に「信心における疑いとは関係のない話」
になることとならないことがあるのでしょうか。
「信心における疑いとは関係のない話」になるのとならないのと
基準は何なんでしょうか。
体験したことでないことは皆、過去世の話も未来世の話も
「信心における疑いとは関係のない話」になるのでしょうか。
さらに、「七高僧と親鸞聖人は解釈が異なるから、1でも2でもない」
とも言われていますが、ここは親鸞聖人が書かれた『教行信証』
ですから、親鸞聖人は「真に知んぬ」をどのように解釈されて
いるかを言って頂ければいいのです。
肉食妻帯という親鸞聖人の生き様について
「真に知んぬ」と言われているのでもありませんので
ここでは関係ありません。
こちらが聞いてもいないことを横から言われているのに、
飛雲様もそれに同調なさるとはどういうことでしょうか。
文証であるかどうかを聞いているのではなく、
「真に知んぬ」はどういう意味なのかと聞いているのです。
七高僧を持ち出して論点ずらしをせずに、
親鸞聖人は「真に知んぬ」をどの様な意味で言われているのかを
明らかにして下さい。
「疑いが残っているのか、残っていないのか」については、
「ここは信心における疑いとは関係のない話である」と
飛雲様が理解されていること受け取りました。
そこで「信心における疑いとは関係のない話」とはどういう
ことかをお聞きしたくおもいます。
体験していないことは全て「信心における疑いとは関係のない話」
になるのでしょうか。
体験していないことの中に「信心における疑いとは関係のない話」
になることとならないことがあるのでしょうか。
「信心における疑いとは関係のない話」になるのとならないのと
基準は何なんでしょうか。
体験したことでないことは皆、過去世の話も未来世の話も
「信心における疑いとは関係のない話」になるのでしょうか。
最後に、
この飛雲というサイトには、間違った解釈が
満載で、笑いが絶えません。
親鸞学徒の皆さん、こんなサイトにくれぐれも惑わされないように
して下さい。
このサイトをみて、親鸞聖人の教えを学んでいるんですという人も
ありますが、見る人が見れば明らかな間違いが多分に含まれていま
すので、あまり勉強にはなりません。
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ご縁の浅い人に向けてのまとめ
飛雲様は、生きている時に「真に知んぬ」と
ハッキリ知らされるという親鸞聖人の教えを
どうしても立場上否定せざるを得ないのです。
「阿弥陀様に救われたのやら、救われていない
のやらハッキリせんでいい」というよくある誤解に同調
しているので、
「真に知んぬ」について「疑いなくハッキリ知らされた」と
言えないのです。
「真に知んぬ」を「疑いなくハッキリ知らされた」以外に
どう解釈すればいいのでしょうか。
飛雲様は
生まれてから死ぬまで体験できたこと以外は、
「本当かどうか分からないけど、解釈理屈としてはこうだ」
と解釈しているんです。
「自分が生まれてから死ぬまでの間に体験できたこと
以外は全部ハッキリしていないのだ」
という前提で、「真に知んぬ」を読むからそんな変な
解釈になるのです。
全く理解に苦しみます。
「疑いなくハッキリ知らされた」で七高僧とも矛盾しないのです。
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投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時32分
飛雲さんはさとしさんが質問するよりも以前から、親鸞聖人がどういう意味で「真に知んぬ」と仰っているか解説して来られました。
さとしさんの質問にも再三答えられました。
それでも、さとしさんは自分にとって気に入らない答えは答えと見做さず、繰り返し(自分にとって気に入る)答えを求め続けます。
自分が気に入る答えが来るまで聞こえないふりで拒否する姿はどこかで見覚えがあると思ったら、高森会長です。
壇上で、アシスタントの講師に質問し、答えが気に入らないと「んん?!!」と言って何度でも答えさせるあのいつものイジメです。
高森学徒にとっては会長が崇拝の対象である以上に人生のすべてを握られているので真似るのはある意味仕方ないことではありますが。
それにしても、自分が信心決定できないことに疑問を抱くこともできず、愚かな突撃を繰り返す有様には他人事ながら虚しさを覚えます。
投稿: | 2018年9月14日 (金) 00時58分
「真に知んぬ」の解釈は前から書いてあるじゃん…なんで読まない?読めない?
いつも通り聖教の根拠は一切出さないまま「真に知んぬ=疑いなくハッキリ知らされた」に決まってる!とか言ってるし、学習しなさすぎ…
投稿: | 2018年9月16日 (日) 18時29分