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2018年2月25日 (日)

親鸞聖人は法然上人の教えを聞いて救われた、と言いながら法然上人の教えを完全否定する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、『歎異抄』第二条についてでした。
親鸞聖人がおられた京都まで、関東の同行が訪ねにきた際に、親鸞聖人が仰った

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

を出して、親鸞聖人は法然上人から教えを聞いて救われたのだということを強調していました。
ということは、法然上人の教えを聞くことで、親鸞聖人と同じように救われることができるはずですので、法然上人の教えられたことを語るのが筋でしょうが、その話はありませんでした。
法然上人の教えられたことを話をしたら、高森会長の教えがひっくり返るからです。

法然上人の『選択本願念仏集』に何が書かれてあるかは、少しでも日本の仏教について知識があるなら、超常識ですが、念仏一行、唯念仏を称えて往生できるということです。

そのお言葉を挙げるときりがないのですが、代表的なものを紹介すると、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

とありますし、また

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられています。

このように諸善を廃して念仏を立てることを仰っています。諸善を捨てて唯念仏を称えなさい、これが法然上人の一貫した教えです。もちろん法然上人は三心を具した念仏、つまり他力念仏を勧められていることは当然ですが、三心を具していない念仏、つまり自力の念仏も法然上人は勧められています。これは常識ですから、根拠は要らないかもしれませんが、高森会長も、親鸞会の会員も、本当に何も知りませんので、一応根拠を挙げておきます。

『十二箇条問答』

浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

『念仏往生義』

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。その心の内にまた弥陀を憑む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒に暮れなん事、後悔先に立つべからず。

未信の人に対して、自力の念仏を励むように勧められています。信前に、諸善を廃して念仏を立てなさいと、法然上人は仰っています。

まとめると、法然上人は

信前において諸善を捨てて自力でも唯念仏を称え続けなさい、そうすれば必ず往生できる

と教えられた方です。

唯念仏を称えなさい

これを完全否定しているのが、高森会長です。

金集め人集めを目的として、捨てなさいと法然上人が強調された諸善をさせて自力の念仏を蔑ませている高森会長の教えを聞いて、親鸞聖人と同じ救いにあずかる道理がありません。

会員は、法然上人の教えを知りましょう。

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