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2017年11月

2017年11月12日 (日)

自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

本日も、毎度毎度全くと言っていいほど同じ話で、高森顕徹会長の数少ないレパートリーが更に更に減ってきました。会員は何を思って聞いているのかと質問したくなりますが、大抵の会員は、高森会長が話ができなくなるか亡くなるまでの我慢と耐え忍んでいることでしょう。自分が信心決定できるとは思っていないです。

親切心で、聖教を読んだことのない高森会長と教学を補佐する講師部員のために、少しだけ教えてあげましょう。

最近いつも出す『改邪鈔』の

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて

ですが、「共発金剛心の一念」は善導大師の『玄義分』が元になっていて、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引文されています。

『観経義』に、
「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、
果、涅槃を得んひと」といへり。

(現代語訳)

『観経疏』にいわれている(玄義分)。
 「出家のものも在家のものも、今の世の人々は、それぞれ自力の菩提心をおこしても、迷いの世界は厭い離れることが難しく、またさとりへの路は求めて得ることが難しい。みなともに他力金剛の信心をおこして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」

親鸞聖人がどのような意味で仰ったのかは、読まれた通りで、自力の菩提心、自力の信心では出離が難しいから他力の信心をおこして、仏のさとりをえなさい、ということです。

つまり、『改邪鈔』で仰っている「自力の迷情」とはその人その人の「無上の心」という自分の力で出離しようとする菩提心のことです。難しい話でも何でもないです。

ところが聖教を読んだことのない高森会長と愉快な仲間達は、

自力の迷情=後生暗い心=後生どこへ行くかわからない心

と妄想し、本日も説明しているのです。

無知の恥じ曝しも大概にしておいた方が宜しいかと思いますが、後生どこへ行くかなんてことは、仏の智慧をもってしか判らないことです。他力の信心とは後生どこへ行くかハッキリする心だ、なんて根拠はどこにもありません。

往生一定ということと、極楽が手に取るように判るようになった、阿弥陀仏のお姿が認識できた、ということとは全く違うのですが、それさえも理解できないのでしょう。

仮に、極楽や阿弥陀仏が判るようになったのなら、定善が楽々できるでしょう。

極楽も阿弥陀仏も判らないが、極楽に往生できることがハッキリ判るんだ!

と訳の判らない反論をしてくるのでしょうが、死後に往く世界も認識できないのに、極楽に往生できると認識できる訳がありません。

往生一定とは、阿弥陀仏に死んだ後のことは全ておまかせしたことであり、阿弥陀仏が必ず往生させると誓っておられるので、往生は間違いない、という以上のことではないのです。

難しい根拠を出すなら、『浄土論註』には

かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

とあります。煩悩にまみれて智慧のない下品の人には、往生とはどんなことかまるっきり理解できないのですが、その状態のまま念仏の力によって往生できるということです。

『教行信証』さえ読んだことがないのですから、『玄義分』や『浄土論註』など見たこともないでしょうが、聖教には、高森会長の異安心の証拠が山ほど書かれてあるのです。絶対の幸福とか創価学会用語を未だにパクリ続けて、それで他力の信心を語っているつもりなのですから、後々までお笑い悪知識と愉快な会として名を残してください。

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2017年11月 3日 (金)

阿弥陀仏の約束を疑わないように諸行に励む異安心集団親鸞会

先日の高森顕徹会長の講義では、自力の信心と他力の信心との違いについての話がありました。異安心の高森会長に、自力の信心・他力の信心の説明が正しくできる筈もありません。
高森会長の説明は、

自力の信心とは、阿弥陀仏の約束を疑わないようにしている信心。
他力の信心とは、阿弥陀仏から頂いた信心で、まことの心になる。

でした。
他力の信心を、聖道門のさとりのように勘違いしているところから生じる、あるいは土蔵秘事の一念覚知と混同しているところから生じる、異安心の典型的な理解です。

まず、自力の信心とは、阿弥陀仏の18願を疑わないようにしているのではなく、18願を疑っている信心です。阿弥陀仏の18願とは、前回も言いましたように、因果の道理に相反する救いであり、衆生の側には救いの因は全くなく、当然、何かをしなければならないということは皆無でありますから、救われるために私たちが何かをしようと思っていること自体が、阿弥陀仏18願を疑っているのです。

『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

にある通りです。

仮に疑わないようにしているなら、何もしない筈です。しかし、親鸞会の会員を見れば判りますが、疑わないようにしようと思いながら聞くという行や善に励んでいます。その思い、その行為が疑いそのものでありますから、高森会長の説明は全く意味不明です。

よって、他力の信心とは、阿弥陀仏が全てを用意されているので私が何かをする必要がない、阿弥陀仏に全部おまかせします、という信心です。私の心が真実の心になる訳ではありません。阿弥陀仏にそのままおまかせをしたことを、蓮如上人は「まことの心」と表現されているのであって、私たちの心が「まことの心」にはなりません。

自力の信心と他力の信心の違いを最も端的に顕わされているのが、高森会長の好きな、いや好きだった二河白道の譬えです。

御文を紹介すると長いので、今回は省略しますが、旅人が阿弥陀仏の喚び声を聞く前から聞いた後に何が変わったのかと言えば、白道に乗ったことだけです。幅四、五寸の白道は広くも短くもなっていません。水の河と火の河の波が白道を潤し焼いているのも変わりません。群賊悪獣悪知識も存在したままです。白道に乗って進む以外には、何一つ周りの状況は変わっていません。

つまりは、阿弥陀仏の喚び声に従うか従わないか、疑うか信じるかの違いだけです。

自力の信心と他力の信心の違いは、救われるために自分で何かをしなければならないと思うか思わないかの違いと言えます。

救われたなら善は必要ないが、救われるまでには善をしていかなければ信仰は進まない

とか寝惚けた妄言を信じ続けている限り、他力の信心を頂くことはありません。

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