あれだけ醜態を曝しながらいまだに二河白道の譬え話をする厚顔無恥な高森顕徹会長
本日の高森顕徹会長の話は、まだ寝惚けた二河白道の偽譬え話でした。しかも途中までしか話をしないという前代未聞の有様です。後で指摘されることを嫌い、私に先に言わせておいて後出しジャンケンをするつもりなのかもしれませんが、それなら先に私の手を出して十二分に見せておきます。
まずは二河白道の譬えについて基本的なことを少し説明します。
高森会長は白道について
白道は聞法心を表している
と寝とぼけたことを未だに言っていました。
言うまでもなく、二河白道の譬えは善導大師が作られた話です。『散善義』の中で『観無量寿経』の回向発願心を解釈なされたところで出てくるのですが、この譬えの前に
また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。
と仰っています。
信心守護の譬えですから、真実信心についての解説であり、求道の譬えではないことは明白です。
この譬えを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれていますので、親鸞聖人も、真実信心を顕わされたのが二河白道の譬えとされたのは、疑いようのない事実です。19願の意味があるなら、化土巻に二河白道の譬えを引かれるでしょうが、それはありません。
『教行信証』は高森会長にも会員にも難しすぎるでしょうから、『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』で再度説明しますと、二河白道の譬えの解説があるのは、
問ふ。念仏往生の願、すでに三心を発したまへり。論主、なにをもつてのゆゑに一心といふや。
という問いに対する答えの中です。
答えとして18願の三心(至心・信楽・欲生我国)の説明をされた後に
これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)(現代語訳)
そこで、 善導大師の 『観経疏』 をひらくと、 次のようにいわれている。
「西の岸に人がいて、 <そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
<水の河と火の河の間にある白い道> というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。
と続きます。
白道=能生清浄願心=凡夫自力の心にあらず
と明確に仰っていますから、二河白道の譬えは、他力の真実信心についてです。
一度に多くのことを書くと理解できないでしょうから、今回はこれだけとしておきます。
本日のまとめ
白道は何を譬えられたものか?
善導大師 真実の信心
親鸞聖人 真実の信心
-----------------------
高森会長 聞法心
反論があるなら、いつでもどうぞ。
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コメント
こんばんわ、Abcです。
今回も読ませていただきました、高森と愉快な仲間たちにはこのように小出しで
記さなければなりませんね。
>ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略) 『浄土文類聚鈔』
飛雲さんが後に言われている「「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず」でも自力でないことは十分にわかりますが、私は「然れば」より後の文の解説を行います。
原文:しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。
ここに「一心」とありますのは源信僧都の「偏帰」や、源空聖人の「一向」、時代を下りますと蓮如上人の「なにのようもなく、弥陀如来(みだにょらい)を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり」(真宗聖典785頁)にも通じます。この文の「むすび」にあたる「一心はすなはちこれ深心なり」も同じ事を重ねて記されている箇所でございます。
次に正念についてですが、こちらは「正定業」、つまるところ「第四の正因」ともいわれる「称名念仏」のことであります。「称名はすなはちこれ念仏なり」と記されている通りでございます。
なもあみだ なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年5月27日 (日) 23時27分