« 2018年5月 | トップページ

2018年6月

2018年6月24日 (日)

二河白道の譬えを回避した話で、更に恥の上塗りをして収拾のつかない無知ぶりを発揮する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の講義では、予想通り二河白道の譬えについて話をしませんでした。敢えて避けたのでしょう。二河白道の譬えは、『教行信証』を読んだことがあれば、間違える筈のないストーリーなので、根本的に違うストーリーを平気で話す高森会長が『教行信証』を読んだことがないことはこのことだけでも断言できます。

さて、二河白道の譬えを避けてまで何の話をしたのかと言えば、『観無量寿経』の韋提希のことを、聖道門では権化の人と解釈していたのを善導大師が実凡の人だと明らかになされ、それで親鸞聖人が「善導独明仏正意」と仰ったのだということでした。

それ自体は間違いではありませんが、『観無量寿経疏』を読んでいたらもう少しまともな話ができるのでしょうが、『教行信証』さえ読んだことがないのに『観無量寿経疏』など読む以前に中の文字を見たこともないでしょうから、その程度の話を一日かけて得意満面で話ができるのです。

無知極まりない高森会長に、親切心で少し教えてあげます。

聖道門の学僧が『観無量寿経』で最も注目したことは、下品下生の極重の悪人が臨終に初めて善知識から仏法を聞いて、善知識に勧められた念仏を10回称えて往生するところです。韋提希よりも更に下の下品下生の極悪人がわずか10回の念仏で往生すると説かれていることが聖道門では考えられない話であるからです。聖道門だけでなく、親鸞会でも高森会長でも信じられない話でしょう。

聖道門ではどのように解釈していたのかということについて2種類『観無量寿経疏』には紹介されていますが、高森会長が何かの一つ覚えで言っている天台大師らの説について、『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩のことを

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

と善導大師は示されています。下輩の三人は、臨終に初めて仏教を聞いて往生を願ったとしているが実はそうではなく、過去世および平生に大乗を学び始めた凡夫だという解釈です。高森流宿善論と同じ発想です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』で
次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

と仰っています。

下品上生、下品中生、下品下生について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされています。
過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、つまり、下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、過去世の善根がないのです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

簡単にまとめると

下輩の悪人はどんなものか?

善導大師 過去世・現在世で無善根の者
----------------------------------------------------
天台大師 過去世で善根を積んできた者
高森会長 過去世で善根を積んできた者(宿善の厚い者)

高森会長の理論は、善導大師に論破された天台大師らの聖道門の学僧の理論そのままです。

二河白道の譬えを話しなければ恥をかかなくて済むと考えたのでしょうが、高森会長の言っていることのほとんどすべてが善導大師・親鸞聖人の仰ったこととかけ離れているのです。

話をすればするほど恥の上塗りになります。齢90にして晩節を徹底的に汚し尽くしたいのなら話を続ければよいでしょうが、ビデオで悪知識の証拠を残して更にインターネットで宣伝するという愚行には、呆れを通り越して敬意を表したいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月10日 (日)

親鸞聖人の教えられた二河白道の譬えの解説で高森顕徹会長を攻撃しておきます

本日も高森顕徹会長は、何が言いたいのかよく判らず、キリスト教などで言われる”神に救われたという体験によって死後に天国に行くことがハッキリした”という話と殆ど同じ内容でした。
更には未だに、阿弥陀仏の誓願は全てのものを信楽にしてみせるという約束だ、と言っていました。

高森会長の頭の中では、自分の言っていることも良く判っていないでしょうし、過去の記憶を継ぎ合わせてとりあえず話をしているだけという印象を受けます。

さて、二河白道の譬えの中で出てくる、西岸上の人の喚び声が18願を譬えられたものであることは、高森会長も認めています。

西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

この「一心正念にしてただちに来れ」は、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
一心正念にしてただちに来れ」にあてはめて18願文を言うと

信楽の心で念仏して生まれさせる

ということになります。
では「生まれさせる」はどう生まれさせるのか。

1.信楽に生まれさせる
2.浄土に生まれさせる

どちらかでしょうか。
1では意味が通じません。

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

訳が判りません。
2ですとすんなり理解できます。

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

当たり前のことです。
二河白道の譬えでも、「ただちに来れ」は

ただちに西の岸に来れ

です。

ただちに一心へ来れ

になることはあり得ません。

一心に正念にしてただちに来れ」について親鸞聖人は『愚禿鈔』で、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

と教えられています。

18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、遠回りで「方便仮門」である聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になります。「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと「一心」真実の信心で「正念」念仏して、です。

この「一心正念」については『浄土文類聚鈔』で更に詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、

信楽」の身に生まれ変わる
=「仏なり」の身に生まれ変わる

になりまして、「信楽」の身に生まれ変わるなどと軽々しくいうものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、、「信楽」の心になることの違いは、ここでも明らかです。

こんな頓珍漢な高森会長の話を聞いても、キリスト教などの他宗教で言われるような体験なら得られるかもしれません。しかし、仏の心である「信楽」を頂いても「信楽」の身になれないという親鸞聖人と同じ体験をすることは不可なりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 6日 (水)

善導大師と親鸞聖人の信心でも高森顕徹会長を攻撃しておきます

善導大師と親鸞聖人は、大悲の願船に乗った後、どのようになると仰っているのかについて述べておきます。

白道と火の河・水の河について、旅人が東岸にいる時に善導大師と親鸞聖人は

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

と仰っています。

旅人が白道に乗った後、そして白道を進んでいる時、これがどう変わると仰っているかと言えば、何も仰っていません。

つまり、

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに何も変わっていないのです。ついでに言えば、群賊悪獣悪知識も変わっていません。

これが何を意味するかは説明するまでもないですが、高森会長のいう絶対の幸福とやらには、ならないのです。救われたことが火に触ったよりもはっきりすると高森会長が言っていますが、善導大師と親鸞聖人には、それらしき譬えも解説もないのです。

救われた後の境地として親鸞聖人が説明されているのは『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

です。白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、信後の境地がこれだということです。煩悩が障りとなって苦しむことは大悲の願船に乗る前も乗った後も変わりません。

せめて、

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

この程度の変化を善導大師も親鸞聖人も仰っているなら、高森会長の言うことにも一理あるかといえますが、何もないのです。

では何も変わらないのかと言えば、白道に乗ったということです。

白道に乗った=大悲の願船に乗った

で、ようやく辻褄が合うのです。
どんなに贔屓目に見ても、高森会長の教えも信心も、善導大師とも親鸞聖人とも違うのです。

善導大師と親鸞聖人が仰った内容を改竄することはできません、残念でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年6月 2日 (土)

善導大師の教えられ方でも高森顕徹会長を攻撃しておきます

高森顕徹会長は前回の話で、「どうすれば大悲の願船に乗れるのかは、次回話をする」と言って終わりました。

次回本当にその話をするかどうかは怪しいですが、先出しじゃんけんでその答えを先に言っておきます。

阿弥陀仏の18願を聞いて乗る

です。高森会長といえど、流石にこれを否定はしないでしょう。

もう一つ、高森会長が否定しないことは、二河白道の譬えで西岸の方の喚び声が18願を譬えられたということです。ですから西岸の方の喚び声を東岸で聞いた旅人が、白道に乗った時に他力になるのは言うまでもありません。

まず善導大師は『散善義』の二河白道の譬えの解説で

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

と仰っていますので、高森会長の言っていることは珍しく正しいです。

では18願の内容について善導大師はどう仰っているかということですが、二河白道の譬えでは、

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

です。『往生礼讃』では

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

とあり、『観念法門』では

もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

と18願を言い換えられています。

なお、親鸞聖人の教えられ方では『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とあります。

ところが高森会長の説明は

どんな人をも 必ず救う 絶対の幸福に

です。

もし、善導大師、親鸞聖人と高森会長の言っていることが同じだというなら、その人は思考が完全に停止しているのでしょう。

一応解説しておきますと、喚び声の「正念」に当たる

善導大師の

わが名号を称すること下十声に至るまで

わが名字を称すること、下十声に至るまで
親鸞聖人の

名号をとなへんものをば

が高森会長にはないのです。阿弥陀仏の18願にある「乃至十念」を救われた後のお礼の念仏、つまりは18願の念仏は救われるには関係のない、いわばおまけとしか考えていないのが高森会長だということです。

善導大師も親鸞聖人も、念仏を称えることが救いの条件として明確に仰っているのです。親鸞聖人の場合は厳密に言えば、念仏を称えて極楽に往生できると深く信じることが救いの条件として仰っています。救われていない人に対して、念仏はお礼だから救いには不要だとは仰っていないのです。念仏は救いの絶対条件です。

ということで本日のまとめ

どうすれば大悲の願船に乗れるのか?

善導大師 念仏を称えたものを救うという18願を聞いて
親鸞聖人 念仏を称えたものを救うという18願を聞いて
----------------------------------------------------
高森会長 救いに念仏は不要という18願を聞いて

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2018年5月 | トップページ