二河白道の譬えを曲げに曲げ続けた結果、簡単な話が判らなくなった高森顕徹会長と愉快な講師部員
自称退会者を論破さんからコメントを頂きました。
コメントを載せることができなくなった時点で、完全敗北宣言と同じです。過去同じことを何十回も繰り返してきたのに、それらの教訓が何も活かされていない全く学習能力のない講師部員だとよく判ります。
さて、本日の高森顕徹会長の話は、無碍の一道についてでした。
「碍」は煩悩のことで、その煩悩が無くなるのではなく障りとならなくなる世界。
と説明していました。
この後「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して補足していました。
「無碍」の定義からするとこの説明は間違っているのですが、意図することは間違いではありません。
ただし、これを言いたいのであれば、二河白道の譬えを使えば良いのです。
白道が、信後の他力信心を譬えられていることは、これまでくどいほど述べてきた通りですが、それが理解できている前提で以下話をします。
『教行信証』信巻に
一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
とありますが、これは白道に乗る前の描写です。しかし、白道に乗った後も、二河が変化したとはありませんので、この通りだということになります。
それが『一念多念証文』の
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
になります。
つまり、白道である他力の信心は、「その水の波浪交はり過ぎて道を湿す」「その火焔また来りて道を焼く」という状態であるのに、途切れることもなく障りとならないのだと、善導大師、親鸞聖人が教えられているということです。
「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を二河白道の譬えで説明するなら、
たとえれば白道が水火の波に覆はれていても、水火で白道が途切れることなく細くても確実に西の岸に続いているようなものだ。
ということです。白道が変化するわけでも西の岸が近くなるわけでもありません。
水と火の波が全く障りとならない白道、と説明すれば合格ですが、いつまで経っても0点が続く高森会長と愉快な講師部員でした。
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