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2018年8月

2018年8月26日 (日)

謗法・闡提は「仏土に願生する」心がないから絶対に往生できないという釈尊・善知識方を完全否定する高森顕徹会長と愉快な仲間達

激しい非難攻撃に曝されて、何の反撃もできずに殻に籠りきった高森顕徹会長の邪義は、微妙な変化はあっても、大きな変更はありません。1つの例が、十方衆生は逆謗闡提の一機だ、というもので、未だに言っています。

謗法については、前回述べましたので、今回は闡提について説明します。

親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて、

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

と教えられています。

釈尊は「衆生の根性に決定あることなし」「一切の法は定相あることなし」と断言されています。つまり私たちが固定不変な業をもっているなどという教えなどないということです。
ところが「衆生の根性に決定ある」「一切の法は定相ある」と釈尊の仰せを完全に否定しているのが高森会長です。十方衆生が五逆、謗法、闡提という「定相」があると説く高森会長と講師部員は、如来を超えた存在、絶対的な神とでも思っているのでしょう。

闡提は「下根」に当たりますが、「よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。」とは、闡提が闡提でなくなったり、闡提でない者が闡提になったりするということです。

同じことで「あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん」と説かれていて、

善根を断ず」=闡提
還りて生ず」≠闡提

ですので、十方衆生が闡提だなど言うことは、仏教にもないし、親鸞聖人の教えにもありません。闡提が闡提のままで救われることは絶対ありません。それが前回の「いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや」になります。

闡提の者は浄土を願うことがないので、往生することはあり得ないのです。

闡提の者も謗法の者も、闡提でなくなる、謗法でなくなって、「断じをはりて還りて生ず」の状態になって、「仏土に願生する」心がおきて初めて、往生できる機になる訳です。

簡単な話なのですが、「仏土に願生する」心のない人が「仏土に願生する」心の無いままで救われる理屈が通る筈がありません。

ですから善導大師は『法事讃』で

謗法・闡提、回心すればみな往く

と仰って、それを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれているのです。
回心」には自力から他力に帰すことのほかに『愚禿鈔』の

漸教回心の機は、自力なり。

のように、心を翻すという自力の意味も普通にあります。ですから、「謗法・闡提、回心すればみな往く」は、謗法・闡提の心を翻して謗法・闡提で無くなり、その上で自力から他力に帰したという「回心」です。

矛盾も無理も、強引さもない、普通の思考と普通の論理ですので、普通以上の思考力がある人には、簡単に理解できる内容です。

仏土に願生する」心のないままの高森会長と愉快な仲間達には、最初から関係ない話ですが。

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2018年8月21日 (火)

謗法と疑情、地獄と化土の違いも全く理解できない無知な高森顕徹会長と愉快な仲間達

前回のエントリーで疑心について述べましたが、親鸞会会員は謗法と疑情との区別もつかないほどの無知です。高森顕徹会長が無知ですから、当然なことです。

『往生要集』でも明らかですが、親鸞聖人のお言葉で説明しておきます。

まず、謗法の定義は『浄土論註』を引かれて『教行信証』信巻に

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これを読んでも、

全人類は謗法の者だ

というようなら、義務教育からやり直してください。
この謗法の者の死後はどうなるかについては、この前に

問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

謗法の者は「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。」と、絶対に往生できないと教えられています。その理由は、「この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。」です。

謗法の者は、浄土を願っていないから往生できる道理がないという、単純明快な理屈です。

では浄土を願っている謗法でない人はどうなるのかについて、親鸞聖人は『浄土和讃』でこう仰ってます。

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

他力の信心は獲ていないが、浄土を願っている人は化土往生になる、ということです。
前回の『往生要集』と同じことですが、親鸞会の会員は、これが全く信じられないと思います。高森会長から、嘘八百を教え込まれていてそれを信じているからです。

同じく『浄土和讃』には

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とも仰っています。他にも同じ内容のことを、繰り返し繰り返し親鸞聖人は仰っています。

つまり、疑情とは、「安楽浄土をねがひつつ」その上で、「仏智不思議をうたがひて」「誓願不思議をうたがひて」ということです。

謗法と疑情とは、まったく違うのですが、この基本的な仏語さえも知らないで偉そうな顔をしている厚顔無恥が、高森会長と愉快な仲間達です。

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2018年8月11日 (土)

仏智疑惑・謗法・闡提を混ぜ合わせたものが真実信心だと教えている高森教

真実信心を知らないから18願を疑うことがどんなことかも判っていないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

疑心についてまとめられているものが『往生要集』にあります。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。

以上から判ることは、

謗法・闡提の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えもありませんし、その逆で「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」謗法・闡提がそのまま救われることは、絶対にないのです。

謗法・闡提をそのまま救ってくださるのが阿弥陀仏だ

と間抜けなことを言っている高森会長と講師部員は、信心の基本中の基本を知らないのです。

謗法・闡提の者が報土往生するには、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」ことをまず止めないことには「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを」深信できないという単純な理屈です。東に向かっている人を、西に向かわせるには、東に行くことをやめさせないと行けないです。東に向かったままで西に向かわせるなどと言っている愚かさに気が付かないのが、親鸞会思考です。

自力の信心については「このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ」とありますから、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に兆載永劫の修行によって、我らが往生成仏の因をすべて用意されたことを疑って、因果の道理を信じて何かをしなければ救われないと考えていることだと教えられています。

親鸞会会員の信心そのものですが、この信心と親鸞会会員の信心との違いは「その国に生ぜんと願ぜん」の有無です。浄土に往きたいと願わずに、絶対の幸福になりたいと願っている親鸞会会員は、化土には往けません。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。
ですので、残念なことです。

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2018年8月 5日 (日)

創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

本日は追悼法要という名目で、大大的に宣伝をし、高森顕徹会長の動画を一般に公開してまで必死の人集めの結果、人数だけは昨年の報恩講並であったようです。
それだけを見ると親鸞会は息を吹き返したのかと思われるかもしれませんが、かなり無理していることは、様々なところで表面に現われています。その1つが、御供物でしょう。一般の行事と変わりません。最も気を遣い、お金を使ってきたところへ回すお金が不足しているのです。かなり、切羽詰まっているところまで追い込まれているようです。

次回、御供物が増えたら、皆さんで笑ってあげてください。

さて、本日もはっきりしない話をだらだらしていましたが、絶対の幸福という創価学会の真似が主で、その説明に仏凡一体という言葉を使っていました。

真実信心を知らない高森会長ではこの程度の説明で誤魔化すしかないのでしょうが、真実信心と仏凡一体は、二河白道の譬えで説明できます。

先月のエントリー

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

でも紹介しました存覚上人の『浄土真要鈔』がそのことについて詳しいです。
上記のエントリーでは

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

で、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきるのだと説明しました。
そしてこの後に存覚上人はこう続けられています。

このゆゑに『経』には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

難しい語はありませんので、概ねお判りになられると思いますが、最後の

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

で仏凡一体について説明されています。
法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」によって「未来の衆生の浄土に往生すべきたね」を成就された、そのことを聞いて、それをそのまま聞いたことを「仏心と凡心とまつたくひとつになる」と仰っています。
もっと簡潔に言うなら、法蔵菩薩が我らが往生する因を法蔵菩薩が御修行によって用意されて、その通りと聞いたことを真実信心と言い、仏凡一体と言われるのです。

したがいまして、衆生の側で、何かをしなければならないことはないのです。
善をしなかれば、三願転入しなければ、宿善を厚くしなければ、
というのは間違いであるどころか、その通りと聞く妨げになるのです。
何かをする必要があると考えるのは、法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」ではまだ不足だという考えであり、「そのことわりをききて、一念解了の心」が起きないからです。

そう聞くのは一念でも、それまでは何かをしなければ…

が間違いです。法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」にケチをつけている心です。

二河白道の譬えでいうなら、阿弥陀仏の「浄土までいく白道に乗りなさい」との喚び声に、「はい」と白道に乗るだけです。白道に乗るために何かが必要だとはどこにも教えられていないのです。

そして白道の乗ったことを仏凡一体というのですが、白道に乗ったら、何かが変わったかと言えば、何も変わっていません。
白道の幅も長さも、水の河も火の河も、西の岸の様子も見え方も、東の岸の群賊悪獣悪知識も、何も変化していません。

ですから、真実信心を獲ても、表面上は何も変わりませんし、ましてや絶対の幸福なる空想の境地に出ることも絶対にありません。

信前信後の水際も変化も、仏凡一体も、全て二河白道の譬えで顕わされているのです。

この程度の簡単な説明もできない高森会長の話を聞いて、得られる物は、貧と恥のみです。

人集めには、創価学会の真似が手っ取り早いと考えている高森会長の浅はかさに、会員も早く気付くベきです。

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2018年8月 1日 (水)

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員のために

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員に少し教えてあげます。

『観無量寿経』には、機に応じた行が勧められて、その行によって往生できると説かれています。具体的には

定善ができる機には、定善をしての往生
散善の行福ができる機には、行福をしての往生
散善の戒福ができる機には、戒福をしての往生
散善の世福ができる機には、世福をしての往生
定善も散善もできない機には、念仏での往生

が勧められています。
最後の
定善も散善もできない機とは、悪人のことで善導大師が『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰った下品上生から下品下生までの悪人です。
ちなみに「仏法の善根」が定善・行福・戒福で、「世俗の善根」が世福です。
定善はおろか散善も全くしてこなかったし今後もしない人のことを悪人と定義されているのです。

ですから大雑把に言うと、善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められたのが『観無量寿経』です。悪人に善を勧められたということは、どこをどう読んでも『観無量寿経』にはないのです。
浄土門においても、聖道門でさえも、そんなヘンテコな解釈をすることはありえません。

ということは、『観無量寿経』の方便の教え、つまり顕説は

善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められた

にしかなりませんので、方便から真実へ、あるいは三願転入という道程を主張するなら

善人:19願の善→20願の念仏→18願の念仏
悪人:19願の念仏→20願の念仏→18願の念仏

というのが隠顕釈となります。

なお、前回紹介した

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

は、下品下生の極重の悪人に対して、念仏のみを勧められたことを示す善知識方の直接の文証ですが、一方で親鸞聖人は善人に対して善を勧められているのかと言えば、そうではありません。
『教行信証』化土巻に

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰り、「定散の諸機」という善人も「極重悪人」同様に「ただ弥陀を称せよと勧励」されたのが『観無量寿経』の真意だと解釈されたのです。
『観無量寿経』の表面では、善人に対して善が勧められていますが、底では善人に対しても念仏だけが勧められている、と解釈されたことを隠彰と言うのです。
当然ですが、「ただ弥陀を称せよ」は18願です。
その証拠にこの直前に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。

と仰っているからです。

善人に対しても悪人に対しても釈尊が勧められていることは18願の念仏のみで、善人には念仏に導く方便として定散二善が形式上勧められている、これが親鸞聖人の教えです。

間違えようのない明快な理論ですが、それをねじ繰り回して、訳が判らなくなって、何か深い御心があるのだろうと錯覚させているのが高森理論で、それを必死に擁護するのがプライドだけは高いが知能は低い講師部員なのです。

反論があるなら、いつでも法論に応じますので、コメントをくださいね。

もしコメントを拒否されたと言うなら、そのコメントを自分のブログに出せばよいです。そうすれば、誤魔化すことができませんので、安心してコメントしてください。

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