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2017年9月14日 (木)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い7

前回の続きです。

親鸞聖人が『教行信証』行巻に引かれている『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

ですが、これは『観経』についての説明ですので、まず、『観経』の内容について述べておきます。

『観経』に説かれていることの大半は韋提希の獲信だと錯覚しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達ですが、それを言っていることが既に『観経』を読んだことのない証拠になります。『観経』の大半は、九品往生について説かれています。
九品往生とは、上品上生から下品下生までの九通りの人の往生のことです。
具体的には散善の三福(行福・戒幅・世幅)と念仏による往生で、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を修して往生する
「中品上生」「中品中生」は、戒福を修して往生する
「中品下生」は、世福を修して往生する
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福で念仏を称えて往生する

という内容です。

これを善導大師の弟子であった懐感禅師が『釈浄土群疑論』の中で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』で

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。「極重の悪人」とは下品下生のことです。懐感禅師は、下品上生、下品中生、下品下生という軽度から極重の悪人を並べて言われたことを源信僧都は下品下生に絞って仰ったものです。その「極重の悪人」には念仏以外の方便の善は勧められず、念仏一行を勧められているということです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便の善があるということです。

高森会長と愉快な仲間達が言う、「極重の悪人」と知らされたら念仏を称えて助かるという頓珍漢な話ではなく、上品上生から中品下生にまで勧められている行福・戒福・世福の三福ができないし、しようともしない悪人のしかも最底の悪人には、念仏でしか助かる方法がないということなのです。

それでも信用しない高森会長と愉快な仲間達のために、『観経』の下品下生の御文を出しておきます。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

善知識の勧められたことは「なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし」です。そして善知識の勧められる通りに「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」の結果、「極楽世界に往生することを得」です。

これを源信僧都は「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と仰り、親鸞聖人も『高僧和讃』で

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と言い換えられ、蓮如上人もまた『正信偈大意』で

極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ

と解説なされているのです。

善知識の勧められることは

無量寿仏〔の名〕を称すべし(観経)
南無阿弥陀仏と称せしむ(観経)
ただ仏を称念して(往生要集)
ひとへに弥陀を称して(高僧和讃)
ただ弥陀を称して(正信偈大意)

と共通しています。南無阿弥陀仏と称えることで極楽に往生すると教えられるのが善知識の定義です。
一方高森会長は、

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。(なぜ生きる2)

善知識の定義とは正反対の悪知識だと小学生でも判る話です。

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コメント

脱北者の証言によると北朝鮮では外部情報は遮断され洗脳プロパガンダのみ流され、恐怖によって言いたいことを言い、考えたいことを考える自由もない生活を強いられるそうです。
そういえば高森会もそうだったと思い出すにつれあの糞バカペテン狸会長に対する怒りがこみ上げてきます。

投稿: | 2017年9月16日 (土) 21時21分

親鸞会では、お勤めで正信偈の後、ご和讃六種とそこに念仏をはさんで称えるわけです。その後御文章をあげます。先生の説法で念仏を解説されたことは体験してません。ご和讃は詳しく解説されております。しかしここ25年間”念仏について”、”そのいわれ”、法然上人をはじめいわゆる七高僧ののところでも、念仏に関して詳しい説明は全くないといっていいと断言できます。全部本願念仏で、本願に行ってしまいます。それ故豪語する日本一の二千畳にも、当然ながら念仏の御声は響きません。良く分かりませんが。
今でも源信僧都の最後の四句の説明が回りくどくて良く分からなかった印象が、強烈に残っています。だから独学で念仏を学び、いいところへ来ました。
その発端は「正信念仏偈」と「念仏正信偈」と親鸞聖人の御臨終でした。
ここから何が浮かび上がるのか、人夫々でしょうがーーーー。
なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2017年9月19日 (火) 07時56分

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