自力と他力の水際に疎い高森顕徹会長と愉快な仲間達
猛烈な教義批判に曝されて、慄いている高森顕徹会長の最近の話は、無難な内容で誤魔化そうとしています。しかし、そこは異安心の悲しさで、無難な話のつもりでも明らかな間違いが多々あり、更なる批判を浴びているのが親鸞会です。
最近は特に聴聞の強調をしていますが、高森会長の話は「聞く」という行為に拘わっていることが大きな間違いです。高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているのですが、このことから、高森会長には自力と他力の水際が説けないと断言できます。
まず、真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「聞」とあるからです。
この「聞」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。
『教行信証』信巻に
しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
と仰っています。
また『一念多念証文』に
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。
簡単にいうと
「聞」とは、18願の教えを聞いて、疑心のない状態(=信心)
ということです。
18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になりますが、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。自力の「聞く」ことの延長に信心があるのではありません。
親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で
「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
と仰っています。「本願力回向の信心」です。本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、自力の延長上に連続してある信心でもないということです。
「本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。
この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。
高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が全く説けないのです。
もう一つ、自力の念仏と他力の念仏についても、高森会長とその信者は全くの無知です。
自力の念仏とは『教行信証』化土巻に
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
とあり、『正像末和讃』誡疑讃に
不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる
などとあるように、因果の道理を信じて称える念仏を自力の念仏と親鸞聖人は明言されているのです。一方の他力の念仏は、因果の道理とは相反する「如来の諸智」「仏智の不思議」を信じて称える念仏です。
因果の道理は仏教の教えの根幹だ、とか寝惚けたことを平然と言っている異安心の高森会長と無安心の高森信者には、以上のことは全く理解できないことでしょう。
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コメント
こんばんわ、Abcです。
親鸞会の教義は、正直ガタガタなので前や後ろから槍を指されててんやわんやになってます。
なので、飛雲さんが記されているとおり、
>猛烈な教義批判に曝されて、慄いている高森顕徹会長の最近の話は、無難な内容で誤魔化そうとしています。しかし、そこは異安心の悲しさで、無難な話のつもりでも明らかな間違いが多々あり、更なる批判を浴びているのが親鸞会です。
と評価されるのです。
まず、「絶対の幸福」のルーツにあたる学会からは、「『絶対の幸福』をそのようなものに当てはめて使うなど言語道断!」といわれていますし、
高森さんが「親鸞の教えは「信心」ではあるが、本願寺の教え方と同じではいけない」と色々考えた結果の「念仏ないから信心ひとつ」といいますと私のところの本山 専修寺から文句が飛びます。
※「念仏高田」の異名がある専修寺では「専修念仏」ということを重要視しています。(一方、本願寺では「専修念仏」を「専修正行」と申します。)その中、「念仏ないから」と申すことは、アイデンティティを崩されたと同義であるため文字通りの批判の嵐です。
真宗をあまり分かってない高森さんからすると本願寺を批判するつもりがあらぬ方向から槍が跳ね返ってきて驚いているようですが...まぁ、そんなかんじです。
最後に親鸞会の「勧行(おつとめ)」に書かれている和讃を解説してここまでといたしましょう。
原文 利他の信楽うるひとは 願に相応するゆえに 教と仏語に従えば 外の雑縁更に無し
訳文 18願を信じる人は 18願に順ずるので 浄土教(七祖本)と浄土三部経に従ったならば 外縁(浄土経以外の雑縁)に惑わされることはないのです。
決して、「諸仏が総出で 云々」という話ではありません。
なもあみだ なもあみだ
投稿: Abc | 2017年10月26日 (木) 22時25分