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2018年8月 5日 (日)

創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

本日は追悼法要という名目で、大大的に宣伝をし、高森顕徹会長の動画を一般に公開してまで必死の人集めの結果、人数だけは昨年の報恩講並であったようです。
それだけを見ると親鸞会は息を吹き返したのかと思われるかもしれませんが、かなり無理していることは、様々なところで表面に現われています。その1つが、御供物でしょう。一般の行事と変わりません。最も気を遣い、お金を使ってきたところへ回すお金が不足しているのです。かなり、切羽詰まっているところまで追い込まれているようです。

次回、御供物が増えたら、皆さんで笑ってあげてください。

さて、本日もはっきりしない話をだらだらしていましたが、絶対の幸福という創価学会の真似が主で、その説明に仏凡一体という言葉を使っていました。

真実信心を知らない高森会長ではこの程度の説明で誤魔化すしかないのでしょうが、真実信心と仏凡一体は、二河白道の譬えで説明できます。

先月のエントリー

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

でも紹介しました存覚上人の『浄土真要鈔』がそのことについて詳しいです。
上記のエントリーでは

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

で、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきるのだと説明しました。
そしてこの後に存覚上人はこう続けられています。

このゆゑに『経』には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

難しい語はありませんので、概ねお判りになられると思いますが、最後の

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

で仏凡一体について説明されています。
法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」によって「未来の衆生の浄土に往生すべきたね」を成就された、そのことを聞いて、それをそのまま聞いたことを「仏心と凡心とまつたくひとつになる」と仰っています。
もっと簡潔に言うなら、法蔵菩薩が我らが往生する因を法蔵菩薩が御修行によって用意されて、その通りと聞いたことを真実信心と言い、仏凡一体と言われるのです。

したがいまして、衆生の側で、何かをしなければならないことはないのです。
善をしなかれば、三願転入しなければ、宿善を厚くしなければ、
というのは間違いであるどころか、その通りと聞く妨げになるのです。
何かをする必要があると考えるのは、法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」ではまだ不足だという考えであり、「そのことわりをききて、一念解了の心」が起きないからです。

そう聞くのは一念でも、それまでは何かをしなければ…

が間違いです。法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」にケチをつけている心です。

二河白道の譬えでいうなら、阿弥陀仏の「浄土までいく白道に乗りなさい」との喚び声に、「はい」と白道に乗るだけです。白道に乗るために何かが必要だとはどこにも教えられていないのです。

そして白道の乗ったことを仏凡一体というのですが、白道に乗ったら、何かが変わったかと言えば、何も変わっていません。
白道の幅も長さも、水の河も火の河も、西の岸の様子も見え方も、東の岸の群賊悪獣悪知識も、何も変化していません。

ですから、真実信心を獲ても、表面上は何も変わりませんし、ましてや絶対の幸福なる空想の境地に出ることも絶対にありません。

信前信後の水際も変化も、仏凡一体も、全て二河白道の譬えで顕わされているのです。

この程度の簡単な説明もできない高森会長の話を聞いて、得られる物は、貧と恥のみです。

人集めには、創価学会の真似が手っ取り早いと考えている高森会長の浅はかさに、会員も早く気付くベきです。

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二河白道」カテゴリの記事

コメント

こんばんわ、Abcです。
今回も読ませていただいて心に残ったことを記させていただきます。読まれる方は少々お時間を頂きたく思います。

存覚上人の『浄土真要鈔』
>法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

こちらは
親鸞『顕浄土真実行文類 弐』巻末『正信念仏偈』
「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」

が対応いたします。この中「五劫思惟之摂受」とあることが「法蔵菩薩 因位の時に (乃至) 五劫のあいだ思惟され摂受された」となります。

また、おおもとに当たる『大無量寿経』には

『大無量寿経』内『讃仏偈』
「願我作仏 斉聖法王
 過度生死 靡不解脱
 布施調意 戒忍精進
 如是三昧 智慧為上」

「願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく、
 生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
 布施・調意・戒・忍・精進、
 かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。」(WikiArcより引用)

ともございます。これらからかいつまんだとしましても「五劫のあいだ(法蔵菩薩が)思惟され」、「法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひ」、「われ仏とならんに、聖法王に斉しく、
 生死を過度して、解脱せざることなからしめん」となりますから、

『歎異抄』第8
「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと」

と記されているのです。このことから「自然法爾 自ずから然らしむ法に依りて爾らしむ(自然法爾の事)」「不回向の行 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(「行文類」決釈)」など記されているのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年8月 7日 (火) 22時30分

飛雲先生

下品下生の念仏について、前回のお答えに“他力(18願)の意も自力(19願)の意もある”とのことでしたが、実は一番お聞きしたかったことは「自力の念仏が他力の念仏に変わるのかどうか」ということだったのです。
親鸞会在席時には「自力の念仏を、口にマメができる位称えても救われない」と言われてきましたので、私のような退会者にとっては「自力称名念仏をしてもよいのか悪いのか」というレベルから始めなければならなかったのですが、先生の「カテゴリー唯念仏」を読んで“救われないどころか念仏一行である”ということを教えていただきました。
そこで質問なのですが、自力の念仏が他力の念仏に変わったという自覚はあるものなのでしょうか?
またそれは一念(一瞬)でなされるものなのでしょうか?
要するに““ハッキリするのかどうか”ということなのですが、こんな質問をする事自体が、親鸞会的思考がまだまだ抜けていないということであれば、それも合わせてお教え願います。

投稿: 猿松 | 2018年8月10日 (金) 12時16分

猿松様

自力の念仏から他力の念仏というのは、法然上人も仰っていることですので、それが間違いだということにはなりません。
親鸞聖人も『浄土和讃』に

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

と仰っています。
ところが親鸞聖人は、ここ以外では自力の念仏を勧められた箇所は化土巻で20願を勧められた1箇所です。
つまり、親鸞聖人は自力念仏から他力念仏という道を否定はされていませんが、積極的に肯定されて教えられたのでもありません。

親鸞聖人の教えられ方というのは、最初から「18願他力の念仏になりなさい」というものです。

いやいや、最初から他力念仏にはなれない、と思われるかもしれませんが、それは結果的に自力念仏になってしまっているのであって、
自力念仏を志しているのではありませんので、心が違います。

まとめると、最初から他力念仏を目指すのですが結果的に自力念仏になっていることがあっても、最後は他力念仏になります。ただし、そこまで命があるという前提です。

自力念仏から他力念仏に変わるのは一念ですが、その一念が自覚できるかどうかは別問題で、凡夫の智慧では判らないというのが正しいです。しかし、自力が無くなったことは判りますので、気が付いたら他力念仏になっていた、という感じの人が大半です。
ハッキリする、の意味合いが、親鸞会的なものであるなら、ハッキリしませんが、自力がなくなったことが判るという点ではハッキリすると言えます。要するに救われたことは判るが、火に触ったよりもハッキリすることはない、ということです。

投稿: 飛雲 | 2018年8月10日 (金) 17時02分

飛雲先生

明快なお答えありがとうございました。
「親鸞聖人の教えられ方は、最初から18願他力の念仏になりなさい」というご教示は、まさに目から鱗でした。このコメントを読む直前まで「自力念仏を頑張っていれば何時かは他力念仏が称えられるようになる」と思っておりましたが、こんな考えはまさしく“弥陀の本願を計らう迂回の白路”でした。これでは“かの人物”を笑えない。不明を恥じたいものです。
さてそこで“他力念仏とは何か”ということになるのですが、今までは漠然と「如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏」等と思っておりました。正直救われてからの話とかまえておりました。
しかしこれこそが、よく例示なされる『末灯鈔』の「弥陀の本願と申すは、名号をとなえんものをば極楽へ迎えんと誓わせたまいたるを深く信じてとなうるがめでたきことにて候うなり」であり、これが他力念仏の概念と思ってよろしいのでしょうか?

投稿: 猿松 | 2018年8月11日 (土) 00時37分

そういうことです。
今回のエントリーで言うなら、

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば

ということになります。
往生成仏するたねを、阿弥陀仏がすべて用意なされているので、その通りと受け取って、疑いない念仏です。

投稿: 飛雲 | 2018年8月11日 (土) 05時45分

飛雲先生

ご教示ありがとうございました。私一人の質問に貴重な時間を割いていただき、また読者諸兄にも先生を独占してしまい申し訳ありません。まだまだ暑い日が続きますが、ご自愛ください。

投稿: 猿松 | 2018年8月11日 (土) 14時02分

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