愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち
絶対の幸福という創価学会パクリ信心を正当化するために、高森顕徹会長が最近よく使う根拠が、『正信偈』の
譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇
です。
この意味についての解釈が、いつものように面白いです。
雲や霧がどんなに天を覆っていても、日光で雲霧の下は明るいように、欲や怒り、妬みの煩悩いっぱいあるがままで、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快である
1月15日号の顕正新聞にこのようにありますから、高森会長の解釈で間違いないです。これが絶対の幸福の境地だということなのでしょうが、創価学会の信心ではあっても真宗の信心とは無関係です。
高森会長は知らないでしょうが、親鸞聖人は『尊号真像銘文』でこの解説をなされています。
「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。
往生にさわりがないことを譬えられたのであって、心が明るく愉快な状態になることではありません。
往生にさわりがなくなる譬えが二河白道の譬喩です。この譬えにおいて、信前と信後で何が変わったのかと言えば、白道に乗ったか乗らないかの違いだけです。煩悩を譬えられた水と火の勢いも白道を潤し焼いているのも変わっていませんし、白道の長さも幅も変わっていません。親鸞聖人の譬えの雲と霧を二河白道の譬喩で言い換えるなら
貪愛・瞋憎の水・火に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。
です。明るく愉快になるという内容は、二河白道の譬喩にも全くありません。
それでも苦し紛れで高森流ヘンテコ理論の反論があるでしょうから、その反論を論破する根拠を出しておきます。それは同じ『尊号真像銘文』のこの前にある
「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。
です。「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし」「信心をうれば暁になるがごとしとしるべし」です。「暁」で明るさを表現なされていますが、「暁」とは夜中の漆黒の闇からほんのり明るくなった状態のことを言います。
『デジタル大辞泉』(小学館)では、
1 太陽の昇る前のほの暗いころ。古くは、夜半から夜の明けるころまでの時刻の推移を「あかつき」「しののめ」「あけぼの」と区分し、「あかつき」は夜深い刻限をさして用いられた。夜明け。明け方。
2 待ち望んでいたことが実現する、その際。「当選の暁には」
とあります。ここでは1の意味です。
夜深く仄暗い時を指します。ただし、街路灯や住宅、店などの照明が夜中でも消えない状態しか知らない現代の日本人には理解しにくいかもしれませんが、親鸞聖人の時代の夜は、月が見えないと漆黒で明かりがないに等しいのです。現代でそれを再現するには、窓のない部屋で照明を消した状態でしょう。そこにドアの隙間から光が洩れたような状態が「暁」です。明るさといっても、その程度のものであり、昔高森会長がよく言っていたような日本晴れの心とは程遠い明るさです。
高森会長の信心である絶対の幸福は、明るく愉快な心だそうで、子供だましの煩悩のレベルです。
高森会長の愉快な信心に付き合っている会員は、哀れ哀れです。
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コメント
こんばんわ、Abcです。
>雲や霧がどんなに天を覆っていても、日光で雲霧の下は明るいように、欲や怒り、妬みの煩悩いっぱいあるがままで、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快である
「明るく愉快である」ですか、いかにも体験至上主義の高森さんが好みそうな事柄ですね。
この箇所について蓮如は、
「「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまふひかりはつねに照らしたまひて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚と、雲・霧のごとくして真実信心の天に覆へること、日光のあきらかなるを、雲・霧の覆ふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。」(正信偈大意 より)とあり
飛雲さんが言われているように「往生にさわりがないことを譬えられたのであって、心が明るく愉快な状態になることではありません。」なのです。聖道門では貪欲、瞋恚などは「往生のさはり」となるのに対して 浄土門では「全て弥陀のおん計らい」でありますので私たちそれぞれが各々もっている「貪欲、瞋恚の三毒」は「往生のさはり」とはならないのです。
また「口伝抄」には、
「たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらる」とも申され、
「貪瞋の雲・霧かりに覆ふによりて、炎王・清浄等の日光あらはれず。これによりて、〈煩悩障眼雖不能見〉(往生要集・中)とも釈し、〈已能雖破無明闇〉(正信偈)と等のたまへり。日輪の他力いたらざるほどはわれと無明を破すといふことあるべからず、無明を破せずは、また出離その期あるべからず。他力をもつて無明を破するがゆゑに、日出でてのち夜明くといふなり。これさきの光明・名号の義にこころおなじといへども、自力・他力を分別せられんために、法譬を合して、仰せごとありき」とも申されております。
つまるところこの「三会の暁」は、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」であり、「他力をもつて無明を破するがゆゑに、[乃至]これさきの光明・名号の義にこころおなじ」なのです。
なもあみだ なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2018年1月27日 (土) 00時26分