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2018年7月19日 (木)

聖道門の真似をしながら、「これこそが親鸞聖人の教え」と間抜けなことを平気で言い続ける高森顕徹会長と愉快な仲間達

浄土門は言うまでもなく聖道門にしても、阿弥陀仏の18願の救いを象徴しているのが、『観無量寿経』にある下品下生の往生だということを認めているのです。この当たり前の事実を知らないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。下品下生については

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。」

(現代語訳)

 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
 その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。」

とあります。
簡単に言うと、

十悪に加えて五逆罪を造ってきて、平生に仏法を聞かず善をしてきたことのない極重の悪人が、臨終になって初めて仏法を聞こうと思って、善知識から勧められたことは、「兎に角、念仏を称えよ」ということで、その通りに10回の念仏を称えて極楽に往生した。

こういうことです。
更には、この後に『観無量寿経』の結論として

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。

 (現代語訳)

釈尊は阿難に仰せになった。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。

とあることに注目されたのが善導大師で、念仏を称えることによって極楽に往生できるのだと強調された訳です。

源信僧都は『往生要集』で下品下生を

四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

と仰って、これを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれて、『正信偈』にも

極重の悪人はただ仏を称すべし。

とまで教えられている通りです。

18願には善の勧めはなく、念仏だけが勧められていてその念仏で極楽に往生できる、これが『観無量寿経』の仏意だと明らかになされたのが、善導大師以降の善知識方です。

この基礎の基礎も知らないで、聖道門が浄土門を非難している「念仏称えて極楽に往生できる教えは方便だ」という主張だけを真似して、

念仏称えて極楽に往生できる教えは間違いだ、と教えられたのが親鸞聖人だ

と間抜けなことを言っている高森会長と愉快な仲間達に、真宗界が白眼視しているのも当然の当然です。

愚か者たちのために何度でも繰り返し言っておきますが、親鸞聖人が仰る真実の信心(=白道)とは、

念仏称えて極楽に往生できると深く信じた心

これで報土往生になるのです。ちなみに

念仏称えて極楽に往生できると浅く信じた心

は化土往生です。

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コメント

飛雲様

いつもありがとうございます。
30年前に親鸞会に迷い、2年だけ会の活動をしておりましたが、その後、不審を抱き会を離れて
30年してようやく仏教を聞き直している者です。
今回のお話も有り難く拝読させていただきましたが、どうしてもわからない所があります。
「具足」という意味です。

「かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。」
という観経のご文で
「こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、」
と訳されている部分ですがこの「十念を具足して」がなぜ「十回口に称える」になるのかが
わかりません。
「具足」の言葉は「煩悩具足の凡夫」とありますように「身に備わる」という意味だと思います。
具足をその意で訳すと
「こうしてその人が、心から声を続けて十念を身に備えて南無阿弥陀仏と口に称えると、」
なるかと思います。じゃあ「十念を身に備えて」とはなんだというとわかりません。
推論になりますが大経の「乃至十念の心」を備えてということかなと思います。

善導大師も法然上人も親鸞上人も口々に「十回口に称える」と仰っておりますが、どうしても
具足との結びつきがわからず腑に落ちない気持ちです。

今回の飛雲様の書き込みをこの「具足」の部分にとらわれてしまい「?」で終わってしまいました。
ご教示いただければ幸いです。

投稿: 園児 | 2018年7月19日 (木) 09時10分

園児様

再度、仏法を聞かれることは尊いことだと思います。
ご質問の件ですが、
まず、「十念」は10回という意味であることはお判りでしょうか?
「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」は
「十回を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」となりまして、
10回の念仏を具足して、10回の念仏を身に備えて、です。
つまり、
10回の念仏をして
です。
なぜ「十念」が10回という意味になるのかということになると、話はまた違ってきますが、
「十念」も「一念」も、10回、1回の念仏というのが、浄土門における常識になっています。
ややこしくなりますが、親鸞聖人は「一念」を信心がおこった時、あるいは一心という別の解釈をされたので、
浄土真宗では、「一念」に限っては1回とは違う意味で使われることが多いです。

投稿: 飛雲 | 2018年7月19日 (木) 09時42分

飛雲様

早々のお返事ありがとうございました。
十念=10回の念仏
理解いたしました。実は大経の本願の「乃至十念」、成就文の「乃至一念」に関しましても
「わかったような、わからないような」
という状態でしたが、こちらも含めてすっきりとしました。

一度、親鸞会に染まると、経典もお聖教も間違った解釈や「とんでも珍説」が入り込んでしまって
おります。幸いにも「高森三願転入説」はまだ話が無かった時代に辞めたのでここに染まっていない
ことは良かったです。

今はこのサイトや脱会された元会員のサイトを拝見して一つ一つ間違った考えを正す作業を
しております。(日に十回は更新の有無を確認しております!)
今後もよろしくお願いします。

投稿: 園児 | 2018年7月19日 (木) 10時28分

こんばんわ、Abcです。

今回もありがたく読ませていただきました。
私が「改めて仏法を修めようという契機」は、「高森さんが寝ぼけたことをいい、殊に35周年の一件」からであります。

さて、すこし話がそれてしまいましたが、


>源信僧都は『往生要集』で下品下生を
四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」と仰って、

これを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれて、『正信偈』にも
極重の悪人はただ仏を称すべし。
とまで教えられている通りです。(飛雲さん)

ご解説ありがとうございます、原文(偈文)では、「極重悪人唯称仏」であります。

 同じく『正信偈』内で話を広げますと、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とございます。
こちらは飛雲さんのエントリー内では、
>仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。(『観経』より)

でありますし、またこの「帰命無量寿如来 南無不可思議光」は『教行証』の内
 「光明無量の願 寿命無量の願   顕浄土真仏土文類 五」
とありますように『顕浄土真仏土文類』の標挙(この書物での目的)であります。

また、高森さんがキライとしている「木像(立像・座像)」では右に「帰命無量寿如来」が示現された観音菩薩が、左に「南無不可思議光」が示現された勢至菩薩がいらっしゃいます。また、中央には阿弥陀さまがいまして、この「量りなきいのち」と「量りなき智慧」をもたれているために「無量寿」とも「不可思議光(智慧光)」とも申されるのであります。
 代表的な座像といたしまして京都 三千院にあります「阿弥陀坐像」がございます。

(この阿弥陀さま 観音さま 勢至さま を合わせて「一光三尊阿弥陀如来」ともいわれます。)

 さいごにですが、このように『正信偈』を開きましても「他力回向のすばらしさ」を味わうことが出来るのです。「絵像や木像は会長から見るなといわれたから・・・」とはねつける前に、いまいちど立ち返ってはいかがでしょうか。

なもあみだ なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年7月19日 (木) 23時42分

飛雲様

某所より飛雲様のことを聞いて、訪問した次第です。
論理的かつち密な内容に感服いたしております。
某所の管理人はストローマン論法で飛雲様のことを罵っておりましたので、飛雲様への妬みが私をここへ導いてくれたのだとその管理人には感謝しております。
その管理人は、論理破綻人格破綻の自称元親鸞会会員です。

キ印の批判に全く動じない飛雲様の御教導を仰いでゆきますので、宜しくお願いいたします。

投稿: 本派門徒 | 2018年7月20日 (金) 14時34分

Abc様

いつもありがとうございます。
親鸞会は教えも本尊も何もかもおかしい団体です。

本派門徒様

偽退会者には私も感謝しないといけないですね。
偽退会者のお陰で、アクセスが増え、親鸞会が邪義集団だということを認知する人が増えるのですから。
かの偽退会者とは、過去に何十回と法論をしましたが、全く手も足も出なかったです、偽退会者は。
嘘、誤魔化し、レッテル貼り、ストローマン論法だけは上得意でしたが、肝心の教義は全く使い物にならず、
高森会長より酷いです。
手も足もでなかった過去の経験から、今では陰でしか私を非難できないので、憐みの目で見守って、いや見下しています。

投稿: 飛雲 | 2018年7月20日 (金) 20時34分

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