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2018年1月

2018年1月26日 (金)

愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち

絶対の幸福という創価学会パクリ信心を正当化するために、高森顕徹会長が最近よく使う根拠が、『正信偈』の

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇

です。
この意味についての解釈が、いつものように面白いです。

雲や霧がどんなに天を覆っていても、日光で雲霧の下は明るいように、欲や怒り、妬みの煩悩いっぱいあるがままで、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快である

1月15日号の顕正新聞にこのようにありますから、高森会長の解釈で間違いないです。これが絶対の幸福の境地だということなのでしょうが、創価学会の信心ではあっても真宗の信心とは無関係です。

高森会長は知らないでしょうが、親鸞聖人は『尊号真像銘文』でこの解説をなされています。

「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

往生にさわりがないことを譬えられたのであって、心が明るく愉快な状態になることではありません。
往生にさわりがなくなる譬えが二河白道の譬喩です。この譬えにおいて、信前と信後で何が変わったのかと言えば、白道に乗ったか乗らないかの違いだけです。煩悩を譬えられた水と火の勢いも白道を潤し焼いているのも変わっていませんし、白道の長さも幅も変わっていません。親鸞聖人の譬えの雲と霧を二河白道の譬喩で言い換えるなら

貪愛・瞋憎の水・火に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

です。明るく愉快になるという内容は、二河白道の譬喩にも全くありません。

それでも苦し紛れで高森流ヘンテコ理論の反論があるでしょうから、その反論を論破する根拠を出しておきます。それは同じ『尊号真像銘文』のこの前にある

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

です。「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし」「信心をうれば暁になるがごとしとしるべし」です。「」で明るさを表現なされていますが、「」とは夜中の漆黒の闇からほんのり明るくなった状態のことを言います。

『デジタル大辞泉』(小学館)では、

1 太陽の昇る前のほの暗いころ。古くは、夜半から夜の明けるころまでの時刻の推移を「あかつき」「しののめ」「あけぼの」と区分し、「あかつき」は夜深い刻限をさして用いられた。夜明け。明け方。

2 待ち望んでいたことが実現する、その際。「当選の暁には」

とあります。ここでは1の意味です。
夜深く仄暗い時を指します。ただし、街路灯や住宅、店などの照明が夜中でも消えない状態しか知らない現代の日本人には理解しにくいかもしれませんが、親鸞聖人の時代の夜は、月が見えないと漆黒で明かりがないに等しいのです。現代でそれを再現するには、窓のない部屋で照明を消した状態でしょう。そこにドアの隙間から光が洩れたような状態が「暁」です。明るさといっても、その程度のものであり、昔高森会長がよく言っていたような日本晴れの心とは程遠い明るさです。
高森会長の信心である絶対の幸福は、明るく愉快な心だそうで、子供だましの煩悩のレベルです。

高森会長の愉快な信心に付き合っている会員は、哀れ哀れです。

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2018年1月19日 (金)

「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長

会館建設による搾取システムも限界が見え始め、新規会員獲得による錬金術を模索している親鸞会ですが、思うように成果があがっていません。親鸞会の情報は至る所にありますので、訳の判らない行事を催しても、主催が親鸞会だとすぐに察知されて逃げられているのが実情です。

さて、高森顕徹会長を筆頭とする異安心集団では、親鸞聖人の教えの基本も基礎も根本も全く判っていないので、お笑い教義となっていますが、親鸞会に毒された会員と退会者が混乱している最大の要因は、念仏と信心との関係でしょう。
これまでに、何十回もこのことについては根拠を挙げて述べてきましたが、今までとは少し違う根拠で説明したいと思います。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を説明されています。少し長いですが、このように仰っています。

 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
 またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。
 またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり、「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは一、卵生 二、胎生 三、湿生 四、化生 五、有色生 六、無色生 七、有相生 八、無相生 九、非有色生 十、非無色生 十一、非有相生 十二、非無相生]にとどまるとなり、いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。
「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

(現代語訳)

『選択本願念仏集』というのは、 法然上人が著された書物である。 「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。
 また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土門という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。 「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。
 また 「当知生死之家」 ということについて、 「当知」 とはよく知るがよいということであり、 「生死之家」 とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。 「以疑為所止」 というのは、 大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、 六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、 今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。 「涅槃之城」 というのは、 安養浄土のことをいうのであり、 これは涅槃の都ということである。 「以信為能入」 というのは、 真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。 信心はさとりを開く因であり、 この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。

いわゆる三選の文と信疑決判ですが、現代語訳を読まれれば文章として難しい内容ではないと思います。念仏一行ということと信心についてまとめられたものですが、ここで注目して頂きたいのが、

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。

信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

です。
仏名をとなふる」という念仏と信心は共に、「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと仰っています。最初にも「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」とありますので、念仏正因であり、信心正因でもあるということです。

ところが高森会長の元来の教えだと、

必堕の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり

です。流石に最近はそこまでは言っていないようで、

流転の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり

くらいでしょうが。

高森顕徹流の信行両座の諍論を信じていると全く理解できない親鸞聖人のお言葉になります。しかし、念仏と信心との関係が判っていれば簡単な話です。
いつも言っているように、信心とは念仏称えて往生できると深く信じた心のことです。言葉を換えると、念仏一行と心が定まったことを信心というのです。
つまりは、信行両座の諍論とは念仏の行で救われるのか、念仏の信で救われるのかという微妙な設問であったことになります。それで法然上人のお弟子は

そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。

という状態なったのだと覚如上人は『御伝鈔』で記されたのです。

まとめると、親鸞聖人の教えは

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」と深く信じた心が、「無上涅槃をさとるたねなりとしるべし」なのです。

念仏を謗り軽視する高森会長の異安心では、絶対に理解できない内容です。

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2018年1月 9日 (火)

高森顕徹会長の言う因果の道理は無明の闇、疑情そのもの

因果の道理について解説をして欲しいとの要望がありましたので、簡単にまとめておきます。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にはこうあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

とあります。18願によって報土に往生するということは、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」ですので、因果の道理といっても3種類あることになります。

1.世間の因果
2.出世の因果
3.報土の因果

1の世間の因果とは、倫理道徳の因果です。親鸞会的にいうなら、どう生きるかについての因果になります。善い事をすれば善い結果が来ますよ、悪い事をすれば悪い結果が来ますよ、自分のやったことは自分に返ってきますよ、という親鸞会で教えていることとほとんど同じことです。

2の出世の因果は、迷いの世界を出る因果ということで、聖道門で教えられている因果の道理です。1との違いは、目的の違いだけではありません。難しい話を抜きに突き詰めると煩悩によって苦しみがやってきますので、煩悩を滅するというのが最終的な結論になります。これが通仏教でのいわゆる因果の道理になるのですが、親鸞会の因果の道理は、往生成仏という結果だけをみると2らしきことも混ざっているといえます。

しかし、親鸞聖人が教えられたのは3の報土の因果で、これは1でも2でもない全く違う道理になるのです。

『安心決定鈔』にはそれを「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。」とありますが、本来、往生という果を受けるには「衆生こそ願をもおこし行をもはげむべき」でありますが、衆生はそのような願も行もない状態で、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」なのです。

したがいまして『安心決定鈔』では3の報土の因果を、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」と表現なされているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』で

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

と仰っています。

倫理の因果の道理と聖道門の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。三悪道にいく衆生が、その因果を断ち切られて報土に往生するというのは、「おほきに因果の道理にそむけり」なのです。また「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と、出世の因果からは「言語道断」とまで言わざるを得ない程の「不思議」なのです。
更には、「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」と仰っているように、「因果相順の理」とは全く次元の違うのが報土の因果ということになります。

この報土の因果を親鸞聖人は、本願力回向で説明なされました。『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

とあり、この御言葉は、『浄土文類聚鈔』にもあります。

親鸞聖人が教えられた因果の道理とは、衆生が報土往生する因は、100%阿弥陀仏が用意なされたものであるということです。ですから、私の方で何かを付け加えることは不要ですし、付け加えようとすること自体が間違いになるのです。

世間・出世の因果と報土の因果とを同一視していることを親鸞聖人は、無明の闇とか疑情とか仏智不思議を疑う心と仰っているのですから、高森顕徹会長の教えは無明の闇の教えであり、報土往生を完全に妨げる教えです。

親鸞会で教える因果の道理に背かない限りは、報土往生はあり得ないと「知るべし」でしょう。

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2018年1月 6日 (土)

正しい解釈を全くできないで恥を曝し続ける高森顕徹会長

親鸞会と退会者の間で、この10年の間に、百回を越える法論をしてきました。結果は、親鸞会の全敗、退会者の全勝です。別に驚く結果でも何でもありません。当然の結果です。

昔、親鸞会では討論会というものをよく行っていました。あるテーマに対して、2つの主張の側に分かれて、討論をして勝者を決めるというものです。高森顕徹会長の考えでは、真実開顕には討論術が必要だということでした。かつて親鸞会が勝ち続けてきた法論と言われるものは、討論術、詭弁と呆れさせにより、勝ちを演出してきただけでした。

ところが今では、如何なる討論術、詭弁を弄しても、退会者には全く手も足も出ません。討論術、詭弁のレベルが低いからではありません。理由は、聖教を読んでいない、そして知っている僅かな聖教上の御文の解釈も破滅的であるからです。

親鸞会が法論で負けを決定的にする要因の多くが、親鸞会が自信満々に出してきた聖教上の根拠の解釈を退会者によってひっくり返されることです。

退会者はこのことを知っていますから、親鸞会に法論で勝つことは赤子の手を捻るほど容易いのです。退会者がちょっと隙を見せて親鸞会に突っ込ませると、見事に術中にはまり上から目線で根拠を出してきて墓穴を掘ってすぐに終わりです。

さて、先日の高森会長の話では、『正信偈』の

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

を出して、恥を曝しています。「」が晴れたのを絶対の幸福と高森会長は説明していますが、「」の意味が良く判っていないのです。高森会長は、「」とは、「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」と信じているようですが、違います。

まずは蓮如上人の『正信偈大意』を見てみましょう。

「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまふひかりはつねに照らしたまひて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚と、雲・霧のごとくして真実信心の天に覆へること、日光のあきらかなるを、雲・霧の覆ふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。

光(日光)」「雲霧」「闇(無明の闇)」の3つで構成された話ですが、
」=阿弥陀仏の光明
雲霧」=煩悩
ですので、
」=阿弥陀仏の救いを疑う心
となります。難しい話ではありませんので、思考停止の会員でも理解できると思います。
ただし、この阿弥陀仏の救いを疑う心が何かを会員は知りませんし、高森会長自身も判っていませんので、

無明の闇(阿弥陀仏の救いを疑う心)=後生暗い心=死に向かったら真っ暗になる心

という破滅的な勘違いをするのです。

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪

ですが、これを親鸞聖人は『正像末和讃』で、

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などとありますように、

罪福信ずる」「自力称名」「自力諸善」が「仏智不思議を疑う」(=無明の闇)です。
自力称名」も「自力諸善」も根本にあるのは阿弥陀仏の救いに対する「罪福信ずる心」(=自力)ですから、

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪=罪福信ずる心

つまり

無明の闇が晴れる=(阿弥陀仏の救いに対して)罪福信ずる心が無くなる

です。

要するに、阿弥陀仏の光明によって、阿弥陀仏の救いは因果の道理に順じていると思う闇の心を破られて、阿弥陀仏の救いは因果の道理に反していると明らかになったことを「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と仰っているのです。
煩悩に覆われている我らの心が明るくなるのではなく、因果の道理に支配された闇の心が破られるのです。もちろん、死後のことについて明るくなることもありませんし、絶対の幸福という創価学会の信心も得られません。

なお『教行信証』行巻には、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

また

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と親鸞聖人は仰っています。後の御文も行巻という真実の行である念仏についての説明の結論として仰っていますので、念仏によって「無明の闇を破し」とも親鸞聖人は仰っています。

そんなことも知らないで、善がどうのこうの、聞法善が大事だの、寝惚けたことを言って、念仏を謗り続けている高森会長と愉快な仲間達に、無明の闇が破れることはありません。まさに「知るべし」です。

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2018年1月 2日 (火)

自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

年頭所感もそうですが、昨年後半から高森顕徹会長の話の結論は、「とにかく命がけでワシの話を聞け」です。これなら批判も少ないと思ってのことでしょうが、本当に間が抜け過ぎています。

高森会長が命がけで聞けと言っている根拠として挙げているのが『歎異抄』第2条や『浄土和讃』の

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり

などですが、異安心で聖教を読んだことのない高森会長に、親鸞聖人がどのような御心でこれを仰ったのか判る筈もないでしょう。
間違いを指摘しないと、良い気になっていつまでも言い続けますので、正しい意味を教えて差し上げます。

この和讃の元になった根拠が、『教行信証』行巻にいくつか引かれています。

まずは『平等覚経』から

かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。
われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹に好きところを獲ん。
無量覚その決を授けん。
《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。
わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、
みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。
すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
(中略)
たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、
かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉

(現代語訳)

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、≪わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである≫とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。
(中略)
たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろう>と仰せになった

次に『安楽集』に引用されている曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から

もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる

(現代語訳)

もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、喜びたたえて信じれば、わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、功徳の宝を身にそなえることができる。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だから心をこめて礼拝したてまつる

更には『往生礼讃』より

弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。

(現代語訳)

阿弥陀仏の智慧の誓願は、海のようであり、限りなく深く果てしなく広い。名号を聞いて往生を欣えば、みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき、仏の名号を聞け。名号を聞いて喜びたたえるなら、みな間違いなくその国に往生することができる。

とあります。
古文も現代文も読みこなす力のない高森会長と愉快な仲間達には上記の御言葉を理解することは無理でしょうから、簡単な説明だけすると、親鸞聖人はこれらを行巻に引かれていて、化土巻には引かれていないということがポイントです。行巻は真実の行、化土巻は方便の行と信について書かれてあることは高森会長でも知っている基礎の基礎です。

つまり、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くことは、真実の行なのです。言い換えると他力の行です。

要するに、自力で命がけで聞けと親鸞聖人が仰ったのではないということです。

それと関東の同行が命がけで親鸞聖人の元まで来たのは、教え自体に対する疑問が出てきたからです。念仏では救われないのでは、念仏以外の行をしなければならないのでは、という根本的な疑問を解消するために京都まで来たのであって、親鸞聖人の御説法を聞きに命がけで来たのではないのです。

親鸞会の会員に置き換えるなら、高森会長と本願寺や退会者とは言っていることが全く違うのだから、それを確かめようと親鸞聖人の元に来る=親鸞聖人の御著書を読むことになる筈です。ところがそれをしていないのは、善鸞や他宗の僧侶の言うことを真に受けて確かめようとしないのと同じです。
親鸞聖人の仰ったことと違っていても良い、善鸞の言うことを信じます、と言っているのが現在の親鸞会会員の心です。

そんな会員に、関東の同行の心など、到底理解できないでしょう。土蔵秘事に類する高森会で搾取されながら満足するしかない会員は哀れと言うより言いようがありません。

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