聖道門でさえ知っている浄土門の基礎さえ知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達
聖道門が曲解した下品下生の往生について、善導大師がその間違いを正されたのですが、高森顕徹会長、その取り巻き、愉快な仲間達も、下品下生の往生がどんなことかさえ、何も知らないのです。聖道門でさえ知っていることを親鸞会の輩は知らないのに、19願がどうだ、求道がなんちゃら、宿善が云々と、的外れなことを未だに言っているのですから、真宗史に残る無知異安心集団です。
善導大師が下品下生の往生についてどう教えられているか、参考までに下品上生の往生と併せて紹介しておきます。
『玄義分』には、前回の「なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。」に続いてこうあります。
なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。 「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。 命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。 その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」と。 ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。 もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。 もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。
(中略)
下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。 この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。
(現代語訳)
どうしてそれが知られるかというと、 下品上生の文に説かれている通りである。
「ただ五逆と謗法を作らないだけで、 そのほかの悪は皆ことごとく造り、 わずか一念も慚愧する心がない。 そういう者が命終わろうとする時、 善知識がその人のために大乗を説き、 教えて念仏させるのに遇う。 一声すると、 そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、 この人を来迎し、 そこで往生を得る。」
このような悪人は、 すべて人の常に見るところである。 もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、 善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。(中略)
下品下生とは、
「これらの衆生は、 善くない業である五逆・十悪を造り、 いろいろの悪を犯している。 この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、 命終わろうとするとき、 善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、 往生を勧めてくださるのに遇う。 この人はその教にしたがって念仏し、 念仏によって往生する。」
とある。 この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、 臨終に善知識に遇うたことによって、 七宝の蓮台に迎えられたのである。
「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の高森理論でいうところの無宿善の者が、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて念仏を勧められて念仏して往生するのだと善導大師が教えられているのです。
言い換えると、
過去世現在世で善をしてこなかった悪人が、臨終に初めて聞いた念仏称えて往生できるという教えの通りに念仏して往生する
ということです。
高森会長が回避した二河白道の譬えで、白道を自力だとか求道だとか善導大師が仰る訳がないです。諸善も19願も三願転入も完全に否定されて念仏だけで往生できると教えられたのが善導大師です。
どんな屁理屈を考えようが、
過去世現在世で善をしてこなかった悪人が、臨終に初めて聞いた念仏称えて往生できるという教えの通りに念仏しして往生する
が理解できるかどうかの話です。
このことは、一貫して私が書いてきたことですし、浄土門の根幹であり、聖道門の学僧でさえ知っている基本中の基本です。
小学生程度の国語の理解力があるなら、高森会長の邪義は明白ですし、幼稚園児程度の国語の理解力しかない人が高森邪義を称賛しているのです。
高森会長が紹介しない根拠を私が出すと、「難しい根拠で誤魔化す」とか幼稚園児並の負け惜しみしか言えないのも、恥ずかしいことですね。
悔しいという思いがあるのなら、下品下生の往生のどこに諸善が勧められていて、高森流の求道がどこにあるのか、善導大師のお言葉をもって説明しましょう。
幼稚園児並の捨て台詞しか言えないなら、黙っていた方が恥は少し軽減されるということです。その程度の思考もないのなら好きに負け惜しみを陰で言い続けましょう。冷やかな目で見続けてあげます。
法論をする元気があるなら、いつでも受け付けています。もちろん、小学生並の国語の理解力と聖教上の根拠を揃えての話ですがね。
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コメント
別のブログのコメントで、飛雲さんの批判は「理屈に偏り過ぎている」とか信者が主張していて我が目を疑いましたね。親鸞会は会長のエセ体験と妄言に偏り過ぎて法論が成立してません。
投稿: | 2018年6月30日 (土) 16時03分
高森会長は「体験に偏り過ぎている」し、
M野さんのブログは「屁理屈に偏り過ぎている」ということでしょう。
M野さん涙を拭きなよ。
投稿: M | 2018年6月30日 (土) 17時37分
名無し様
M様
あれだけ体験談で教義があやふやな他団体を非難していたのに、それが親鸞会だったとは、見事なブーメランで笑えます。
投稿: 飛雲 | 2018年6月30日 (土) 22時01分
「なぜ生きる」の映画を見ると、みんな救われます。
善をやらなくとも、念仏称えなくとも、信心なくとも救われます。
本願力回向の世界ですから。
弥陀の本願の大船が、私たちに向かって突進し一人残らず救い取って下さるのです。
あの最後のシーンを見れば良く分かります。
一度ご覧になって見られることをお勧めいたします。
それとも唾棄しますか。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい
投稿: M.K | 2018年7月 1日 (日) 08時21分
M.K 様
>善をやらなくとも、念仏称えなくとも、信心なくとも救われます。
あなたの主張は、高森会長が最も嫌う無力ですね。
本願寺がこのようなことを言っていると猛烈に非難したのにそんなことも知らないのですかね。
まずは、高森会長がどんなことを言っているのか知ってからコメントしましょうね。
投稿: 飛雲 | 2018年7月 1日 (日) 08時30分
ありがとうございます。
顕正新聞の、論説やいろいろの処に、本年四月ごろより、弥陀の本願を聞くことが大切で「善もいらない、念仏もいらない、信心もいらない」と出るようになり、さすがに信心は外しましたが、「善もいらない、念仏もいらない」は出続けています。
ですから、アニメ映画「なぜ生きる」の最後のシーンは
無眼人・無耳人の凡夫を根こそぎ、一人残らず救い取とる大悲の願舟が
お前一人を摂取するぞと、ガーと私一人に向かい突き進んでくるところでおわります。
ここまでは、理解しています。
そのうえで発言しているつもりです。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい
投稿: M.K | 2018年7月 2日 (月) 20時12分
信心はいるのですね。
当たり前すぎて、信心がいらないと言う主張自体が高森会長の教えでもないでしょう。
では、念仏がいらないかという話ですが、そんな浄土門はありません。
もう一つ、無眼人無耳人の意味が間違っていますよ。エントリーで何度も書いていますから探してみてください。
ヒントを言えば、念仏がいらないと言っているあなたのことを無眼人無耳人というのです。真宗の同行のことではないです。
高森会長の嘘を信じていると恥のかき通しですから、聖教を直接読みましょう。
投稿: 飛雲 | 2018年7月 2日 (月) 20時21分
無眼人と無耳人については
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-0fa0.html
でも読んでみましょうね。
念仏が要らないって、M.Kさんは日蓮宗の方ですか?
投稿: SSK | 2018年7月 2日 (月) 20時42分
こんばんわ、Abcです。
>「なぜ生きる」の映画を見ると、みんな救われます。
善をやらなくとも、念仏称えなくとも、信心なくとも救われます。
これを見てさすがに黙ってはおれませんでした。申し訳ございません。
親鸞は『和讃』にて、
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
恒沙塵数の如来は 万行の少善きらひつつ
名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ
と記されております。このことからわかる事は
「念仏の衆生を見られて摂取不捨を施されている」「名号不思議の信心をすすめられている」と言うことです。また「万行の少善」というのは「諸行往生」のことであり、「自力である」と嫌われております。(ですから、「万行の少善きらひつつ」とあります)
取り急ぎ、記させていただきました。
なもあみだ なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年7月 5日 (木) 21時12分