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2018年7月

2018年7月14日 (土)

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

白道」が自力か他力かなど、議論する余地がないのですが、小学生でも理解できる単純明快な理屈を理解できないお粗末思考力の持ち主が、親鸞会の会員です。

これまで善導大師、親鸞聖人のお言葉をたくさん紹介しましたので、他の根拠を出しておきます。
ただし高森顕徹会長と愉快な仲間達の思考力では、本日のエントリーは理解できないと思いますので、思考力が並以下の人は読まない方が良いかもしれません。

蓮如上人が、釈迦の化身、勢至菩薩の化身とまで絶賛された存覚上人の『浄土真要鈔』に白道についてこうあります。

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

判り易い言葉ですので、意味は概ねお判りかと思いますが、真実の他力の信心を、二河白道の譬喩の「白道」で存覚上人は説明されている箇所です。

この時点ですでに、「白道」は他力です。

一応説明すると、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきると説明されています。駄目押しで、「清浄の心」とは、「凡夫我執の心」ではない、最初の「凡夫自力の迷心」でもないとあります。
並の思考力が有るなら判ると思いますが、

行者の信心」=「清浄の心」≠「凡夫我執の心」「凡夫自力の迷心

です。

行者が信心を発す前は「如来の願力」の意味しかない「白道」ですが、阿弥陀仏の喚び声に随って行者が「白道」に乗った時に、「清浄の心」である「行者の信心」が発るのです。

以上のように存覚上人の懇切丁寧な説明で、「白道」に自力が混じることなどありえないのです。

次に、親鸞聖人が関東の同行に読むように勧められた『後世物語聞書』には、

善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。

とあります。釈尊の教えに随って阿弥陀仏の願力をたのんで信心を獲たなら、欲と怒りに信心は影響されないことを書かれています。

本願の白道」ですから、「白道」は18願他力のことで、その後では「他力の功徳」と言い換えられています。

説明するのがアホらしくなるのですが、

白道」を自力とする解釈など、親鸞聖人の教えにおいてはあり得ないのです。

本日の内容は、思考力のある方向けの内容ですので、高森会長と愉快な仲間達は到底理解できないでしょう。そして、

善導大師は「白道」を自力で教えられた
親鸞聖人は「白道」を自力で教えられた
真宗の学者は「白道」は自力だと言っている

と言い続けて恥を何百何千と重ねれば良いでしょう。麻原教祖と麻原信者以下の思考力ではこの程度でしょう。

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2018年7月 7日 (土)

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者

二河白道の譬えの中にある阿弥陀仏の喚び声が18願の言い換えであることは、あの高森顕徹会長でさえ認めていることです。阿弥陀仏の喚び声である18願を聞いてそれに順ったことが、白道に乗ることですから、白道は信後の他力以外には考えられないのです。

小学生でも判る単純明快な理屈です。

その阿弥陀仏の喚び声の内容について、少し説明しておきます。

阿弥陀仏の喚び声についての解説は、『浄土文類聚鈔』と『愚禿鈔』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』では

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』をひらくと、 次のようにいわれている 。
「西の岸に人がいて、 〈そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
「〈水の河と火の河の間にある白い道〉というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 (後略)

とあります。

一心」=深心真実の信心
正念」=称名念仏

真実の信心(他力の信心)で念仏して(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

です。
凡夫自力の心にあらず」の真実の信心(他力の信心)になって白道を歩むのですから、信後の他力の道が白道です。

何の矛盾もないです。

次に『愚禿鈔』

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

ここで

一心」=真実の信心
正念」=選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心

ということですから、『浄土文類聚鈔』とほとんど同じ内容です。
『浄土文類聚鈔』に無かった解説として

」=回に対し迂に対する、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲して
」=去に対し往に対する、報土に還来せしめんと欲して

とあります。

したがいまして、諸善、19願の寄り道をするな、躊躇することなく直ちに18願の他力に帰しなさい、ということですから、そのお言葉に順って乗った白道に方便仮門、自力の意味は皆無になります。

そして「」が18願文の「若不生者」の「」に当たりますので、
」=報土に還来せしめん浄土に生まれさせる
となり、信楽に生まれさせるという意味でないことも明白になります。

ついでに白道を進んでいる旅人に対して群賊等が戻ってこいと叫んでいてもそれに惑わされないことを二河白道の譬えでは

一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

とあり、この「道を念じて

念道」=他力白道を念ぜよ

と親鸞聖人は仰っています。自力の意味はここでも完全否定されています。

親鸞聖人が白道には自力の心ではない真実の信心で乗りなさい、19願の寄り道をするなと解説もされ、直接「他力白道」とまで明言されているので、白道=他力をどうしたら間違えるのか不思議不思議です。
あの高森会長でさえ、親鸞聖人は白道を他力と教えられていると認めざるをえなくなったのになお、未だに白道が自力だと言っている会員がいることには、憐みの気持ちしか起きてきません。

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者と同じレベルかと思っていましたが、アレフの信者よりも幼稚な知能なのでしょう。

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2018年7月 4日 (水)

二種深信も知らず創価学会の信心を真実信心だと本気で思っている高森顕徹会長と愉快な仲間達

先日、超一流大学に入学して世間的にもエリートコースを歩んできた還暦の現会員から、高森顕徹会長の話をしている動画が送られてきました。あの与太話動画を私に送る神経が理解できず、その意図を謀りかねていましたが、とりあえず間違いを簡潔に指摘して返信したらそれっきりでした。

学歴や仕事ができることと知能とは比例しないのだとよく判る例です。

さて、善導大師は「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の悪人が、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて念仏を勧められて念仏して往生するのだと教えられていることを前回述べました。
その善導大師の信心は如何なるものであったかは、いわゆる二種深信で顕わされていますが、善導大師が仰った二種深信には2通りの表現がありまして、高森会長と愉快な仲間達の知らない方の二種深信を見てみます。

『往生礼讃』には、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

とあります。

機の深信=「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し
法の深信=「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知し

です。機の深信と法の深信を比べると判りますが、諸善と念仏が対比されています。
機の深信を簡潔に言うと、

善が少ししかできないので出離できないと信知する

法の深信を簡潔に言うと

1回の念仏でも称えたら必ず往生できると信知する

二種深信をまとめて言うと、

善では救われない、念仏一行で必ず救われると信知する

です。
善導大師は、念仏が救いの絶対条件だと教えられていることが判ります。

コメント欄で、救われるのに念仏が要らない、とか言っている人がいますが、どこの宗教を元にコメントしているのかという話です。
真実信心の定義が、「念仏が要らない」とは無知の極みです。

親鸞聖人は『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

と判りやすく教えられています。

18願とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり

ですし、
真実の信心とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて

です。
念仏不要の信心という説明は、まさに創価学会の信心のことでしょう。

浄土真宗でも浄土門でもないのが、高森親鸞会であることは、明々白々の事実です。

なお、善導大師の機の深信で「善根薄少にして」とありますので、「善根あることなし」の悪人とは異なっていることも知っておきましょう。当然な話で、聖道門の修行をされて、定善までできた善導大師が「善根あることなし」だったら、理屈が無茶苦茶です。「善根あることなし」だと断言する一方で雑毒の善はできると言っている高森会長の思考に納得できる人は、その程度の知能だということです。東大や京大に入ろうが、知能は極めて低いのです。

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