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2017年12月10日 (日)

親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも通り支離滅裂です。仏教と親鸞聖人の教えの基本が判っていないからこんな話になるのだと思います。

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、

生きている時に絶対の幸福になること

としていました。元々、高森会長の言う絶対の幸福とは信楽の身になることでしたので、以前から言い続けている「若不生者」の「」を信楽に生まれさせるが、成就文の「即得往生、住不退転」から邪義と明らかになります。
『唯信鈔文意』には、

「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。

(現代語訳)

「即得往生」 は、 信心を得ればすなわち往生するということである。 すなわち往生するというのは、 不退転に住することをいう。 不退転に住するというのは、 すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。 このことを 「即得往生」 というのである。 「即」 は 「すなわち」 というのである。 「すなわち」 というのは、 時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

とありますが、お判りでしょうか。
信心をうればすなはち往生す」ですから、信楽をうれば往生する、なので、この「往生」は信楽の身に生れるではあません。もし信楽の身に生まれるなら、信楽をうれば信楽の身に生まれる、となって意味が通じなくなります。

もし、高森会長が絶対の幸福と信楽の身とは別という意味で、「住不退転」を絶対の幸福にさせるという言い方をしたとしたら、一歩前進とも言えなくもないですが、絶対の幸福自体が最初からおかしいので、訳の判らない無茶苦茶な話になってくるのです。

不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まる」と親鸞聖人が仰っていますように、

不退転=正定聚の位

ということです。
高森会長の理論でいくと

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

ですが、ここがポイントです。
現生で正定聚になると教えられたのは歴代の善知識方では親鸞聖人が初めてです。つまり、七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていませんので、

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に絶対の幸福になると教えられたのが七高僧方となります。
会員にはチンプンカンプンだと思いますが、
現生で正定聚になると親鸞聖人が教えられたのは、親鸞聖人の理論であり、独特の解釈ですから、正定聚の位に入ったという自覚も実感も確かな証拠も何もないのです。
要するに、仮に

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

だとしても、高森会長の説明するような現生で絶対の幸福になど絶対になれないのです。

妄想、空想、創価学会のパクリで創り上げた高森会長の偽の信心を正信心と騙されている会員は、一刻も早く高森会長に三下り半を突き付けてください。

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コメント

こんにちは。いつも楽しみに拝見しております。
私は親鸞会で「人生の目的=絶対の幸福=後生の一大事の解決」だと叩き込まれました。
退会し、本来の仏教を学ばせていただいた今なら、これが如何にも「テキトー」に捏ね上げた教義だとわかります。
本来、絶対の幸福なら悟りのことを言うべきだとも思えますが、そうすると更に親鸞会教義からは遠ざかるように思います。
「人生の目的」というワードも気になります。
仏法の立場から言えば、「人生に意味も、目的もない」というのが正解であり、浄土(涅槃?)で悟りに達すれば、人生に意味や目的を求める煩悩も滅するのだと思います。

投稿: | 2017年12月13日 (水) 02時00分

速やかなご対応恐縮致します。重ねて質問をさせて頂くご無礼をお許しください。七高僧方は現生で正定聚になれるとは説いていない(これは大変衝撃でした)とのことですが正信偈の証歓喜地、即時入必定、入大会衆数などは、正定聚のことではないのでしょうか?それともこれが親鸞聖人独自の解釈なのでしょうか?

投稿: 猿松 | 2018年3月28日 (水) 14時37分

猿松様

まず「証歓喜地」は、龍樹菩薩が聖道門の修行によって歓喜地を証されたということですから、これは関係ないです。
次に、「即時入必定」「入大会衆数」については、正定聚のことを親鸞聖人は仰っていますが、龍樹菩薩と天親菩薩は、信心を獲たと同時に正定聚に入るとは仰っていませんので、親鸞聖人独自の解釈ということになります。
なぜそのように親鸞聖人が仰ったのかという理由については、様々な考察がなされていますが、おそらく親鸞聖人は本願力回向という観点からそう言うべきだ、という結論を導き出されたのだろうと思います。表面上は信心を獲ても何も変わらないが、信心を獲た時に大変な功徳を頂くのだということを強調されたかったのではないかと想像しています。
これは信心を獲た後の過程について七高僧方と親鸞聖人とに解釈の違いがあるのであって、信心を獲ていない人からすれば、どちらであっても、大きな問題ではないと言えます。すべては信心を獲てからの話です。
では信心を獲た人はこれが問題になるかと言えば、問題にはなりません。阿弥陀仏におまかせしたのですから、それがどんな過程を辿ろうが、それも含めておまかせなのです。

投稿: 飛雲 | 2018年3月28日 (水) 15時13分

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