高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話
昨日と本日、高森顕徹会長の自己満足話がありました。駄作『歎異抄をひらく』発刊10周年記念という建前で、多額の費用を費やした大々的な広告により、近年にない多数の人が参加したようです。邪教と罵っている他の宗教団体と同様の手法で同様の結果を得たことで、得意の絶頂にいることでしょう。
期待に違わず内容も、創価学会の真似事でした。『歎異抄』にある「無碍の一道」を絶対の幸福と勘違いし、親鸞聖人の教えを現世利益に貶めた話にしていました。珍釈の最たるものが、「無碍の一道」の「一道」を幸福だとしたことです。噴飯物以外の何物でもありません。
一応説明しておきます。
元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。
いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。(現代語訳)
いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。
結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。
「一道」とは、同然ながら、ただ一つの道のことで、それは念仏を意味しています。
したがいまして、
念仏者は無碍の一道なり
は本来の意味では
念仏は無碍の一道なり
になるのですが、『歎異抄』では「念仏者は」となっているので、学者の間でも様々な説がでています。いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」が迷いの世界を出て成仏するたった1つの道だと教えられたのです。
言うまでもないことですが、自力の念仏と他力の念仏の違いも判っていないので、涙のたとえで誤魔化していましたが、信心と念仏の関係も判っていません。
『歎異抄』を使って話をしているなら、『歎異抄』のお言葉を引用して説明すべきでしょう。
第1条には、
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
とあるのは、無知な高森会長でも知っていることです。
信心=往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ
簡単なことですが、高森会長と取り巻きには理解できないでしょうね。
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コメント
教義の根幹が論破されても、自ら修正も謝罪もないままに、唯無知の輩をハイエナの如く「しゃぶりつくす」親鸞会・・・
ありもしない現世利益で金を巻き上げる「宗教ヤクザ」の名に値すると思います。
飛雲さんには、社会悪根絶のため、これからも更新をお願いします。
投稿: | 2018年5月14日 (月) 19時55分
宗教ヤクザというのは、『祖師も教えたことのない「一切衆生 必堕無間」と脅して、祖師の勧める念仏を傍らにして、財施という名で雑行を勧める』ところがヤクザと言えると思います。
投稿: | 2018年5月14日 (月) 20時05分
飛雲さん、あなたは他力の信心阿弥陀仏から頂いて、救われたのですか?
高森先生が土曜日にお話しされましたが、心を弘誓の仏地に樹て、とお話しされましたが、あなたのご意見を聞くに、まだ立っていないので、仏心ではなく、言葉遊びにあけくれておられて、お疲れ様です。
他力になるまで他力を求めて頂く事、願わずにおれません。
そして、親鸞聖人も、疑法を縁となし、と言われていますので、あなたの真実とのご縁を一方で、喜んでおります。
まあ、文章が高森先生と違い、分かりにくく、幼稚でかつ感情的なのがいささか気になりますがね。
投稿: 石田三成 | 2018年5月14日 (月) 21時16分
石田三成様
敗軍の将の名を名乗るとは、最初から負けを認めているのでしょうか?
>言葉遊びにあけくれておられて、お疲れ様です。
教義においては反論できないから、お得意の体験至上主義をかざしてきたのですね、哀れ。
マインドコントロール真只中の会員らしい負け惜しみのコメントですが、具体的に、私の書いたことのどこがどのように間違っていて、親鸞聖人、あるいは蓮如上人がどう仰っているかなぜ書かないのでしょうか?
理由は簡単です。
反論できる根拠がないからです。あるのは、高森会長の妄想教義が唯一の根拠ですね。
悔しいと思うなら、根拠を挙げて、私の書いた内容に反論しましょう。
範囲を広げると話が散ってややこしいので、「一道」=幸福だという根拠を、親鸞聖人のお言葉で示しなさい。
できないなら、黙っていた方が恥をかかなくて良いですよ。
投稿: 飛雲 | 2018年5月14日 (月) 21時24分
石田殿の負けだ。
高森殿に従っているからこの有様だ。
心を愚誓のブッ恥に立てているから、愚かなコメントになるのじゃ。
投稿: 徳川家康 | 2018年5月14日 (月) 22時30分
高森先生のお歌
「体験談 自己宣伝の ほかはなし」
「体験談 ほかに売り物 さらになし」
「みえみえの 自己宣伝の 体験談」
「こうなった 仏法使って 自慢する」
「こうなった 自慢話に 花が咲く」
石田三成さんのことを皮肉っているのですね。いや違った、高森先生御自身のことを皮肉ったお歌でしたね。
投稿: 体験談 | 2018年5月15日 (火) 06時34分
石田三成さんへ
祖師の教えに依らず、自らの解釈により、祖師のみ心まで異なった教えを弘める…これ法を破壊する謗法罪の輩。
これが親鸞会では、ありませんか?
投稿: | 2018年5月15日 (火) 08時08分
ここまでズレてしまっているなら、親鸞会と言うより、むしろ善鸞会と呼ぶのが、ふさわしい。
投稿: | 2018年5月15日 (火) 12時29分
幼稚でかつ感情的?スッキリハッキリとかテレーキョトンボーとかドタ牛とか信仰の幼稚園児とかのことか。
投稿: | 2018年5月15日 (火) 12時44分
聖教という根拠に基づいて教義を明らかにすることを"言葉遊び"とか、、、ちょっと何言ってるか分からない。高森教徒のコメントはいつもこんなんだな…
投稿: | 2018年5月15日 (火) 20時47分
おはようございます、Abcです。
>高森先生が土曜日にお話しされましたが、心を弘誓の仏地に樹て、とお話しされましたが、あなたのご意見を聞くに、まだ立っていないので、仏心ではなく、言葉遊びにあけくれておられて、お疲れ様です。
さようでありますか、高森さんは「心を弘誓の仏地に樹て」と仰られたと。
まず、高森さんの「一切衆生 必堕無間」についてですが、この文言は
『経典』ではなく、『撰時抄』という日蓮上人が記されたものであります。
ですから、『経典』をいくら探してもこの文言は出てきません。
つまるところ、「親鸞の教え」と「高森の教え」には以下のような違いがあります。
親鸞の教え:『正信偈』や『教行証』にいわれている「南無阿弥陀仏と弥陀をつのりとする」教え
高森さんの教え:上の「一切衆生 必堕無間」と言う文言を出して人々を言い驚かし、
「善因善果」という「因果の道理」を用いて「献金を促している」教え
このような違いがあり、
「弥陀をつのりとする」=18願 であり
「因果の道理(自分自身を)をつのりをする」=19願 であります。
このことに関しまして、親鸞は『正信偈』の中にて、
万善自力貶勤修 万の自力での善を貶し =19願を貶し
円満徳号勧専称 専ら仏号(円満徳号)を称えることを勧める =18願を勧める
とありますので、私たちは「念仏」を衆生に勧めます。
なもあみだ なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年5月16日 (水) 08時44分