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2018年9月15日 (土)

親鸞会で切れ者と思われる人物でも、実は大したことないという実例を通しての国語の授業です

今日は、高森顕徹会長の側近で、親鸞会の中では切れ者と思われていて、しかも文章を書くことを任務としているW氏でも、国語の能力に問題があった実例を通して、授業をします。

それは4年前にあった法論で、全文は以下にあります。

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/07/29/162012

名前を「ゼロ」とか「JB」と名乗っていますが共にW氏です。
論点の中心は、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

について「まことに知んぬ」がどういう意味なのかについてでした。

文法から言うと、「まことに知んぬ」は「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」の両方にかかっています。これは説明するまでもないことですよね。
まさか、「まことに知んぬ」は「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」にはかかっていない、というなら落第です。

W氏は、文を書いているだけに、流石にそれを認めざるをえなくなり、苦し紛れに書いたコメントから最終結論までを以下に抜粋します。

JB

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)
念のため日本語と比較しておきましょうか。

■宮田語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)

【3】

「断定文」は「疑問文」である。

【4】

「まことに知んぬ」は、「信じるに過ぎない」という意味である。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

宮田語しか分からない人には、

> 宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。
>
> でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

となるでしょう。お気持ちよく分かります。

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。日本語で、他人のことと自分のことを同じレベル

で、「本当だったと知らされた」などありえませんから!(【1】参照)

なので、ゼロさんも前に書いていたとおり、弥勒菩薩は、比較の対象として

引き合いに出されただけで、メインではないのです。

これも日本語基礎講座【2】にあるとおりで、普通の日本人なら皆、分かる

ことなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

★反論があるなら、【1】~【4】について、宮田語のほうが正しいという

国語辞典なりの根拠をお示しくださいな(^^)

まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に、ゼロさんも忍耐で

がんばられたことと思います!

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね、ハッキリいってこれらの人は、言語が違うのですから。

> 2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
> >
> >は、そうでしょうね。

については、まだ話が早いと思いましたので、とりあえず、善意に解釈した上で、「そうでしょうね」とぼかした返事にしておきました。

厳密にいうと、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は【仏】にならないと本当の意味で分からないことです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の智恵をいただかれ、仏説まこと、仏語に虚妄なしと知らされたことです。

そういう意味では、

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、成仏しないと断言できないことであるので、親鸞聖人御自身がハッキリと知らされたのではない。
>
となります。

つまりゼロさんと同じ意味と理解しておりますが? いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

まとめると

「真に知んぬ」は、まことだったとハッキリ知らされること(「信じるに過ぎない」という意味は日本語にない)ですから、

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」も【1】【2】の日本語の大前提にもとづき、

ご自身のことではありませんから、まことだったとハッキリ知らされたわけではない。

(※もう少し詳しく解説しますと、これは日本語レベルを超えて教学が必要となりますが、「仏語に虚妄なし」と知らされたお言葉)

これが中学生レベルでもわかる文章の構造です。ごくフツーです。

自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

じゃあ、

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり」

などはどうなるんだ!こんな教学的なことがハッキリ知らされるのか!と叫びたいのが宮田教の信者さんでしょうから、これも答えておきますね。

親鸞聖人は、弥陀に救われた体験に裏付けられた教えを明らかにされて書いておられるのです。
だから、「まことに知んぬ」なのです。

「まことに知んぬ」に、「信じるに過ぎない」という意味がない大原則は変わりようがありません。

もし「信じるに過ぎない」なら、「思う」「味わう」などの表現をなされるはずです。日本語を無視なされるはずがありません。

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、そのお言葉を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

★もし、そのようなご文がないのに「お聖教にあるから信じよう」とはなられないですから。

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

あと、「浄土往生できることは弥勒菩薩でも分かられないのに、凡智で分かるのか!」といまだに言っている人がありますが、

凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

凡智では分からないけれど、南無阿弥陀仏の智恵で分かるとハッキリ書かれてますでしょう。

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

「南無阿弥陀仏の智恵」をいただくのであって、仏になることとは違います。

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。(改邪鈔)

とあるように、仏智満入して信心決定するのです。(でも仏になったのではありません)

宮田教では、仏智満入しないのでしょうか?

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

仏心と凡心がひとつになるから、仏心のお働きで、凡夫にも「往生一定」とハッキリするのです。(でも、仏になったのではありません。正定聚の菩薩になったのです)

それは、浄土がアリアリと見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。文字通り、浄土へ往生できることがハッキリ(一定)するのです。
それ以上でも以下でもありません。

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

紅楳英顕氏の根拠を出したこと自体に、何か凄く反応してますけど、

「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

ちなみに、「信じるに過ぎない」なら、「自覚する」の言葉は出てきようがないんじゃないですか?

紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。
別に紅楳英顕氏を敬ってのことでないのは、日本人なら誰でも理解できるゼロさんの文章です。

まあ、これが最後かも知れないと思ってたくさん書かせてもらいました。

本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

すでに、【1】~【4】をもとに説明しましたが、宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

だって、文法も単語の意味も違うのですから。

どれだけ、煽ったり、あざけっても【ムダ】ですから、そんな時間があったら、日本語の勉強してくださいね。

以下の【1】~【4】の日本語が理解できるようになったら連絡ください。

もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。
ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

その他、どれだけ煽ってもムダです。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

では、【1】~【4】の勉強、がんばってください!

JB

ちょっと修正

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、【どのお言葉】を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

id:shinrankaiuso

ではもう1つ教えてあげましょう。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

について
**********************************************
【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

これを往生即成仏について言い換えてみると

**********************************************
【1】

昨年、A君が臨終に往生し即成仏した。(A)
今年、私も往生が定まり、臨終に往生し即成仏する。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

こうなりますが如何ですか?

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

主語は「念仏の衆生は」

つまり、私だけでなく、A君とその他多くの人が含まれる。

もう一度答えは、

2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

でしょ。

愚かですね。

それと、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と七高僧も聖覚法印も仰っていない。
知らされ方が違うんですよ。

id:shinrankaiuso

鈍いJBさんのためにもう少し説明

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

これをインフルエンザに置き換えると、

「インフルエンザにかかった人は、とてもつらい」

わかりましたか?

他人の体験も含まれています。

id:shinrankaiuso

JBさんの日本語講座を受講して以下のことが真に知らされました。

「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」

親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験は、自覚はできない。親鸞聖人御自身の体験は自覚している。だから違う。

親鸞聖人の「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」を分りやすく言うと、

 私以外の念仏の衆生について、臨終に往生即成仏できると自覚できない。
 私の体験は自覚している。
 だからこの2つは違うが、一緒に「真に知んぬ」

このように真に知らされました。

id:shinrankaiuso

一応解説しておくと、「弥勒大士は…」を出されたのは、聖道門での成仏と18願での成仏を比較されるため。

よって

真に知らされた、聖道門では弥勒菩薩でさえ成仏するのに五十六億七千万年かかるのに、18願の救いは臨終に成仏できる。

親鸞聖人の個人的な体験を仰ったのではなく、教義解釈についての話です。

往生即成仏と、経典にもなく、七高僧方も仰っていないが、論理的にそうならないとおかしいと真に知らされた

これがこの御文の意味。自覚の問題ではないから、七高僧方と違ったことを仰っていても、信心が同じかどうかには関係しない話。

JB

おはようございます。

shinrankaiusoさん、遅くまで詭弁を展開していただき有難うございます。

でも、その努力は日本語習得のために使ってほしいものですね。

宮田さんもshinrankaiusoさんと同じ意見でしょうか?

この先の二つのコメントについてです。

日本語について少し触れてきましたので、今回はお答えしようと思っていますが、宮田さんの意見を聞いてからにしたいと思います。

あと、私の言葉遣い云々についてのコメントがいくつかありますね。

これについては、もう少し落ち着いてからお話ししようと思っていましたが、ちょっとだけ話しておきましょう。

言葉遣いのまずさは、自分や自分の仲間に関してはなかなか気づかないものです。特に反対意見を述べているときには。
そして議論をかわしているときには、あまりお上品にもやっておれませんので、ある程度、激しくなることはやむをえないものもあるでしょう。

ですが、度を越してはなりません。

例えば、たびたび取り上げられるこのような言葉です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

特に世間一般にみて、【精神病患者】発言は看過さるべきではものではないですね。
見てみぬふりをしては同罪になってしまいます。
管理人である宮田さんは、この発言についてどう思われますか?

このことについてはお尋ねしたく思います。

通りすがりさんは、通りすがりのわりに何度も通られるのですね(笑)
そして第三者の目で見て、【精神病患者】は問題なしだそうですが、一体どこの国の第三者の目なのでしょうね。

朝から笑いを提供してくださり有難うございました。

id:shinrankaiuso

おはようございます、笑いを提供しておきます。

JBさんの日本語基礎講座受講を踏まえて整理し直しました。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験について、親鸞聖人は自覚できない。親鸞聖人御自身の体験については自覚できる。だからこの2つは違う。

3.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

4.弥勒菩薩の成仏と親鸞聖人以外の念仏の衆生が臨終に往生即成仏できることについて、親鸞聖人が自覚できることではないが、親鸞聖人御自身の体験と併せて、「真に知んぬ」と一括りで仰っている。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

W氏は、文章を書くのが任務でも、国語の能力に問題があって、自信満々に出した詭弁を暴かれて、あっけなく幕切れとなりました。

W氏の今回の間違いは、主語です。親鸞会との法論では、相手が親鸞会一の切れ者であっても、国語の能力が人並み以上なら誰でも勝てるという実例でした。

今日の授業のポイント。

皆さん、文章を読むとき、書くときは、主語に気を付けましょう。それだけで、高森会長の嘘が判ります。

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コメント

飛雲様
いつも鋭い議論を有り難うございます。
W氏も言っていますが親鸞会では、「仏智を頂く」という表現をたびたび聞かされましたが、御開山にはこのような表現があるのでしょうか。
ごく普通に考えて、仏智が私に満入し、私が仏智を全領したら悟ったことになるのではないかと思います。
仏智を頂き仏智全領したが悟っていない凡夫、でも頂いた仏智で色々なことが判ってしまう、というのは意味が分からないのですが、私の理解が足りないのでしょうか。
因みに私自身は仏智など貰っていないし何も変わっておりません。

投稿: ミントスプレー | 2018年9月15日 (土) 19時31分

ミントスプレー様

親鸞聖人は、「仏智を頂く」という表現はされていません。「信心を頂く」という表現で、信心が仏の心ということです。
仏の心を頂いたら、仏そのものになるのですが、そうではありません。
「不断煩悩得涅槃」と同じで、煩悩を断ぜずして涅槃に至る分を得る、であって、煩悩があるままで涅槃に入るのではないです。
正定聚も同じで、仏になることに定まったのと、仏に成ったことは違います。
信心=「仏の心」を頂いたとは、「仏の心」になる種を頂いたということです。
親鸞聖人が「仏智」という言葉を使われる時は、
「仏智不思議を疑う心」=自力
です。他力は「仏智不思議を信じる心」です。
親鸞聖人においては「仏智」を疑うか信じるかという言い方になります。

ただし、覚如上人は仏智満入という表現をされていますので、「仏智を頂く」という表現が間違いとは言えません。

この場合でも意味は、上記とおなじです。

投稿: 飛雲 | 2018年9月15日 (土) 21時00分

おはようございます。Abcです。

>皆さん、文章を読むとき、書くときは、主語に気を付けましょう。それだけで、高森会長の嘘が判ります。

ですね。真宗は「親様(阿弥陀さま)を主とせよ」でありますから、重ねて留意すべきかと存じます。もっとも先述した「本願力回向」、「『南無阿弥陀仏』を始めとする名号」も「阿弥陀さまの御はからい」なのですから

なもあみだ なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年9月16日 (日) 10時10分

この論点根本的な問題として、親鸞会の人の言う知覚できないことについて体験的に知らされるなんていう話、ペンテコステ派(黒いホーロー看板のあれ)の異言と変わらないオカルト神秘主義に過ぎないんですよね。とてもまともに取り合っていられる主張じゃありませんよ。

いや、異言という現象そのものは確認できる分だけペンテコステの方がマシでしょう。親鸞会のは現象として確認できるものすらないんだから。

投稿: nornsaffectio | 2018年9月16日 (日) 19時45分

飛雲 様

返信遅くなり、申し訳ありません。

丁寧に解説もして下さり、有難うございます。

飛雲様と親鸞聖人の教えの相違点が非常によく分かりました。

仏法の話に入る前に一つ申し上げたいことがあります。

★私について人格を否定するような罵詈雑言を浴びせる人が
★多くあります。
★このような、コメント、本文がはびこるブログにおいて、
★真摯な仏法者が運営していると思われますでしょうか。

★親鸞学徒の皆さん、難しい仏法の話が分かられなくとも
★まずこの言動において、このブログに関わる人達を
★信頼すべきかどうか、

★本当に
★親鸞聖人の御教え宣布に命をかけている人たちか、
★怨憎の念一つで動いている人か明らかでしょう。

では、飛雲様が何を誤解されているか、浅学非才ながら、

明らかにしていきます。

まず、「真に知んぬ」についてです。

飛雲様は、

「ここは信心における疑いとは関係のない話である、

理屈の上のこと」であると言われたので、

「信心における疑いとは関係のない話」になるのとならないのと

基準は何なんでしょうかと聞きました。

親鸞聖人は「真に知んぬ」をどのように解釈されて

いるかを言って頂ければと聞きました。

そうすると、飛雲様は、

>『教行信証』で「まことに知んぬ」と断言された箇所は、
>
>ほとんどが聖教の解釈上での話で、理解できたの意味です。

と言われ、例文も挙げて、お聖教の解釈上での話で、理解

できたという意味であると示して頂きました。

ここでなぜか「ほとんど」と言われています。

全部ではないということでしょうか?

「疑いなくハッキリと知った」という意味で「まことに知んぬ」

と言われているところは無いのでしょうか。

改めて、お聞きします。

「信心における疑いとは関係のない話」になるのとならないのと

基準は何なんでしょうか?


飛雲様は、何がハッキリとし、何がハッキリとしないかを分別

されていないので、このような何ともスッキリハッキリしない

答え方しかできず、「真に知んぬ。弥勒大士は…」の御文を

出され、鬼の首を取ったかのように、勝ち誇っているのです。


阿弥陀仏に救われると、二種深信が立ちます。

○一には決定して、
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。
(機の深信)

○二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。
(法の深信)

この深信とは、飛雲様も

>いうまでもなく、深く信じるとは他力の信心を顕わしています。

と言われている通り、他力の信心を顕されています。

では、その他力の信心とはどのような信心でしょうか。

親鸞聖人は「金剛の真心」とも「真実の信心」とも言われています。
『教行信証』信巻において、

本願の三心ともに無疑の信心であるから親鸞聖人は『教行信証』

信巻の三心釈にいずれも「疑蓋無雑」の句をもって結ばれ、

『略本』にも、「三心皆共に真実にして疑心なし」と言われてい

ます。

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること
無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証信巻)

(「聞」とは、阿弥陀仏の本願は、どんな人のために建てられた

のか、どのようにして建てられたのか、その結果はどうなったの

か、これら一切に"疑心有ること無し"となったのを聞というので

ある)

と阿弥陀仏の本願にツユチリの疑心のなくなった信心であると

おっしゃっています。

本願を疑っている心とは

「助からないのではなかろうか」

「ハッキリとは分からないけど、解釈としてはこうだ」

というような心です。

本願疑惑心とか、疑情とか不定の心ともいわれます。


蓮如上人は

「これ更に疑う心露ほどもあるべからず」(御文章)

と明らかにされています。そして、

「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて後悔のみ

 にて候わんずるぞ、御心得あるべく候」(御文章一帖)

(本願に疑い晴れていなければ、必ず、後悔するであろう)

と教誡されています。

疑蓋無雑の信心でありながら、疑いが晴れてハッキリとしたという

ことがないのでしょうか。


さらに、何がハッキリするのかということですが、

「阿弥陀仏の本願」「自己の真実」

についてです。機の深信については省略しますが、

阿弥陀仏の本願については、法の深信のお言葉に明らかです。

「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、
 疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」

ということがハッキリするのです。

逆に言えば、阿弥陀仏の本願以外のことは、ハッキリしません。

お釈迦さまが仏智により明らかにされたことについて、

阿弥陀仏の本願以外のことはハッキリしません。

弥陀の本願が真であるとハッキリ知りますので、その本願を

教えられたお釈迦さまの教えが真であるとハッキリと知るの

です。

だから高森先生は、弥勒菩薩の成仏の時期がハッキリすると

仰言ったことはありません。

「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、
 龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す」

について弥勒菩薩を引き合いに出され、浄土往生の確信を明ら

かにされていると仰有るのです。

ハッキリするのは浄土往生のみです。

先程の法の深信のお言葉で明らかです。

弥勒菩薩の成仏の時期がハッキリすると言っている人があれば、

それは聞き誤りです。

阿弥陀仏の本願のどこに弥勒菩薩の成仏の時期を名指しで

説かれているでしょうか。ありません。


しかし、浄土往生の確信は疑いなくハッキリと知らされるのです。

法の深信のお言葉で明らかです。


「まことに知んぬ」と言われていることについて、何がハッキリ

と知らされ、何がハッキリとしないのか。

二種深信がハッキリとし、それ以外はハッキリとしません。

投稿: さとし | 2018年9月25日 (火) 00時15分

さとし様

あなたに対しての私のコメントを読めないのでしょうか?

日本語の勉強をしてからコメントをください。

あなたが書いていること全ては、すでに詳しく述べて来ましたが、あなたには理解できない。なぜか?
あなたの日本語の能力が極めて低いからです。

弘宣局のトップであるWさんは、容易に私の言うことを理解して敗北し敗走しました。

もう一度言います。

あなたの日本語の能力が低いために、私の言うことが理解できずにいるのが現実です。
関連箇所を印刷してWさんに渡して意見を聞いてください。

あるいは、高森会長に質問してください。

その結果をコメントしてください。

以上です。

投稿: 飛雲 | 2018年9月25日 (火) 00時27分

さとしさんは、本当にダラですね。
「真に知んぬ」の判断基準は、さとしさんのために中学レベルの国語の授業で教えられたのに、読んでない、読めない?

二種深信と「真に知んぬ、弥勒大士は…。念仏の衆生は…。」は違う内容だから四種深信だと飛雲さんに皮肉まで言われているのに、読んでない、読めない?

ここまでくるとギャグだよ。

火星人でさえここまで酷くなかったから、火星犬レベルでは?

こんなのが、会員なんて親鸞会も終わりだわ。

投稿: ピカチュー | 2018年9月25日 (火) 04時48分

さとしさん
みんな、あなたにあきれているのよ。
にほんごがここまでできないと、コンビニでもやとってもらえないでしょう。
すべて、ひうんさんがていねいにかいせつされたことなのに、なにいってるのよ。
しんらんかいには、コンビニでもやとってもらえないようなやからしかのこっていないのか?
アホをさらしてみんなからバカにされたいなら、コメントすればよいが、じんかくこうげきするなとおこるなら、コメントするな。

投稿: | 2018年9月25日 (火) 06時21分

今までいろんな会員のコメント読んできたが、さとしさんは間違いなく史上最低レベル

投稿: 元S | 2018年9月25日 (火) 08時50分

さとしさんへのコメントをされる皆様

さとしさんは、私の書いた内容は理解できなくても、さとしさんの人格を否定する内容は理解できるようですので、皆さんのお気持ちはよくわかりますが、人格を否定する言葉は避けてください。

投稿: 飛雲 | 2018年9月25日 (火) 12時48分

あのしつこいプライドの高い渡部講師が、敗走せざるを得ない内容。
それと同じ内容で、飛雲さんは間違っていると言っているさとしさんは、

1.渡部講師より優秀
2.渡部講師とは比較にならないくらい◯◯

誰に尋ねても2と答えるでしょう、さとしさんを除いては(笑)

投稿: OS | 2018年9月25日 (火) 18時49分

飛雲様

長文で失礼しました。

以下お聞きしたいことですが、短くまとめてみました。

国語の授業も読んだのですが、どこに答えられているのでしょうか。

今までも聞いた同じ主張を繰り返しているだけです。

丁寧に答える気がないからという逃げ口上で法論を放棄されても

私は一向に構いませんが、

★まともな回答が望めないという理由で
★親鸞会が飛雲様をまともに取り合わなくてもお互い様ですね。

「まことに知んぬ」について

1.体験を通して実感として知ることができた
2.書物や実験などを通して理屈として知ることができた

1だけであるとは思っておりません。

1も2もあると思っております。

1も2もありますよねという国語の授業、有難く理解しました。

じゃあ、どれが1でどれが2なのかを聞いているのです。

仏智を獲るのではない、という文証を沢山出されているのも

理解しているのですが、もちろん仏の悟りを開くのではない

ので、煩悩に覆われている私達が仏智を獲られなくて当然です。

二種深信が立つとだけ言っているのです。

だから仏智を得られない、浄土が見れないという文証をどれだけ

出されても無意味です。


できるだけコンパクトにまとめたつもりですので、以下のことに

答えて下さい。

★『教行信証』において

「疑いなくハッキリと知った」という意味で「まことに知んぬ」

と言われているところは無いのでしょうか。

改めて、お聞きします。

飛雲様が「ほとんど」であるとしか答えられていませんので、

分かりませんでした。


★『教行信証』の「まことに知んぬ」の部分で、

「信心における疑いとは関係のない話」になるのとならないのと

基準は何なんでしょうか?

飛雲様が「ほとんど」であるとしか答えられていませんので、

分かりませんでした。


★疑蓋無雑の他力信心において、

「ハッキリとは分からないけど、解釈としてはこうだ」

という心はあるのでしょうか。


親鸞聖人は以下のように仰せです。

(原文)
田舎の人々の、文字の意も知らず、あさましき愚痴きわまりなき故に、
やすく心得させんとて、同じことをたびたびとりかえしとりかえし書きつけたり。
心あらん人は、おかしく思うべし。あざけりをなすべし。
然れども、大方の謗りをかえりみず、一筋に、
愚かなるものを心得やすからんとて記せるなり(唯信鈔文意)

(意訳)
あまり文字の読めない田舎の人たちにも、なんとか分かってもらいたいと、
同じことを繰り返し、重ねて書いたのである。
教養のある人が見れば、おかしく思うだろう。
あざける人もあろうが、どんな謗りも甘んじて受けよう。
ただひたすらに、誰にでも分かるように伝えたい一心で
記したのである。

このような親鸞聖人の止むにやまれぬ正法宣布の熱い心情と、

飛雲様とはかけ離れておられます。

私の国語力の不足から、ご迷惑をおかけしておりますが、

「読んどらん、読んどらん」

だけでは、真実開顕にはなりません。

丁寧に答える気がないからという逃げ口上で法論を放棄されても

私は一向に構いませんが、

★まともな回答が望めないという理由で
★親鸞会が飛雲様をまともに取り合わなくてもお互い様ですね。

★親鸞学徒の皆さん、このブログではこういう人たちが勝手な
★主張を繰り広げ、法論で勝った気持ちになっているだけなん
★です。

投稿: さとし | 2018年9月26日 (水) 00時39分

さとし様

私はいつも言っていることですが、

法論はいつでも受けます。ただし聖教を基にしての。

現に何百回と法論をしてきました。100%親鸞会の逃亡で終わっています。

そして私はさとしさんに言いました。

W氏に意見を聞くか高森会長に質問して、その結果を報告するようにと。

これがなにを意味するか理解できないのですか?
私はあなたではなく、親鸞会のトップと法論をすると言っているのです。

あなたはそれを無視した。そう言うことですね。

ちなみに親鸞会が私を相手にしないのではなく、散々相手にしてすべて痛い目にあい多くの人が退会したという歴史から退会者との法論をしてはならないと高森会長から指示が出ている訳です。

過去の法論に学ぶ

そう言う意味では、親鸞会のトップは頭は悪くないです。


以上を踏まえた上であなたに対する国語の授業をしておきます。
今問題にしているのは、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

についてです。
これについて体験からなのかどうかという話です。
私は明言しています。

体験から仰ったのではない。信心とは関係ない。

これに異論があるなら、聖教をもって反論してください。
あなたは、それをしないで、話を逸らしているだけ。
話を逸らした時点で、あなたの負けです。

以上です。

と言うと逃げたと喚くでしょうから一つだけ。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

これは、体験的な内容ですから、「ほとんど」と言ったのです。

投稿: 飛雲 | 2018年9月26日 (水) 02時50分

さとしさんのコメント

>「真に知んぬ」は「疑いなくハッキリと知らされた」ですよ。

これを撤回したのが今回のコメント

>1.体験を通して実感として知ることができた
>2.書物や実験などを通して理屈として知ることができた
>1だけであるとは思っておりません。
>1も2もあると思っております。
>1も2もありますよねという国語の授業、有難く理解しました

この時点で、終わり。

もう一つのコメント

>二種深信がハッキリとし、それ以外はハッキリとしません。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

これは法の深信とは違うと認めたなら、終わり。
認めていないなら、日本語の能力が著しく低い。

投稿: 飛雲 | 2018年9月26日 (水) 06時33分

さとしちゃんは、

「真に知んぬ」は体験でハッキリ知らされたことに決まっている!!!!!!

と言いきっていたけど、飛雲先生の授業を受けて

「真に知んぬ」は体験でハッキリ知らされたことと書物や実験で分かったことの両方ある

と分かったんだね。偉いね。
じゃあ次は

「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が体験でハッキリ知らされたことだという理由を言いなさい。

飛雲先生は

「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が書物を通して理屈として理解できたことだという理由をたくさん挙げられている。

それを否定するだけの理由があるなら、出しましょうね。
出せならなら、飛雲先生に謝りなさい!!

投稿: 国語教師 | 2018年9月26日 (水) 07時47分

さとしさんには理解できないので、解説してあげましょう。

飛雲さんがかの文を理論だとされた理由

1.前後の文脈から、経典、高僧の著書から理屈として分かったの意味にしかならない。
2.七高僧は、このようなことを全く仰っていないので、信心とは関係ない。
3.二種深信とも異なる内容なので、信心とは関係ない。

一方でさとしさんの主張は、

「真に知んぬ」は信心と関係がないなんてありえない

感情論で議論にすらならない。

投稿: 中学生 | 2018年9月26日 (水) 10時23分

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