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2018年6月 6日 (水)

善導大師と親鸞聖人の信心でも高森顕徹会長を攻撃しておきます

善導大師と親鸞聖人は、大悲の願船に乗った後、どのようになると仰っているのかについて述べておきます。

白道と火の河・水の河について、旅人が東岸にいる時に善導大師と親鸞聖人は

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

と仰っています。

旅人が白道に乗った後、そして白道を進んでいる時、これがどう変わると仰っているかと言えば、何も仰っていません。

つまり、

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに何も変わっていないのです。ついでに言えば、群賊悪獣悪知識も変わっていません。

これが何を意味するかは説明するまでもないですが、高森会長のいう絶対の幸福とやらには、ならないのです。救われたことが火に触ったよりもはっきりすると高森会長が言っていますが、善導大師と親鸞聖人には、それらしき譬えも解説もないのです。

救われた後の境地として親鸞聖人が説明されているのは『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

です。白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、信後の境地がこれだということです。煩悩が障りとなって苦しむことは大悲の願船に乗る前も乗った後も変わりません。

せめて、

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

この程度の変化を善導大師も親鸞聖人も仰っているなら、高森会長の言うことにも一理あるかといえますが、何もないのです。

では何も変わらないのかと言えば、白道に乗ったということです。

白道に乗った=大悲の願船に乗った

で、ようやく辻褄が合うのです。
どんなに贔屓目に見ても、高森会長の教えも信心も、善導大師とも親鸞聖人とも違うのです。

善導大師と親鸞聖人が仰った内容を改竄することはできません、残念でした。

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コメント

信前信後の変化として、高森会長はよく、

火の河と水の河が光明の広海に変わった

などとも言っていましたね。しかしそんなことは善導大師も親鸞聖人も仰っていません。

「如来回向の念仏一行」という大行による利益を「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば・・・」と述べられているので、高森教をまともに信じている人はそうした大行利益にあずかれないのでした。会員の皆さんには、今やっている高森の行を捨てて願力の道に乗じて頂きたいものです。

投稿: 淳心房 | 2018年6月 6日 (水) 08時39分

こんばんわ、Abcです。

>「善導大師の読み方で攻撃している」

このきわめて短い文章を記していても「?」となってしまった私をお許しください。
「真宗」を語る上で、「阿弥陀さまにおまかせする」のはもちろんのこと
「浄土高僧の書物」、「親鸞の書物」、「本願寺上人の書物」、「専修寺上人の書物」
などから論ずることは正しく「本願力回向を伝えられた方たち」を「伝える」ことであります。

親鸞は『正信念仏偈』にて、
 「矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁」と記されております。
ここからは私の解釈となりますが、まず「矜哀定散与逆悪」は
「定散を修める善人 も 仏願に逆って悪業を与える悪人 も共に阿弥陀さまは矜哀せられた」
と読み、「八万四千の法門をされている方 も 仏を誹謗されている方 も 共に『自力の迷える衆生』であるから阿弥陀さまはあわれみを持たれた」となります。
 次に「光明名号顕因縁」でありますが、「光明名号」はご存知「南無阿弥陀仏」でありますから、
「『南無阿弥陀仏』は因であり、縁でもある」となります。このことから「摂取の利益」は「仏因自果の道理」とも言うことができます。そのことを著されている『和讃』として

五濁悪世の衆生の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

と「功徳は行者の身にみてり」とございます。 ほかの例といたしましては、

十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

「念仏の衆生をみそなはし」と「念仏を称えたものを救うという18願を聞いて」と『和讃』にございます。

さて、対して高森さんですが、

恒沙塵数の如来は
 万行の少善きらひつつ
 名号不思議の信心を
 ひとしくひとへにすすめしむ

のうち、「万行の少善きらひつつ」の「万行の少善」を「善のすすめ」として勧められております。言い方を変えますと、「阿弥陀さまにおまかせしないで、自分の力で何とかしろ!!」です。
法然聖人はそのような方を「疑情のもの」といわれています。  また、

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ

という「無眼人 無耳人」は「浄土をうたがふ衆生」のことを言われているのです。確かに高森さん自身は「浄土をうたがふ衆生」かも知れませんが、だからといって全人類が「浄土をうたがふ衆生」と決め付けるのは いささか早計かと思われます。
 それとも、「ワシは浄土をうたがってはいないが、おまえたちは浄土をうたがふ衆生であるからワシの話をきけ」とでも言われるのでしょうか。もしそのような解釈でしたら、「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」(『選択集』三選の文より)の「名を称する」ということを指して「念仏ないから」などとは言わないとは思いますが... 私の思い違いでしょうか。

最後に、一首

天神・地祇はことごとく
 善鬼神となづけたり
 これらの善神みなともに
 念仏のひとをまもるなり

とありますのは、

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと

の文と同義にあたります。ともに「信心の行者」として、「御同行」として念仏を称えさせていただく存じます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年6月 9日 (土) 01時22分

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