« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

2017年12月

2017年12月13日 (水)

学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

高森顕徹会長が、mixiでの法論で大惨敗を喫してより、当ブログで煽りまくった結果『なぜ生きる2』を出版したのが丁度4年前です。もちろん更なる失態を重ねて、今では、会の中で話題にさえしない駄作です。

『なぜ生きる2』は、三願転入についてがメインテーマで、
親鸞聖人の教えの根基は三願転入の教え
という、トンデモ邪義満載です。当時は三願転入を毎回話をしていた高森会長ですが、最近は根基である筈の三願転入の話を全くしません。間違いを認めざるを得なくなった高森会長の苦悩が手に取るように判ります。

さて、『なぜ生きる2』の前半には現生十種の益について書かれていますが、総益である入正定聚の益について、少し述べておきます。

親鸞会で有名な御文である『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、これを『なぜ生きる2』では

「真に知んぬ」とは、「あまりにも明らかに知らされた」聖人の驚嘆である。
「今は弥勒と肩を並べるけれども、死ねば先に仏のさとりを得るのだ」
「入正定聚の大益」を讃える、聖人の大慶喜である。

と書いています。この御文をもって、信心を獲たら絶対の幸福になると親鸞聖人が知らされたことを仰ったのだ、という寝惚けたことを高森会長は言っていますが、高森会長は『教行信証』が体験記だという認識しかないのでしょう。高森会長の愛読書である伊藤康善師の『仏敵』や大沼法竜師の著書の多くは、体験記や随筆に近いものですが、それと『教行信証』とは全く異なります。『教行信証』は学術論文です。
高森会長は、学問とは縁遠いでしょうから、学術論文の表現が体験にしか認識できないのも仕方のないことです。

学術論文には、多くの資料や引用文献があり、それらをまとめて私見を述べていくのです。親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っているのは、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容なのです。

高森会長の嘘に騙されきっている会員には、信じがたいことでしょうが、親鸞聖人が断言されている内容の大半は、体験ではなく、理論的なことです。

この御文だけでもそれが証明できます。
まことに知んぬ」にかかっているのは「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」だけではありません。「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」にもかかっています。弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験で知らされたのなら、親鸞聖人は仏の智慧を得られたことになります。しかし、親鸞聖人はこの時に仏智を得られていないことは御自身も仰っているし、常識的に考えてもないことです。ではなぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」が「まことに知んぬ」であったのかと言えば、経典にそのように説かれているからです。
同じことで、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」も経典や釈文を読み解くとこの結論になるだと明らかになったことを「まことに知んぬ」と仰っているのです。

それは七高僧方の仰っていることは異なります。信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません。もし「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が知らされなかったなら、信心を獲ていないのだとするなら、七高僧方は異安心になります。

もう一つ言うと、親鸞聖人は御自身のことはたとえ体験で知らされたとしても、他人のことまで体験で知らされることはありません。「念仏の衆生は」であって「親鸞は」でないところが重要です。親鸞聖人以外の「念仏の衆生」も「横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と体験で知らされることはあり得ません。
ついでに言うなら、『高僧和讃』で曇鸞大師について

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき

と仰り、法然上人についても

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり

と断言されています。遭われたこともない曇鸞大師の往生や、臨終に立ち会われなかった法然上人の往生を親鸞聖人は体験で知らされたのかという話です。
あるいは御消息で

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

などと、仰っていて、お弟子達の往生も断言されています。
体験上の断言ではなく、理論上の断言ですが、それが体験至上主義の高森会長には理解できなかったのでしょう。学術的素養もなく、聖教を読んだこともない高森会長には、幼稚な発想で無知な会員を騙すことしかできません。これが高森会長の実像です。

ここまで侮辱されて黙っておれるかと憤る元気があるのなら、高森会長自身でも講師でも会員でも問いませんので、学術的に反論をしてきてください。

どうぞ遠慮なく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年12月10日 (日)

親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも通り支離滅裂です。仏教と親鸞聖人の教えの基本が判っていないからこんな話になるのだと思います。

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、

生きている時に絶対の幸福になること

としていました。元々、高森会長の言う絶対の幸福とは信楽の身になることでしたので、以前から言い続けている「若不生者」の「」を信楽に生まれさせるが、成就文の「即得往生、住不退転」から邪義と明らかになります。
『唯信鈔文意』には、

「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。

(現代語訳)

「即得往生」 は、 信心を得ればすなわち往生するということである。 すなわち往生するというのは、 不退転に住することをいう。 不退転に住するというのは、 すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。 このことを 「即得往生」 というのである。 「即」 は 「すなわち」 というのである。 「すなわち」 というのは、 時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

とありますが、お判りでしょうか。
信心をうればすなはち往生す」ですから、信楽をうれば往生する、なので、この「往生」は信楽の身に生れるではあません。もし信楽の身に生まれるなら、信楽をうれば信楽の身に生まれる、となって意味が通じなくなります。

もし、高森会長が絶対の幸福と信楽の身とは別という意味で、「住不退転」を絶対の幸福にさせるという言い方をしたとしたら、一歩前進とも言えなくもないですが、絶対の幸福自体が最初からおかしいので、訳の判らない無茶苦茶な話になってくるのです。

不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まる」と親鸞聖人が仰っていますように、

不退転=正定聚の位

ということです。
高森会長の理論でいくと

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

ですが、ここがポイントです。
現生で正定聚になると教えられたのは歴代の善知識方では親鸞聖人が初めてです。つまり、七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていませんので、

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に絶対の幸福になると教えられたのが七高僧方となります。
会員にはチンプンカンプンだと思いますが、
現生で正定聚になると親鸞聖人が教えられたのは、親鸞聖人の理論であり、独特の解釈ですから、正定聚の位に入ったという自覚も実感も確かな証拠も何もないのです。
要するに、仮に

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

だとしても、高森会長の説明するような現生で絶対の幸福になど絶対になれないのです。

妄想、空想、創価学会のパクリで創り上げた高森会長の偽の信心を正信心と騙されている会員は、一刻も早く高森会長に三下り半を突き付けてください。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »