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2017年10月

2017年10月29日 (日)

釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、本当の自己を知るのが究極の目的で、本当の自己とは、五逆・謗法・闡提の者だという昔ながらの邪義を垂れ流した内容でした。

この邪義については過去に何十回も書いてきたことで、一口問答でも詳しく書いてきました。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
②五逆・謗法・闡提について

ここを読んで頂ければ十分ですが、今回、高森会長が言った「機の真実」という言葉について説明します。

機の真実」という言葉は、『改邪鈔』にあります。

『観無量寿経』は機の真実をあらはして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実といふは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまへり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

『観無量寿経』は、教えを受けるひとの側の真実の姿を表わし、そこに説かれた教えは定心や散心の善を表としたものである。そしてここに教えを受けるひとの真実というのは、五障を持つ婦人と悪人とが中心で、ここでは韋提希を説法の対象としておられる。

読まれた通りで、「機の真実」とは「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」のことを意味しています。「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」と五逆・謗法・闡提とは意味が違います。理解力の無い親鸞会の会員のために敢えて説明するなら、

悪人の一部に五逆・謗法・闡提がいるということです。

これでも判らないなら、『愚禿鈔』を見てみましょう。

また悪機について七種あり。
一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。

悪人には七種あり、その中の三種が五逆・謗法・闡提だということです。

簡単な話ですが、この簡単な話さえも知らないのが、高森会長なのです。

なぜ知らないのかと言えば、高森会長は聖教を全く読んだことがないのですから当たり前の結果です。

ついでですから、『改邪鈔』の続きを紹介します。

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

ここでは「機の真実」を「十悪・五逆・ 四重・謗法の機」とも言い換えられています。「十悪」と「四重」に、五逆・謗法・闡提の意味はありません。ちなみに、「四重」とは婬・偸盗・殺生・妄語の罪です。

注目すべきは、阿弥陀仏の救いは「おほきに因果の道理にそむけり」ということです。更には、「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と仰り、「因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」とまで繰り返されて、阿弥陀仏の救いが因果の道理と相反することを教えられています。

高森会長が聖教を読んだことがないと、これでハッキリしましたかね。

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2017年10月22日 (日)

自力と他力の水際に疎い高森顕徹会長と愉快な仲間達

猛烈な教義批判に曝されて、慄いている高森顕徹会長の最近の話は、無難な内容で誤魔化そうとしています。しかし、そこは異安心の悲しさで、無難な話のつもりでも明らかな間違いが多々あり、更なる批判を浴びているのが親鸞会です。

最近は特に聴聞の強調をしていますが、高森会長の話は「聞く」という行為に拘わっていることが大きな間違いです。高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているのですが、このことから、高森会長には自力と他力の水際が説けないと断言できます。

まず、真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「聞」とあるからです。
この「聞」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。

『教行信証』信巻に

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

と仰っています。
また『一念多念証文』に

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

簡単にいうと

「聞」とは、18願の教えを聞いて、疑心のない状態(=信心)

ということです。
18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になりますが、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。自力の「聞く」ことの延長に信心があるのではありません。
親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っています。「本願力回向の信心」です。本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、自力の延長上に連続してある信心でもないということです。
本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。
この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が全く説けないのです。

もう一つ、自力の念仏と他力の念仏についても、高森会長とその信者は全くの無知です。

自力の念仏とは『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあり、『正像末和讃』誡疑讃に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

などとあるように、因果の道理を信じて称える念仏を自力の念仏と親鸞聖人は明言されているのです。一方の他力の念仏は、因果の道理とは相反する「如来の諸智」「仏智の不思議」を信じて称える念仏です。

因果の道理は仏教の教えの根幹だ、とか寝惚けたことを平然と言っている異安心の高森会長と無安心の高森信者には、以上のことは全く理解できないことでしょう。

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