国語の問題よりもさらに深刻な人間性に問題のある高森顕徹会長と愉快な仲間達
本日の高森顕徹会長の話は、意地になっての二河白道の譬えを入れてきました。二河白道の譬えを話することができない、と煽ったので、反応した、といういつも私が言っている通りの展開です。高森会長の単純な性格が皆さんにも判られたと思います。
内容については、修正があるどころか、開き直りで、いつもの創作ヘンテコ話でした。
白道は仏教を聞こうと思う弱い聞法心
としたり、
見えない彼岸
仏教を聞くということは、白道を見えない西に向かって進むことだ
と言ったり、親鸞聖人の教えを正しく伝えようとか、間違えて伝えたら腹を切るとか、そんな気の更々ない無責任極まりない、会員を騙す気満々です。
今更ですが、
白道=他力信心
は揺るぎないし、高森会長自身が、
親鸞聖人は白道を他力で教えられている
と言っていたことも、ワシはそんなこと言ってない、で済ますのでしょう。
これが高森顕徹と言う人物の実相です。
白道については、散々説明してきましたので、今回は彼岸、西の岸が見えないのかどうかについて説明します。
『教行信証』信巻でも、元の『散善義』でも
この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩
この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。
となっています。東と西の岸との距離は「百歩」「二つの岸あひ去ること近し」です。
これをどう読んだら、西の岸、彼岸が見えないとなるのでしょうか。ここまでくると国語の問題ではありません、人間性の問題です。
これでも高森会長を擁護する会員は、同類で人間性に問題があるのです。
ついでに、本日の高森会長の話で、親鸞聖人が善導大師のことを「大心海化現の善導」と仰っているとありました。それが間違いと言いたいのではなく、親鸞聖人は、遭われたこともない他人である善導大師のことを仏の化身だと断言されていることです。
『高僧和讃』に
大心海より化してこそ
善導和尚とおはしけれ
末代濁世のためにとて
十方諸仏に証をこふ
とあります。善導大師だけではありません。他の高僧方も仏や勢至菩薩の化身と親鸞聖人は断言されていますし、当然ながら七高僧方が往生されたことも断言されています。
親鸞聖人の体験でこのように知らされたのかと言えば、前回のエントリーで紹介したW氏の日本語講座で、
他人の体験は自覚できない
と教えてくだされた通りです。それなのに親鸞聖人は断言されています。
親鸞聖人の断言、「まことに知んぬ」が何を意味しているかは、基礎学力があれば簡単にわかる話です。
会員も国語の能力を一般人並みにするように勉強し直してみてはいかがでしょう。その前の人間性に問題がある会員は、高森会長と同じ所へ行ってください。
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コメント
誠にその通りですね。
こんな分かりやすい事が、どうして分からないのだろう?何故高森顕徹だからという理由だけで、そいつの言っている事を信じるのだろう?人間性に問題があるとしたら、同じ頭の中身になっていて、真似ばっかりしているうちにコピー人間になったのでしょう。
投稿: 夕顔 | 2018年9月17日 (月) 00時03分
同じ話を、繰り返し繰り返し、聞かされるとそうなります。
新聞、聴聞、とどろき、教学、その他もろもろ。
でもその中に、名号、念仏は巧みに外されています。
お見事。
でも、末法の時代に、事業拡大は立派。
利用できるものはなんでも利用。
喧嘩はどんな手でも勝たねばならぬ。
ゼロ思考からは遠いか。
投稿: 煩悩具足の凡夫 | 2018年9月17日 (月) 06時25分
今は知りませんが、昔の親鸞会会長の講演の多くは
「ただ今から、親鸞聖人の話をいたします」
で始まりました。思えばこの瞬間、すでにこの人間とこの団体はアウトだったのかもしれません。
浄土真宗の話は救い主である「阿弥陀仏の話」を聞くのであって、釈尊や親鸞聖人の話を中心に聞くのではないと思います。釈尊や親鸞聖人は善知識として「阿弥陀仏の救い」を正しく教えられた方だと思います。今思うと完全に話の焦点がずれています。
学術講演会などで親鸞聖人の生涯を話すのであれば「親鸞聖人の話をします」で良いかと思いますが、浄土真宗の法話である以上は「阿弥陀仏の話」「仏法の話」として話を始めることが本来ではないでしょうか?
それではなぜ、「親鸞聖人の話」として話を始めたのか?
話を進める間に巧みな誘導で
「親鸞聖人」の話→「善知識」の話→「高森会長」の話
と少しずつ聴衆の頭の中をシフトして行って、最後には高森会長への「知識帰命」「絶対服従」へと誘導していくのが目的だったと思います。親鸞聖人を語っているようで、その実は会員が脳内で親鸞聖人と同一視してしまった「オレ(=高森会長)」についての話になることが狙いだったのだと。会長が親鸞聖人を讃えれば讃えるほど、実は自分自身を会員に誉め称えさせている事になっているのです。そのための話の始め方でした。
会長が自ら自分と親鸞聖人とを同一視せよとは言わなくても、周りの取り巻き連中はそのように言っていました。大真面目な顔で「高森先生は親鸞聖人のお生まれ代わりだから…」と私に教えた人間(今でも講師として活動している人間ですが)もいました。多分今でもそのような話があると思います。(内心は話している人もどう思っているか知りませんが)
自分を絶対的教主に作り上げるための手段に親鸞聖人を使っているのだと思います。「カルト」「マインドコントロール」の世界だと思います。
投稿: 園児 | 2018年9月17日 (月) 15時21分