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2018年8月 1日 (水)

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員のために

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員に少し教えてあげます。

『観無量寿経』には、機に応じた行が勧められて、その行によって往生できると説かれています。具体的には

定善ができる機には、定善をしての往生
散善の行福ができる機には、行福をしての往生
散善の戒福ができる機には、戒福をしての往生
散善の世福ができる機には、世福をしての往生
定善も散善もできない機には、念仏での往生

が勧められています。
最後の
定善も散善もできない機とは、悪人のことで善導大師が『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰った下品上生から下品下生までの悪人です。
ちなみに「仏法の善根」が定善・行福・戒福で、「世俗の善根」が世福です。
定善はおろか散善も全くしてこなかったし今後もしない人のことを悪人と定義されているのです。

ですから大雑把に言うと、善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められたのが『観無量寿経』です。悪人に善を勧められたということは、どこをどう読んでも『観無量寿経』にはないのです。
浄土門においても、聖道門でさえも、そんなヘンテコな解釈をすることはありえません。

ということは、『観無量寿経』の方便の教え、つまり顕説は

善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められた

にしかなりませんので、方便から真実へ、あるいは三願転入という道程を主張するなら

善人:19願の善→20願の念仏→18願の念仏
悪人:19願の念仏→20願の念仏→18願の念仏

というのが隠顕釈となります。

なお、前回紹介した

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

は、下品下生の極重の悪人に対して、念仏のみを勧められたことを示す善知識方の直接の文証ですが、一方で親鸞聖人は善人に対して善を勧められているのかと言えば、そうではありません。
『教行信証』化土巻に

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰り、「定散の諸機」という善人も「極重悪人」同様に「ただ弥陀を称せよと勧励」されたのが『観無量寿経』の真意だと解釈されたのです。
『観無量寿経』の表面では、善人に対して善が勧められていますが、底では善人に対しても念仏だけが勧められている、と解釈されたことを隠彰と言うのです。
当然ですが、「ただ弥陀を称せよ」は18願です。
その証拠にこの直前に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。

と仰っているからです。

善人に対しても悪人に対しても釈尊が勧められていることは18願の念仏のみで、善人には念仏に導く方便として定散二善が形式上勧められている、これが親鸞聖人の教えです。

間違えようのない明快な理論ですが、それをねじ繰り回して、訳が判らなくなって、何か深い御心があるのだろうと錯覚させているのが高森理論で、それを必死に擁護するのがプライドだけは高いが知能は低い講師部員なのです。

反論があるなら、いつでも法論に応じますので、コメントをくださいね。

もしコメントを拒否されたと言うなら、そのコメントを自分のブログに出せばよいです。そうすれば、誤魔化すことができませんので、安心してコメントしてください。

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観無量寿経」カテゴリの記事

コメント

飛雲先生
18願の救いと下品下生の救いの違いについてお教えください。18願の救いは正信偈に「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」とありますが、下品下生の救いは①具足十念称南無阿弥陀仏②称仏名故…③命終之時…即得往生極楽世界④於蓮華中満十ニ大劫⑤蓮華方開…⑥聞已歓喜応時即発菩提之心とあります。①②は現世で③で極楽往生できますが、同時に真如法性身を証するのではなく、④の十ニ大劫を経て、⑤になってからようやく“大会衆”となり、⑥で証を求める心を起こす 。真如法性身を証するのはまだまだ先と思われます。この違いはどのように理解したらよいのでしょうか。
この十ニ大劫云々も「五逆の罪のおもきほどを知らせんが為」の比喩的表現なのでしょうか?
それとも唯除五逆とあるように、五逆罪は別格で、やはり実際にこのようにかかってしまうのでしょうか?
またこの正信偈の救いの過程も聖人独自の解釈なので、前回教えていただいたように「どんな過程を辿ろうが問題ない」と思うベきなのでしょうか?
解釈等が間違えていたなら、あわせて教えいただければ幸いです。

投稿: 猿松 | 2018年8月 2日 (木) 13時24分

猿松様

『観無量寿経』下輩の念仏についての解釈は微妙なところがあります。
まず、善導大師、源信僧都も法然上人も、ここを19願の念仏というような解釈はなされていません。当然ながら18願の念仏です。
一方で親鸞聖人は『教行信証』化土巻の顕の説明で

顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

と仰っています。ここに、念仏は出てきていません。特に、「欣慕浄土の善根」は、明確に定散二善を指していますので、やはり念仏は入っていません。
また『唯信鈔文意』では明確に、18願の念仏で解釈なされています。
ところが、『三経往生文類』では、

しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。

と自力の念仏が説かれていると説明されています。
ですから親鸞聖人の場合は、下輩の念仏を善導大師、源信僧都、法然上人同様に基本は18願で解釈なされていながらも、19願の念仏としてもみられることがあった、ということになります。

どちらが正しいのだ、とはっきりさせたいお気持ちはよく判りますが、二通りの言い方をなされているので、かの人物のように、18願の意はない、と決めつけることはできませんし、その反対で19願の意はないと言い切ることもできません。ですから私は18願の意があるという以上の言い方はしていません。

二通りある以上、ケースバイケースで考えるしかないと思います。

なお比較のためにに白道を見ると、白道は他力の意味でしか親鸞聖人は仰っていません。自力の意味で仰った箇所がないので、一通りの言い方しかされていないので、ケースバイケースにはなりません。

玉虫色の回答と思われるかもしれませんが、これ以上は言い様がないです。

投稿: 飛雲 | 2018年8月 2日 (木) 14時52分

飛雲さま

 読解力が乏しいので教えてください。
 下輩の念仏が19願の念仏の意の場合、臨終後④十ニ大劫を経て云々…ということでしょうか?
 私に何か前提となる知識が欠落していて、猿松さまの問いに対する回答だと思えないです。。

猿松さま
 私の勝手な感想ですが、
 もし十ニ大劫を経てからようやく大会衆となり・・・となったとしたら、
 まぁそうだろうなというか、しかたがないことかなと思います。
 真如法性を悟るのがどういうことかわからないので、そうだろうなというのも変ですが、
 阿弥陀さんが助けると仰られる方法で助けられるより仕方がないので、
 なんともそれ以上の希望や願望を持とうと私は思いません。。

投稿: YGM | 2018年8月 3日 (金) 09時54分

YGM様

説明が判りにくかったので、補足します。

>下輩の念仏が19願の念仏の意の場合、臨終後④十ニ大劫を経て云々…ということでしょうか?

そういうことです。
臨終直後は化土往生という解釈になるということでしょうが、親鸞聖人はそのことについて直接仰っていませんし、他の善知識方も仰っていませんので、あくまで学説ではそういう理解だということです。

投稿: 飛雲 | 2018年8月 3日 (金) 10時00分

猿松様 飛雲様

私は「21世紀の浄土真宗を考える会」に紹介がありました以下のご文で理解しております。
いかがでしょうか?

問。極楽に九品の差別の候事は。阿弥陀佛のかまへたまへる事にて候やらむ
答。極楽の九品は弥陀の本願にあらず。四十八願の中になし。これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものとも慢心をおこすべきがゆゑに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし云云
(法然上人 西方指南鈔「十一箇条問答」[親鸞聖人筆])

投稿: 園児 | 2018年8月 3日 (金) 10時54分

園児様

極楽に九品の差はないですが、『観無量寿経』ではあるように説かれていることについて、どう解釈するかは難しいことです。
いずれにしましても、親鸞聖人がこの下品下生の御文について直接解釈された箇所がないので、憶測でしか話ができません。
逆に言うなら、親鸞聖人が言及されていないということは、大きな問題ではないということです。

投稿: 飛雲 | 2018年8月 3日 (金) 10時59分

飛雲様
「逆に言うなら、親鸞聖人が言及されていないということは、大きな問題ではないということです。」
お答えありがとうございました。
私も猿松様と同様に十ニ大劫に引っかかって、質問しようと思っておりました。
そうですね、親鸞聖人ならばこの問題に絶対に言及されていますよね。
いつもご教示ありがとうございます。

投稿: 園児 | 2018年8月 3日 (金) 11時08分

飛雲先生、YGM様、園児様

様々なご教示、ご意見ありがとうございました。返事をしなければと思いましたが、意見がまとまらず、取り急ぎお礼だけでもさせていただきます。法然上人のお答えと飛雲先生の「親鸞聖人が言及されていないということは大きな問題ではない」とのご意見は大変参考になりました。
今は、「救ってくださるのは阿弥陀仏であり」
「救われるには平生に 他力の信心(他力の念仏)をいただくことであり(帰入功徳大宝海)」
「 救われたら一念発起入正定之聚となり(必獲入大会
衆数)」
「 救われた死後は浄土往生であり(得至蓮華蔵世界)

「浄土往生すれば弥陀同体のさとりを開く(即証真如
法性身)」
というお言葉をあらためて再確認、再認識させていただいています。


投稿: 猿松 | 2018年8月 3日 (金) 14時39分

魔鬼noを完全論破してきました。
いつものパターンですね。
早々と敗北宣言を出してますが、飛雲さんとは月とスッポンかと思いましたが、月とミジンコくらいの差がありました(笑)

投稿: 魔鬼no | 2018年8月 3日 (金) 20時30分

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