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2018年1月 9日 (火)

高森顕徹会長の言う因果の道理は無明の闇、疑情そのもの

因果の道理について解説をして欲しいとの要望がありましたので、簡単にまとめておきます。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にはこうあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

とあります。18願によって報土に往生するということは、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」ですので、因果の道理といっても3種類あることになります。

1.世間の因果
2.出世の因果
3.報土の因果

1の世間の因果とは、倫理道徳の因果です。親鸞会的にいうなら、どう生きるかについての因果になります。善い事をすれば善い結果が来ますよ、悪い事をすれば悪い結果が来ますよ、自分のやったことは自分に返ってきますよ、という親鸞会で教えていることとほとんど同じことです。

2の出世の因果は、迷いの世界を出る因果ということで、聖道門で教えられている因果の道理です。1との違いは、目的の違いだけではありません。難しい話を抜きに突き詰めると煩悩によって苦しみがやってきますので、煩悩を滅するというのが最終的な結論になります。これが通仏教でのいわゆる因果の道理になるのですが、親鸞会の因果の道理は、往生成仏という結果だけをみると2らしきことも混ざっているといえます。

しかし、親鸞聖人が教えられたのは3の報土の因果で、これは1でも2でもない全く違う道理になるのです。

『安心決定鈔』にはそれを「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。」とありますが、本来、往生という果を受けるには「衆生こそ願をもおこし行をもはげむべき」でありますが、衆生はそのような願も行もない状態で、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」なのです。

したがいまして『安心決定鈔』では3の報土の因果を、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」と表現なされているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』で

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

と仰っています。

倫理の因果の道理と聖道門の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。三悪道にいく衆生が、その因果を断ち切られて報土に往生するというのは、「おほきに因果の道理にそむけり」なのです。また「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と、出世の因果からは「言語道断」とまで言わざるを得ない程の「不思議」なのです。
更には、「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」と仰っているように、「因果相順の理」とは全く次元の違うのが報土の因果ということになります。

この報土の因果を親鸞聖人は、本願力回向で説明なされました。『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

とあり、この御言葉は、『浄土文類聚鈔』にもあります。

親鸞聖人が教えられた因果の道理とは、衆生が報土往生する因は、100%阿弥陀仏が用意なされたものであるということです。ですから、私の方で何かを付け加えることは不要ですし、付け加えようとすること自体が間違いになるのです。

世間・出世の因果と報土の因果とを同一視していることを親鸞聖人は、無明の闇とか疑情とか仏智不思議を疑う心と仰っているのですから、高森顕徹会長の教えは無明の闇の教えであり、報土往生を完全に妨げる教えです。

親鸞会で教える因果の道理に背かない限りは、報土往生はあり得ないと「知るべし」でしょう。

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コメント

合掌
ご丁寧な説明誠にありがとうございます。
きっと親鸞会は世渡りの術を、親鸞聖人の名前を使って教えているのでしょう。
これも殺伐とした現代には大変有効です。

それで真宗に無知な現代では、まかり通ってしまうのでしょう。
少し立ち止まってみればおかしいこと分かるのでしょうが、希望と努力の現代人にはカッコウの目標になります。
それをかさにかけるとは恐ろしさを感じます。

でも因果の道理の集客力は抜群です。
いい点に目を付けました。
打ち出の小づちです。

三世利益には格好の教えで手放せません。
真宗的に正しく教えてほしいものです。
なんまんだぶ

投稿: 愛読者の一人 | 2018年1月10日 (水) 15時25分

愛読者の一人 さんへ

こんばんわ、Abcです。善信上人の祥月命日の行事も滞りなく終わり、このようにコメントを見させていただいております。

>それで真宗に無知な現代では、まかり通ってしまうのでしょう。
>少し立ち止まってみればおかしいこと分かるのでしょうが、希望と努力の現代人にはカッコウの目標になります。
>それをかさにかけるとは恐ろしさを感じます。

ただ、私としましてはその「まかり通っている事柄」について苦言を呈しなければなりません。
そのような”目標”を掲げたとしましても、「不了仏智のしるし」であり「疑情のもの」でしかないのですから、
到底「自然の浄土」とはなりません。


>でも因果の道理の集客力は抜群です。
>いい点に目を付けました。
>打ち出の小づちです。

「因果の道理」は「信罪福」とも「思議の法」ともいわれ、それぞれ「信真実」「不思議の法」の対義語となっております。
「これに依る」と申すことは「仏智不思議を疑いて」と言うことですので、結果として上記と同じとなります。

蓮如は領解文にて「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。」と申されております。ここに「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」とございますように「自力をふりすてよ」といわれているのです。また知恩院 源空聖人(法然上人)は『選択集』のなかにて(この箇所を親鸞も引用されております)「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」と申され、意訳としまして「六道輪廻という『家』に還ってくるのは 疑情の為なのだ、 速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入るには (南無阿弥陀仏という)信心を以って 必ず入る(能入)するのだ」となります。

>三世利益には格好の教えで手放せません。
>真宗的に正しく教えてほしいものです。

「三世利益」は日蓮宗やその他修験道などで使われている単語であり、真宗にはございません。
「真宗的には」、「三世利益もまた、「自力での行い」であるので、弥陀を疑っており そのままではまた生死の苦海におぼれるぞ」となります。

なもあみだ なもあみだ

Abc

投稿: Abc | 2018年1月17日 (水) 00時45分

「知るべし」で結んでおられる意味合いを、「曇鸞大師の浄土論註」を読みながら味わわせてもらいました。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: 愛読者の一人 | 2018年1月20日 (土) 09時34分

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