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2018年5月15日 (火)

親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえも入っていない高森顕徹会長の信心

近年にない多くの人が集まった先日の降誕会ですが、それでも正本堂落慶法要の時には及ばず、正本堂落慶当時も広告を出していましたので、結果的には親鸞会の衰退が顕著になったということです。

さて、コメント欄で高森顕徹会長を妄信する愉快な仲間が、頓珍漢なことを書いていますが、これはここ数年の傾向で、親鸞聖人のお言葉はどうでもよく信心決定している特異な高森会長と異なっている信心について、退会者を非難してくるのです。

法論に敵なしの親鸞会を自負しているなら、あり得ないコメントですが、これが現実です。高森会長の言っている教義が親鸞聖人の教えとは無関係であり、親鸞聖人と高森会長の信心までも違うとまで思いが及ばないところが、会員の哀れさを際立たせています。

教義について反論できないことは、高森会長も会員も判っているようですので、信心についても親鸞聖人とは異なっていることを、根拠を挙げて、説明しておきます。

他力の信心あるいは他力の念仏と、自力の信心あるいは自力の念仏との違いについて、親鸞聖人は対比して、度々教えられています。
最も判りやすいのが『浄土和讃』の最初の

弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

です。

念仏を称えている前提で、「信心まことにうる」と「誓願不思議をうたがひて」の違いが他力と自力の違いだということです。

では「誓願不思議をうたがひて」とは具体的にどんなことかというと、他宗教や他宗を信じているというようなレベルの話ではなく、『正像末和讃』にあるように

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

ということです。つまり、「罪福信ずる」こと「自力諸善」という高森会長が勧めていることが「仏智不思議をうたがう」ことになるのです。

他力と自力の違いをもっと端的に仰ったのが、『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。

18願のことを「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」あるいは「念仏往生」と仰った上で、他力の信心を「ふかく信じて」と仰り、自力の信心を「信心あさく」と仰っています。

簡単にまとめると、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

ということです。

他力と自力の信心に共通することは「念仏を称えて往生できると信じた心」です。

では高森会長はどう言っているかと言うと、

念仏を称えて往生できると思うのは間違いで、往生できない

です。昔はこれを必堕無間とまで言い切っていましたが、最近はそこまでは言わなくなりました。

この高森会長の言っていることから判断すれば、高森会長が他力の信心を獲ていないどころか、親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえ入っていないことが明確です。

ちなみに、蓮如上人が『御文章』5帖目11通で仰っている

なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり

は、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

を踏まえられた上で、「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは往生できるかどうか覚束ない、つまりは不確実だということで、「深く」と「浅く」の違いを弁えなさいとの誡めです。「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは、往生は不可とも仰っていませんし、ましてや必堕無間でもありません。

ということで、今回は少し長くなりましたが、高森会長が他力の信心と思い込んでいる信心は、念仏誹謗の創価学会の信心と同レベルだということです。高森会長が、他力の信心のことを絶対の幸福と言っていることからも、それが裏付けられるというものです。

なお余談ですが、正本堂も創価学会のパクリで、今はそこだけ2000畳と変更しています。肝心な信心は創価学会のパクリそのままで。

悔しいと憤る元気がある会員で、反論があるならいつでもコメントをください。ただし、体験至上主義で高森会長の信心を基準にしてのコメントは無意味ですので、そんな愚かなコメントはしない方が宜しいかと思います。

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コメント

1.正真念仏偈の”結誡”に
  弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中斯難無過斯
  とある通りと深く味わっているつもりです。
  親鸞聖人はここに気持ちを込められておられると味わえるようになりました。

2.法然上人の部分での
  真宗教証興片州 選択本願弘悪世
   に何が書かれているのか味わえば、念仏の凄さが分かります。
  それを蓮如上人は「無上甚甚の功徳利益の広大なること更にその極まること無し」と表わされています。 

3.法然聖人のご和讃
  生きなば念仏の功つもり 死なば浄土に参りなん
  とてもかくてもあるべしとおもえば 生死ともにわずらいなし
  このお歌を、有り難く味わっております.

顕浄土真実教行証文類後序には
  
  若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生
  が記されております。
親鸞聖人が、いかにお念仏を大切にされていたかは痛いほど身につまされます。

  なんまんだぶ ありがたい

投稿: 通りすがりの者 | 2018年5月16日 (水) 09時36分

通りすがりの者さん へ

こんばんわ、Abcです。
>1.正信念仏偈の”結誡”に
>  弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中斯難無過斯
>  とある通りと深く味わっているつもりです。
>  親鸞聖人はここに気持ちを込められておられると味わえるようになりました。

私の所も「念仏」を伝えて、はや790年余りとなりますが、
年を追うごとに「五濁」が極まり、「自力無効」が知らされるのでありました。
この真宗は「本願力回向」であります。何も計らいもなく、「ただ念仏のみ」であります。

>2.法然上人の部分での
>  真宗教証興片州 選択本願弘悪世
>   に何が書かれているのか味わえば、念仏の凄さが分かります。
>  それを蓮如上人は「無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まること無し」と表わされています。

「真宗の教(行)証を片州(片州は日域に同じ)に興し 選択本願(18願)を悪世に弘められた」ですね。私は法然上人を「源空聖人」と呼び習わしておりますが、「源空聖人」でも「法然上人」でもあまり大差はありません。

親鸞は『正信念仏偈』の最後に、
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」と締めくくられており、
「すべての人(道俗時衆)共に同心(南無阿弥陀仏のこころ)となり
  唯、斯(そ)の高僧の説を信じなさい(信ず可し)」と記されております。

この「同心」も「高僧説」も「帰命無量寿如来(南無阿弥陀仏)」でありますから、
真宗の教えは「本願力回向」の証であります「南無阿弥陀仏」に他ならないのであります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2018年5月16日 (水) 21時38分

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