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2017年12月13日 (水)

学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

高森顕徹会長が、mixiでの法論で大惨敗を喫してより、当ブログで煽りまくった結果『なぜ生きる2』を出版したのが丁度4年前です。もちろん更なる失態を重ねて、今では、会の中で話題にさえしない駄作です。

『なぜ生きる2』は、三願転入についてがメインテーマで、
親鸞聖人の教えの根基は三願転入の教え
という、トンデモ邪義満載です。当時は三願転入を毎回話をしていた高森会長ですが、最近は根基である筈の三願転入の話を全くしません。間違いを認めざるを得なくなった高森会長の苦悩が手に取るように判ります。

さて、『なぜ生きる2』の前半には現生十種の益について書かれていますが、総益である入正定聚の益について、少し述べておきます。

親鸞会で有名な御文である『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、これを『なぜ生きる2』では

「真に知んぬ」とは、「あまりにも明らかに知らされた」聖人の驚嘆である。
「今は弥勒と肩を並べるけれども、死ねば先に仏のさとりを得るのだ」
「入正定聚の大益」を讃える、聖人の大慶喜である。

と書いています。この御文をもって、信心を獲たら絶対の幸福になると親鸞聖人が知らされたことを仰ったのだ、という寝惚けたことを高森会長は言っていますが、高森会長は『教行信証』が体験記だという認識しかないのでしょう。高森会長の愛読書である伊藤康善師の『仏敵』や大沼法竜師の著書の多くは、体験記や随筆に近いものですが、それと『教行信証』とは全く異なります。『教行信証』は学術論文です。
高森会長は、学問とは縁遠いでしょうから、学術論文の表現が体験にしか認識できないのも仕方のないことです。

学術論文には、多くの資料や引用文献があり、それらをまとめて私見を述べていくのです。親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っているのは、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容なのです。

高森会長の嘘に騙されきっている会員には、信じがたいことでしょうが、親鸞聖人が断言されている内容の大半は、体験ではなく、理論的なことです。

この御文だけでもそれが証明できます。
まことに知んぬ」にかかっているのは「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」だけではありません。「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」にもかかっています。弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験で知らされたのなら、親鸞聖人は仏の智慧を得られたことになります。しかし、親鸞聖人はこの時に仏智を得られていないことは御自身も仰っているし、常識的に考えてもないことです。ではなぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」が「まことに知んぬ」であったのかと言えば、経典にそのように説かれているからです。
同じことで、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」も経典や釈文を読み解くとこの結論になるだと明らかになったことを「まことに知んぬ」と仰っているのです。

それは七高僧方の仰っていることは異なります。信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません。もし「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が知らされなかったなら、信心を獲ていないのだとするなら、七高僧方は異安心になります。

もう一つ言うと、親鸞聖人は御自身のことはたとえ体験で知らされたとしても、他人のことまで体験で知らされることはありません。「念仏の衆生は」であって「親鸞は」でないところが重要です。親鸞聖人以外の「念仏の衆生」も「横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と体験で知らされることはあり得ません。
ついでに言うなら、『高僧和讃』で曇鸞大師について

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき

と仰り、法然上人についても

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり

と断言されています。遭われたこともない曇鸞大師の往生や、臨終に立ち会われなかった法然上人の往生を親鸞聖人は体験で知らされたのかという話です。
あるいは御消息で

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

などと、仰っていて、お弟子達の往生も断言されています。
体験上の断言ではなく、理論上の断言ですが、それが体験至上主義の高森会長には理解できなかったのでしょう。学術的素養もなく、聖教を読んだこともない高森会長には、幼稚な発想で無知な会員を騙すことしかできません。これが高森会長の実像です。

ここまで侮辱されて黙っておれるかと憤る元気があるのなら、高森会長自身でも講師でも会員でも問いませんので、学術的に反論をしてきてください。

どうぞ遠慮なく。

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コメント

「信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません」ということは、「唯可信斯高僧説」のお立場の親鸞聖人も仰っていない、ということですか?

投稿: | 2017年12月14日 (木) 20時51分

御存知の通り、七高僧方が直接仰った御言葉を読みかえられて、七高僧方が仰りたかった内容として説明されているのが親鸞聖人です。
七高僧の説を否定されていることはありません。それを踏まえられて、更に踏み込んだ解釈をされたのが親鸞聖人だということです。
仏に成るのは何時かということに関して、七高僧方と親鸞聖人の解釈は確かに違っていますが、親鸞聖人の説明では違っていない、同じだという立場です。

投稿: 飛雲 | 2017年12月14日 (木) 21時00分

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