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2018年6月 2日 (土)

善導大師の教えられ方でも高森顕徹会長を攻撃しておきます

高森顕徹会長は前回の話で、「どうすれば大悲の願船に乗れるのかは、次回話をする」と言って終わりました。

次回本当にその話をするかどうかは怪しいですが、先出しじゃんけんでその答えを先に言っておきます。

阿弥陀仏の18願を聞いて乗る

です。高森会長といえど、流石にこれを否定はしないでしょう。

もう一つ、高森会長が否定しないことは、二河白道の譬えで西岸の方の喚び声が18願を譬えられたということです。ですから西岸の方の喚び声を東岸で聞いた旅人が、白道に乗った時に他力になるのは言うまでもありません。

まず善導大師は『散善義』の二河白道の譬えの解説で

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

と仰っていますので、高森会長の言っていることは珍しく正しいです。

では18願の内容について善導大師はどう仰っているかということですが、二河白道の譬えでは、

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

です。『往生礼讃』では

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

とあり、『観念法門』では

もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

と18願を言い換えられています。

なお、親鸞聖人の教えられ方では『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とあります。

ところが高森会長の説明は

どんな人をも 必ず救う 絶対の幸福に

です。

もし、善導大師、親鸞聖人と高森会長の言っていることが同じだというなら、その人は思考が完全に停止しているのでしょう。

一応解説しておきますと、喚び声の「正念」に当たる

善導大師の

わが名号を称すること下十声に至るまで

わが名字を称すること、下十声に至るまで
親鸞聖人の

名号をとなへんものをば

が高森会長にはないのです。阿弥陀仏の18願にある「乃至十念」を救われた後のお礼の念仏、つまりは18願の念仏は救われるには関係のない、いわばおまけとしか考えていないのが高森会長だということです。

善導大師も親鸞聖人も、念仏を称えることが救いの条件として明確に仰っているのです。親鸞聖人の場合は厳密に言えば、念仏を称えて極楽に往生できると深く信じることが救いの条件として仰っています。救われていない人に対して、念仏はお礼だから救いには不要だとは仰っていないのです。念仏は救いの絶対条件です。

ということで本日のまとめ

どうすれば大悲の願船に乗れるのか?

善導大師 念仏を称えたものを救うという18願を聞いて
親鸞聖人 念仏を称えたものを救うという18願を聞いて
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高森会長 救いに念仏は不要という18願を聞いて

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コメント

おはようございます、Abcです。

>念仏を称えたものを救うという18願を聞いて

さようです。七高僧、親鸞、覚如上人、蓮如上人などの浄土教の方たちは上に記したことしか伝えてはおりません。上記の言い換えといたしまして

信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、(乃至)一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし(云々) 蓮如上人『御文 吉崎の章』 より

と、「一心一向に弥陀をたのみたてまつり」がそれに当たります。


番外編 -時宗での南無阿弥陀仏-
 「時宗」とは浄土系仏教のうち、一遍上人が立てられたとされるものです。こちらも「浄土系」にあたりますので「阿弥陀仏におまかせする」と言う点では上に記した方と変わりません。一遍上人が伝えられたことをかいつまんでですが、ご紹介いたします。

 夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。(乃至)念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。(乃至)仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。(乃至)念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏 一遍上人法語 より抜粋 http://www.muryoukouji.or.jp/founder.html

浄土教では浄土宗、浄土真宗、時宗 どれらを執られても「一心一向に弥陀をたのみたてまつりて」「念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。」なのです。

Abc

投稿: Abc | 2018年6月 2日 (土) 10時15分

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