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2018年7月

2018年7月31日 (火)

屁理屈も矛盾に満ち溢れていることに気付くこともない高森顕徹会長と愉快な講師部員

かの人物が全く進歩なく学習能力のないことは、ここを見ていただければよいです。論点を変え続け、また元に戻っていることが判ります。

退会偽装者のお粗末さが、親鸞会の凋落を象徴している

さて先日の高森顕徹会長の話で、念仏に3つあると言っていました。教学聖典にもありますが、19願の念仏と20願の念仏と18願の念仏ということです。

かの人物も、『観無量寿経』の下品下生にあるのは方便の19願の念仏だと言っています。
一方で方便から真実へが『観無量寿経』の内容に明らかと言っています。

ここが愚かなところですが、それなら自力の念仏から他力の念仏への道を教えられたのが『観無量寿経』であり、三願転入だということになります。方便の諸善を勧めて真実に入ると主張しているなら、方便の念仏から他力に入るも『観無量寿経』の真意になります。

察しの悪い人のためにもう一度

下品下生の念仏が方便の19願意で、方便から真実へ明らかにされたのが『観無量寿経』なら、方便の自力の念仏から真実の他力の念仏に入ると教えられたのが『観無量寿経』

これが結論にしかなりません。

これまで何十回と紹介してきた『往生要集』のお言葉で『教行信証』行巻にも引かれている

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

ですが意味は

『観無量寿経』には、極重の悪人(下品下生)には諸善ではなくただ念仏だけを勧められて極楽に往生できると教えられている

ということです。それに対して

飛雲は方便の自力の念仏から他力入ると言っている

と非難してきたのがかの人物です。

間違いだと非難した内容を今度は自分が言っているのですから、お粗末とかいうより、よくできたギャグです。

重要なところですので、何度でも説明しておきます。

『往生要集』のこのお言葉は、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と定散二善は不要と、直接的な表現で仰っています。

この「ただ弥陀を称して」が自力であろうと他力であろうと、念仏しか勧められていないという事実は何も変わりません。

かの人物のように自力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便の諸善はなく方便の自力の念仏を称えることで極楽に往生できる

となりますし、他力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便は要らない、最初から真実の他力の念仏で極楽に往生できる

となります。

いずれにしても、極重の悪人には諸善など要らないのです。

どんなに屁理屈を考えようが矛盾に満ち溢れているのが親鸞会です。

異論があるなら、いつでもコメントください。根拠を元にした法論なら、拒否はしません。誰かのような卑怯なことはしませんので安心してコメントをください。

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2018年7月29日 (日)

二河白道の譬えを曲げに曲げ続けた結果、簡単な話が判らなくなった高森顕徹会長と愉快な講師部員

自称退会者を論破さんからコメントを頂きました。

コメントを載せることができなくなった時点で、完全敗北宣言と同じです。過去同じことを何十回も繰り返してきたのに、それらの教訓が何も活かされていない全く学習能力のない講師部員だとよく判ります。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、無碍の一道についてでした。

「碍」は煩悩のことで、その煩悩が無くなるのではなく障りとならなくなる世界。

と説明していました。
この後「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して補足していました。

無碍」の定義からするとこの説明は間違っているのですが、意図することは間違いではありません。

ただし、これを言いたいのであれば、二河白道の譬えを使えば良いのです。

白道が、信後の他力信心を譬えられていることは、これまでくどいほど述べてきた通りですが、それが理解できている前提で以下話をします。

『教行信証』信巻に

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

とありますが、これは白道に乗る前の描写です。しかし、白道に乗った後も、二河が変化したとはありませんので、この通りだということになります。
それが『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

になります。
つまり、白道である他力の信心は、「その水の波浪交はり過ぎて道を湿す」「その火焔また来りて道を焼く」という状態であるのに、途切れることもなく障りとならないのだと、善導大師、親鸞聖人が教えられているということです。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を二河白道の譬えで説明するなら、

たとえれば白道が水火の波に覆はれていても、水火で白道が途切れることなく細くても確実に西の岸に続いているようなものだ。

ということです。白道が変化するわけでも西の岸が近くなるわけでもありません。

水と火の波が全く障りとならない白道、と説明すれば合格ですが、いつまで経っても0点が続く高森会長と愉快な講師部員でした。

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2018年7月22日 (日)

よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の講義では、二河白道の譬えについての話がありました。というと、詳しく話があったのかと思われるかもしれませんが、かなり省略した話で結論として、

二河は煩悩を表わし、その間の細い白道が聞法心だ。
聞く一本道だ。

というものでした。

間違いを指摘されていることを誤魔化しながら、過去に高森会長が話をしてきたこととの整合性をはかるには、極力話を削ることだと判断したのでしょう。

もちろん真宗において、白道を自力の聞法心とすることなどあり得ません。

ただ概ね想定通りの展開で、高森会長が退会者からの指摘に怯えきっていることが良く判ります。

ところで今回も韋提希が「実凡の人」だと善導大師お一人が明らかにされたことを、くどくどと説明していました。

どうせ知らないでしょうから、親鸞聖人が韋提希のことをどう仰っているかについて、教えて差し上げます。

『教行信証』化土巻で、前回の隠顕釈について仰っている中で、『観無量寿経』の御文を13文挙げられて以下のように解釈しておられます。

ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。

19願の内容と18願の内容が『観無量寿経』の中で混在していることを親鸞聖人が示された箇所ですが、この中の

「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。

が韋提希のところです。
釈尊が韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」と仰った真意は、18願は、悪人往生だということを示されたものだと親鸞聖人は、解釈なされたということです。
もちろん定散二善の19願は善人往生ですから、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」の文を以って、19願の教えが大半の中で、18願の教えを釈尊が顕かになされたと親鸞聖人は教えられているのです。

他に明確なところでは

「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。

などは、『観無量寿経』の中に18願の教えが顕わされていることを親鸞聖人が明示されている箇所です。

考え違いをしているかわいそうな人がいますが、『観無量寿経』の表面部分に18願の教えが少しではあってもあることを親鸞聖人が明示されることで、表面上は少ない18願の教えが、釈尊の本意、真意であると解釈なされたのが、隠顕釈です。

もう一度いうと、『観無量寿経』の表面に18願の教えは少ないですがあるのです。『観無量寿経』の表面上が全て19願の教えだったら、18願が隠されているというより、無い18願をでっち上げたことになります。そんな強引な解釈をされたのではないのですが、それが判らずに『観無量寿経』には18願はないと珍釈を書き連ねている講師が親鸞会に存在していることをみると、親鸞会ももう終わりだと思われます。
話を省略して誤魔化そうとしている高森会長の方が、まだましです。

トップがトップですから、その下はなお酷くなるのも当然ではありますが。

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2018年7月21日 (土)

隠顕釈を知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達のための解説

『興福寺奏状』第七の「念仏を誤る失」にはこのようにあります。

もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

善導大師は『観無量寿経疏』を著わされ、また『観念法門』を著わされていますが、元の『観無量寿経』と共に題名に「観」の字があるので、「観法」という諸善が『観無量寿経』と善導大師の教えられたことの中心であって、いわゆる観経付属の文にある念仏は、下輩である悪人を仏法に導くための単なる方便ではないか。

ということを言って法然上人を糾弾したのが聖道門の学僧でした。これを読まれると判りますが、
念仏称えて往生するというのは『観無量寿経』の方便の教えだ
と親鸞会の愉快な仲間が言っていることと、殆ど同じです。
聖道門の理解で『観無量寿経』を説明しているお粗末さに、笑いを堪えられないのですが、親切心で親鸞聖人における『観無量寿経』の解釈の基本を教えてさしあげます。

『観無量寿経』には、『興福寺奏状』でもある通り、「観法」という善による往生が説かれている箇所と、念仏による往生が説かれている箇所があります。もっと簡単に言うと、往生の道は諸善によるものと念仏によるもの2通りがあることを教えられているのが『観無量寿経』です。
ただし、『観無量寿経』の文字の割合からすれば、圧倒的に諸善による往生が多いし、経典の題名に「観」の字が付けられている程ですので、念仏による往生はオマケ程度と考えたのが聖道門の学僧です。

それに対して反論をされた親鸞聖人の解釈が有名な隠顕釈です。
結論を言うと、『観無量寿経』の表面に顕れているのは諸善による往生ですが、陰に隠れているように見える念仏による往生が釈尊の本意であるということです。間違えてはならないのが、念仏による往生が『観無量寿経』に説かれていないのではなく、オマケ程度の扱いでしか説かれていないように思われる念仏による往生が『観無量寿経』の本意であり、表面上の大勢を占める諸善は、聖道門の行者を浄土門に導く方便であり、最終的には念仏による往生が勧められている、というのが、隠顕釈です。

聖道門が言っているような「念仏は悪人を導く方便」を完全否定されて、「諸善は聖道門らの善人を導く方便」とされたのが親鸞聖人です。
ここでも間違えてはいけませんが、「諸善は善人を導く方便」であって「諸善は悪人を導く方便」ではありません。

このことはmixiでの三願転入の法論で、完膚なきまでに高森顕徹会長が叩きのめされた内容でした。

『教行信証』化土巻の最初にある

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

から始まった法論ですが、その意味を顕わしている重要なお言葉が同じく化土巻にある

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と、七深信の第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。
これによって、
半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
そんな聖道門を脱落した者のために『観無量寿経』が説かれ19願が建てられた。
『観無量寿経』の中心と思われた「定散諸善」「二善・三福」「三福・九品・定散二善」は、「欣慕浄土の善根」という方便、浄土を願っていない人に浄土を願わせる方便だということが明確になったのです。

まとめると、
浄土を願っていない「半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」という聖道門の脱落者に浄土を願わせる方便が「定散諸善」であり、「半満・権実の法門に入る」ことのない悪人には関係のない方便が「定散諸善」だと親鸞聖人が教えられたのだ、
がmixiでの法論の結論で、高森会長以下親鸞会の講師面々が逃走し、法論の証拠隠滅まで謀って終わったのです。

念のため言っておきますと、聖道門では浄土に往生することは考えていないので、浄土往生を求めている浄土門とは完全に分けられているのが親鸞聖人です。浄土を願っていない浄土門の人などという定義はありません。親鸞会は、絶対の幸福を願っていて浄土を願っていないので、浄土門とは言えないですが、かといって聖道門のようにさとりを求めてもいないので、親鸞会の会員に対して「欣慕浄土の善根」という方便は、無関係になります。

悔しい気持ちは判りますが、聖道門が法然上人・親鸞聖人を弾圧した時と同じ主張をしていて、「これこそが親鸞聖人の本当の教えだ」とか未だに恥ずかしくもなく言える神経の持ち主に、益々憐みを感じます。

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2018年7月20日 (金)

『観無量寿経』下品下生の往生を18願のことだと仰った親鸞聖人を絶対に認めない高森顕徹会長と愉快な仲間達

偽退会者が私を必死になって攻撃しているそうですが、そのお陰で、このブログに辿り着く方もいらっしゃいますので、大いに非難攻撃してほしいものです。ただし、かの人物は過去に徹底的に叩きのめされて暫く大人しくせざるを得なかったため、陰でこそこそとしか非難攻撃できないので、私は憐みの心で見ててあげます。

さて、『観無量寿経』の下品下生について、親鸞聖人は18願を顕わされたものだと仰ったお言葉が『唯信鈔文意』にあります。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』 に 「汝若不能念 (なんぢもし念ずるあたはずは)」 と説かれているのは、 五逆・十悪の罪を犯した人や、 私利私欲のために教えを説いたものが、 病の苦しみに阻まれて、 心に阿弥陀仏を念じることができなければ、 ただ口に 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。 続いて 「応称無量寿仏 (まさに無量寿仏を称すべし)」 と説かれているのは、 この意味である。 「応称」 は、 称えよということである。
『観無量寿経』 に 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪 (十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。 仏名を証するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」 と説かれているのは、 五逆の罪を犯した人はその身に八十億*劫の十倍の罪をもつことになるので、 十回 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、 五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、 このようにいわれているのである。 「十念」 というのは、 ただ口に念仏を十回称えよというのである。 このようなわけで、 選択本願に 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (もしわれ成仏せんに、 十方の衆生、 わが名号を称せん、 下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじ)」 と誓われていると 『往生礼讃』にいわれているのは、 阿弥陀仏の本願は、 念仏するのがたとえ十回ほどであっても、 みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、 「十声」 といわれているのである。 「念」 と 「声」 とは同じ意味であると心得なさいというのである。 「念」 を離れた 「声」 はなく、 「声」 を離れた 「念」 はないということである。

これは、『唯信鈔』で引用された『観無量寿経』下品下生のご文を親鸞聖人が解説なされたところです。

「汝若不能念」「応称無量寿仏」「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」

これが『観無量寿経』の御文です。

これに対して親鸞聖人は

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさん

と本願=18願の念仏のことだと明言されていますし、また

しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。

と18願とその言い換えである善導大師のお言葉を出されて説明なされています。

念仏1つで往生できることを親鸞聖人が断言されている箇所でもあります。

くどいようですが、そこには信心というものが必ず具わっているというのが前提にあります。

『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

がそのことを最も端的に顕わされています。

念仏1つで助かる
信心1つで助かる

も同じことなのですが、この2つが同じことだと永久に理解できないというより、理解しないように必死に努力しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

憐みの目で見続けてあげましょう。

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2018年7月19日 (木)

聖道門の真似をしながら、「これこそが親鸞聖人の教え」と間抜けなことを平気で言い続ける高森顕徹会長と愉快な仲間達

浄土門は言うまでもなく聖道門にしても、阿弥陀仏の18願の救いを象徴しているのが、『観無量寿経』にある下品下生の往生だということを認めているのです。この当たり前の事実を知らないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。下品下生については

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。」

(現代語訳)

 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
 その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。」

とあります。
簡単に言うと、

十悪に加えて五逆罪を造ってきて、平生に仏法を聞かず善をしてきたことのない極重の悪人が、臨終になって初めて仏法を聞こうと思って、善知識から勧められたことは、「兎に角、念仏を称えよ」ということで、その通りに10回の念仏を称えて極楽に往生した。

こういうことです。
更には、この後に『観無量寿経』の結論として

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。

 (現代語訳)

釈尊は阿難に仰せになった。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。

とあることに注目されたのが善導大師で、念仏を称えることによって極楽に往生できるのだと強調された訳です。

源信僧都は『往生要集』で下品下生を

四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

と仰って、これを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれて、『正信偈』にも

極重の悪人はただ仏を称すべし。

とまで教えられている通りです。

18願には善の勧めはなく、念仏だけが勧められていてその念仏で極楽に往生できる、これが『観無量寿経』の仏意だと明らかになされたのが、善導大師以降の善知識方です。

この基礎の基礎も知らないで、聖道門が浄土門を非難している「念仏称えて極楽に往生できる教えは方便だ」という主張だけを真似して、

念仏称えて極楽に往生できる教えは間違いだ、と教えられたのが親鸞聖人だ

と間抜けなことを言っている高森会長と愉快な仲間達に、真宗界が白眼視しているのも当然の当然です。

愚か者たちのために何度でも繰り返し言っておきますが、親鸞聖人が仰る真実の信心(=白道)とは、

念仏称えて極楽に往生できると深く信じた心

これで報土往生になるのです。ちなみに

念仏称えて極楽に往生できると浅く信じた心

は化土往生です。

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2018年7月14日 (土)

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

白道」が自力か他力かなど、議論する余地がないのですが、小学生でも理解できる単純明快な理屈を理解できないお粗末思考力の持ち主が、親鸞会の会員です。

これまで善導大師、親鸞聖人のお言葉をたくさん紹介しましたので、他の根拠を出しておきます。
ただし高森顕徹会長と愉快な仲間達の思考力では、本日のエントリーは理解できないと思いますので、思考力が並以下の人は読まない方が良いかもしれません。

蓮如上人が、釈迦の化身、勢至菩薩の化身とまで絶賛された存覚上人の『浄土真要鈔』に白道についてこうあります。

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

判り易い言葉ですので、意味は概ねお判りかと思いますが、真実の他力の信心を、二河白道の譬喩の「白道」で存覚上人は説明されている箇所です。

この時点ですでに、「白道」は他力です。

一応説明すると、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきると説明されています。駄目押しで、「清浄の心」とは、「凡夫我執の心」ではない、最初の「凡夫自力の迷心」でもないとあります。
並の思考力が有るなら判ると思いますが、

行者の信心」=「清浄の心」≠「凡夫我執の心」「凡夫自力の迷心

です。

行者が信心を発す前は「如来の願力」の意味しかない「白道」ですが、阿弥陀仏の喚び声に随って行者が「白道」に乗った時に、「清浄の心」である「行者の信心」が発るのです。

以上のように存覚上人の懇切丁寧な説明で、「白道」に自力が混じることなどありえないのです。

次に、親鸞聖人が関東の同行に読むように勧められた『後世物語聞書』には、

善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。

とあります。釈尊の教えに随って阿弥陀仏の願力をたのんで信心を獲たなら、欲と怒りに信心は影響されないことを書かれています。

本願の白道」ですから、「白道」は18願他力のことで、その後では「他力の功徳」と言い換えられています。

説明するのがアホらしくなるのですが、

白道」を自力とする解釈など、親鸞聖人の教えにおいてはあり得ないのです。

本日の内容は、思考力のある方向けの内容ですので、高森会長と愉快な仲間達は到底理解できないでしょう。そして、

善導大師は「白道」を自力で教えられた
親鸞聖人は「白道」を自力で教えられた
真宗の学者は「白道」は自力だと言っている

と言い続けて恥を何百何千と重ねれば良いでしょう。麻原教祖と麻原信者以下の思考力ではこの程度でしょう。

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2018年7月 7日 (土)

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者

二河白道の譬えの中にある阿弥陀仏の喚び声が18願の言い換えであることは、あの高森顕徹会長でさえ認めていることです。阿弥陀仏の喚び声である18願を聞いてそれに順ったことが、白道に乗ることですから、白道は信後の他力以外には考えられないのです。

小学生でも判る単純明快な理屈です。

その阿弥陀仏の喚び声の内容について、少し説明しておきます。

阿弥陀仏の喚び声についての解説は、『浄土文類聚鈔』と『愚禿鈔』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』では

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』をひらくと、 次のようにいわれている 。
「西の岸に人がいて、 〈そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
「〈水の河と火の河の間にある白い道〉というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 (後略)

とあります。

一心」=深心真実の信心
正念」=称名念仏

真実の信心(他力の信心)で念仏して(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

です。
凡夫自力の心にあらず」の真実の信心(他力の信心)になって白道を歩むのですから、信後の他力の道が白道です。

何の矛盾もないです。

次に『愚禿鈔』

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

ここで

一心」=真実の信心
正念」=選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心

ということですから、『浄土文類聚鈔』とほとんど同じ内容です。
『浄土文類聚鈔』に無かった解説として

」=回に対し迂に対する、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲して
」=去に対し往に対する、報土に還来せしめんと欲して

とあります。

したがいまして、諸善、19願の寄り道をするな、躊躇することなく直ちに18願の他力に帰しなさい、ということですから、そのお言葉に順って乗った白道に方便仮門、自力の意味は皆無になります。

そして「」が18願文の「若不生者」の「」に当たりますので、
」=報土に還来せしめん浄土に生まれさせる
となり、信楽に生まれさせるという意味でないことも明白になります。

ついでに白道を進んでいる旅人に対して群賊等が戻ってこいと叫んでいてもそれに惑わされないことを二河白道の譬えでは

一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

とあり、この「道を念じて

念道」=他力白道を念ぜよ

と親鸞聖人は仰っています。自力の意味はここでも完全否定されています。

親鸞聖人が白道には自力の心ではない真実の信心で乗りなさい、19願の寄り道をするなと解説もされ、直接「他力白道」とまで明言されているので、白道=他力をどうしたら間違えるのか不思議不思議です。
あの高森会長でさえ、親鸞聖人は白道を他力と教えられていると認めざるをえなくなったのになお、未だに白道が自力だと言っている会員がいることには、憐みの気持ちしか起きてきません。

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者と同じレベルかと思っていましたが、アレフの信者よりも幼稚な知能なのでしょう。

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2018年7月 4日 (水)

二種深信も知らず創価学会の信心を真実信心だと本気で思っている高森顕徹会長と愉快な仲間達

先日、超一流大学に入学して世間的にもエリートコースを歩んできた還暦の現会員から、高森顕徹会長の話をしている動画が送られてきました。あの与太話動画を私に送る神経が理解できず、その意図を謀りかねていましたが、とりあえず間違いを簡潔に指摘して返信したらそれっきりでした。

学歴や仕事ができることと知能とは比例しないのだとよく判る例です。

さて、善導大師は「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の悪人が、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて念仏を勧められて念仏して往生するのだと教えられていることを前回述べました。
その善導大師の信心は如何なるものであったかは、いわゆる二種深信で顕わされていますが、善導大師が仰った二種深信には2通りの表現がありまして、高森会長と愉快な仲間達の知らない方の二種深信を見てみます。

『往生礼讃』には、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

とあります。

機の深信=「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し
法の深信=「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知し

です。機の深信と法の深信を比べると判りますが、諸善と念仏が対比されています。
機の深信を簡潔に言うと、

善が少ししかできないので出離できないと信知する

法の深信を簡潔に言うと

1回の念仏でも称えたら必ず往生できると信知する

二種深信をまとめて言うと、

善では救われない、念仏一行で必ず救われると信知する

です。
善導大師は、念仏が救いの絶対条件だと教えられていることが判ります。

コメント欄で、救われるのに念仏が要らない、とか言っている人がいますが、どこの宗教を元にコメントしているのかという話です。
真実信心の定義が、「念仏が要らない」とは無知の極みです。

親鸞聖人は『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

と判りやすく教えられています。

18願とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり

ですし、
真実の信心とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて

です。
念仏不要の信心という説明は、まさに創価学会の信心のことでしょう。

浄土真宗でも浄土門でもないのが、高森親鸞会であることは、明々白々の事実です。

なお、善導大師の機の深信で「善根薄少にして」とありますので、「善根あることなし」の悪人とは異なっていることも知っておきましょう。当然な話で、聖道門の修行をされて、定善までできた善導大師が「善根あることなし」だったら、理屈が無茶苦茶です。「善根あることなし」だと断言する一方で雑毒の善はできると言っている高森会長の思考に納得できる人は、その程度の知能だということです。東大や京大に入ろうが、知能は極めて低いのです。

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