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2018年8月11日 (土)

仏智疑惑・謗法・闡提を混ぜ合わせたものが真実信心だと教えている高森教

真実信心を知らないから18願を疑うことがどんなことかも判っていないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

疑心についてまとめられているものが『往生要集』にあります。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。

以上から判ることは、

謗法・闡提の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えもありませんし、その逆で「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」謗法・闡提がそのまま救われることは、絶対にないのです。

謗法・闡提をそのまま救ってくださるのが阿弥陀仏だ

と間抜けなことを言っている高森会長と講師部員は、信心の基本中の基本を知らないのです。

謗法・闡提の者が報土往生するには、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」ことをまず止めないことには「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを」深信できないという単純な理屈です。東に向かっている人を、西に向かわせるには、東に行くことをやめさせないと行けないです。東に向かったままで西に向かわせるなどと言っている愚かさに気が付かないのが、親鸞会思考です。

自力の信心については「このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ」とありますから、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に兆載永劫の修行によって、我らが往生成仏の因をすべて用意されたことを疑って、因果の道理を信じて何かをしなければ救われないと考えていることだと教えられています。

親鸞会会員の信心そのものですが、この信心と親鸞会会員の信心との違いは「その国に生ぜんと願ぜん」の有無です。浄土に往きたいと願わずに、絶対の幸福になりたいと願っている親鸞会会員は、化土には往けません。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。
ですので、残念なことです。

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異安心」カテゴリの記事

コメント

偽退会者のブログで、とうとう【親鸞聖人】がコメントの禁止キーワードに設定されました。
大大惨敗の醜態を晒し続けて、本物の退会者を増やしてくれ

投稿: 麻奇ノ | 2018年8月14日 (火) 19時17分

こんにちは。数年前から仏教関係のことを調べていたところ、大乗仏教の経典は釈尊が解かれたものではなく、後世の人間による創作で、そのことは現在の仏教界では定説だという情報を見つけました。だとすると、何を信じたらいいかわからず、どうすれば救われるのかわかりません。もし大乗経典が釈尊の入滅後400年ほど経過してから成立したものであり、本当に釈尊の教えだという可能性が低くても、念仏すれば極楽に行けるという信心に疑いはよぎらないのでしょうか?

投稿: 丸山紗希 | 2018年8月15日 (水) 13時03分

丸山紗希様

小乗経典も釈尊在世中に書き記されたものではありません。大乗経典よりも早い時期に書き記されたということですので、大乗経典は創作だが小乗経典は釈尊の御言葉そのままという理屈自体が正しいとも言い切れないです。
ただし、一般的な考え方からすると、小乗経典の方がより釈尊の直説に近いということになり、大乗非仏説の方が信憑性があるということになります。
大乗各宗派の考え方としては、仮に釈尊の直接の言葉が大乗経典になっていなかったとしても、釈尊の弟子、孫弟子、曾孫弟子と受け継がれて、釈尊と等しいもしくは釈尊に近いさとりまで到達された菩薩が釈尊の代わりに経典にされたとしています。

以上のことを踏まえてどう思われるかは、各自の判断に委ねられるのですが、名を残されている龍樹菩薩・天親菩薩等の菩薩方が信奉されその境地を体現されて伝えて下された大乗仏教そして阿弥陀仏の本願に対する信心に疑いは生じないのが、他力の信心だということです。

投稿: 飛雲 | 2018年8月15日 (水) 13時32分

>仏智疑惑・謗法・闡提を混ぜ合わせたもの(親鸞会でも言わん)が真実信心だと(親鸞会でも言わん)教えている高森教


>真実信心を知らないから18願を疑うことがどんなことかも判っていないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

>疑心についてまとめられているものが『往生要集』にあります。

>問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

>答ふ。
>『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、
>謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

>問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

>答ふ。
>まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、
>しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、
>「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、
>仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、
>しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。
>このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、
>経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
>{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

>(現代語訳)(異訳)

>問う。信じない者(異訳)は、どのような罪の報を得るのであるか。

>答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

>もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

>問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

>答える。もし、全く信ぜず、往生の業(異訳)を修めず、浄土を願い求めない者(異訳)は、道理として往生するはずがない。
>しかしながら、もし仏智を疑うけれども(異訳)、それでもやはり、
>かの浄土に生まれたいと願い(異訳)、往生の業(異訳)を修める者は、これもまた往生することができるのである。

>《無量寿経》に説かれているとおりである。

>もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、
>仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、
>ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、
>おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、
>これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、
>教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

>仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。

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>けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。(異訳)
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>「宮殿」とは、化土のことです。


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>以上から判ることは、

>謗法・闡提の者―地獄
>一般の者―悪道
>浄土を願う自力の者―化土往生
>深信の者―報土往生


>答える。もし、全く信ぜず、往生の業(異訳)を修めず、浄土を願い求めない者(異訳)は、道理として往生するはずがない。
>しかしながら、もし仏智を疑うけれども(異訳)、それでもやはり、
>かの浄土に生まれたいと願い(異訳)、往生の業(異訳)を修める者は、これもまた往生することができるのである。

>もし仏智を疑う(化土往生)けれどもそれでもやはりかの浄土に生まれたいと願い往生の業を修める者(報土往生)(異訳)
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>ということです。深信の者以外は(親鸞会でも言わん)、無間地獄、などという愚かな教えもありませんし、


>仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

>「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、
>謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」

>その逆(異訳)で「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」謗法・闡提がそのまま救われることは、絶対にない(異訳)のです。

>謗法・闡提をそのまま救ってくださるのが阿弥陀仏だ
>と間抜けなことを言っている高森会長と講師部員は、「信心の基本中の基本」を知らないのです。
>(唯除五逆誹謗正法の願心を知らない者の言い分)

>謗法・闡提の者が報土往生するには、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、
>謗毀する」ことをまず止めないことには「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを」深信できないという単純な理屈です。
>(唯除五逆誹謗正法の願心を知らない者の言い分)


>東に向かっている人を、西に向かわせるには、東に行くことをやめさせないと行けないです。
>東に向かったままで西に向かわせるなどと言っている愚かさに気が付かないのが、親鸞会思考です。
>(親鸞会でも言わん)


>自力の信心については「このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ」とありますから、
>阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に兆載永劫の修行によって、
>我らが往生成仏の因をすべて『用意されたことを疑って』(親鸞会でも言わん)、
>因果の道理を信じて何かをしなければ救われない(親鸞会でも言わん)と考えていることだと教えられています。

>親鸞会会員の信心そのものですが、この信心と親鸞会会員の信心との違いは「その国に生ぜんと願ぜん」の有無です。
>『浄土に往きたいと願わずに、絶対の幸福になりたい』(親鸞会でも言わん)と願っている親鸞会会員は、化土には往けません。

>「仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。」
>ですので、残念なことです。

疑情を知らない・・・残念なことです。


投稿: ゲスト | 2018年8月21日 (火) 15時33分

先のコメント同様、日本語の理解力の問題ですね。

>疑情を知らない・・・残念なことです。

では疑情の説明を親鸞聖人のお言葉でしてみましょうね。

投稿: 飛雲 | 2018年8月21日 (火) 15時50分

こんばんわ、Abcです。

>>因果の道理を信じて何かをしなければ救われない(親鸞会でも言わん)(ゲストさん)

いや、思いっきり言ってますから。
「因果の道理は仏教の根幹!」といわれていたのはどちらさんでしょうか。
とりあえず、(親鸞会でも言わん)とつけたら何とかなるだろう的な感じでつけるのはどうかと思います。

>>「仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。」
>>ですので、残念なことです。
>
>疑情を知らない・・・残念なことです。

 そうですね、ゲストさんが「疑情をしらない」ことは残念なことであります。
「疑情」とは源空聖人がねんごろに言われている事柄であり、
『正信念仏偈』には、「還来生死輪転家 決以疑情為所止」としるされており、
意味(書下し文)としまして「生死輪転の家に還来すというは、 疑情を決するを以って所止と為す」となります。「生死輪転の家(生死流転の家とも)」とは「生死の苦海」ともいわれる「迷いの世界」のことであります。阿弥陀さまは一時的に「宮殿」に勧めいれられますが、正直なところ「阿弥陀さまに任せる身」となってほしいのです。

Abc

投稿: Abc | 2018年8月23日 (木) 21時50分

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